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4話


Ⅰ.懺悔

 友となりたい……と、初めてそう言ってくれた人は生まれた故郷の者でも、今居る敵国の者でもなかった……

 自他の境遇をまったく歯牙にかけない、無邪気な態度で顔を合わせるたびに話し掛けてくる。己がどれだけ友となることを望んでいるのか、周囲のことなど委細かまわず、はばからぬ声音で口にする。

 彼女の口からその類の言葉が出るたびに、通りすがった人々の目が険しく、忌々しそうに歪められるのが、とても嫌だった。

 自分への好意の為に、何の責も無い彼女が責められる立場に陥ってしまう。そのことが、頭にこびりつき、彼女からの逃亡を促す。

 だが、心のどこかで、いくら逃げても、いくら拒絶しても、変わらぬ好意を示す彼女の存在を欲していた。このまま、その純粋な好意を向けられていたいと。

 その相手の不幸も省みない、いやらしい考えに、すでに穢れた己を知る。

 清廉を義務付けられた巫女であった時にはこのような汚らわしい考えは、浮かびすらしなかっただろう。自分はこの国に来て、魂の隅から隅まで穢れてしまった。

 空を見上げ、黄金に輝く太陽を瞳に写し、寂しげに微笑む。

 巫女として主神とあがめた、天にて輝く太陽神の加護も、このような穢れた女など照らしはしないだろう……


Ⅱ.尊き令嬢

 見たもの誰もを呆れさせる豪華絢爛な後宮内。そこに迎え入れられた側室たちには無論のこと、各々が快適で優雅な生活を送るための部屋をここに用意されている。

 とは言うものの、側室の中にランクに応じて、個人の部屋の差が生まれてしまう。

 そんな中で、王子の寝室に次ぐ悪趣味なまでに派手な部屋には、当然のようにローラ・レヴァンドが主として其処に居た。

「ああぁぁ! 忌々しいッ!! あの占い女!」

 ここ数日の日課となった、憤慨の叫びが、派手な部屋の装飾品を振るわせる。

「なんなのあの女? この私の侮辱や軽蔑の言葉なんか、まるで聞こえないように無視するし! 嫌がらせをするようにって、誰に命令しようと、結局その子が泣きながら帰ってくるし……! かといって、殿下にあの女の思いつく限りの悪口を言いつけても、『あんな女のことなんか、オレは知らん!』って、いったい何なのよ!?」

 奥歯が磨り減りそうなほど歯軋りをさせながら、手近にあった枕を壁に思い切り投げつける。

 最初にあの忌々しい女占い師カシムと会ってより、毎日、思いつく限りの手段で嫌がらせを試みたものの、すべて失敗という結果に終わり、ローラ嬢の不満はピークに達しようとしていた。

 今まで、殿下が戯れに呼び寄せた下賎の民の女は、ローラが一言命令するだけで、日に日に弱り、やつれ、怯え……十日もしないうちに、姿を見せなくなるか、もしくは自殺を図ったなどという話を聞くようになった……だと言うのに、あの占い師は、弱るどころか、逆に生き生きと、毎日のように後宮内をうろうろとしてくれている。

 それが何よりローラの癇に障った。

 あまりに苛立たしいので、最初のときに刃物を見ただけで逃げ出したのを忘れたかのように、セシルに再びカシムを痛めつけるよう命令したりもしたが……当のセシルからは、件の一件でこの後宮の警備をしている女騎士エリシエルに目をつけられてしまい、不可能だ、というそっけない返事が返ってきた。

 さすがに、ローラもエリシエルに真っ向から立ち向かうわけにはいかない。たとえ相手が、市井上がりの成り上がりの騎士だとしても……彼女は、軍の上層部に気に入られているのである。そう、ローラの父ロレンツ公にすら……

 この後宮で、唯一ローラの……父上の権威の効果が及ばない相手が、エリシエルなのである。そのことも、ローラのプライドを著しく傷つけた。

「……下賎の民に、成り上がりごときに……なぜ、私のような高貴な者がこんな思いをしなくてはならないの!?」

 苛立ちに力任せに地団太を踏む……身体の内にたまった激情をこらえる術を彼女は知らなかった。そういう時は、決まって自分より立場の弱いものにそれを向け、発散することを常としていたのだから。

 そしてこのときも例外なく、そうやって発散することにする。

 ローラは苛立ちを隠さずに、手を打ち合わせメイドを呼ぶ。

 ほとんど間をおかずに、メイドが控える隣の部屋から、陰鬱な表情をしたメイドが姿を現した。

「ルビィ、ルドラを持ってきなさい」

 まるで、玉鞠でも持ってこさせるかのように『それ』を連れてくるよう命じる。

 ルビィと呼ばれたメイドは、それを聞き、泣きそうな顔になった。

「ろ、ローラお嬢様……」

「なに? 早く持ってきなさい!」

 ローラの苛立った返事に、ビクッとしながらも、勇気を振り絞り、続ける。

「お嬢様……もうルドラは限界です。ここ数日、毎日お嬢様のお相手をさせられ、もう身体がぼろぼろなんです。どうか、今日……今日だけは休ませてやってください」

 必死になって、ルビィは嘆願する。

 涙すら流しながらの、メイドの嘆願に、ローラは終始無表情にそれを聞いていた。

 そして……

「どうして、私がそんなことをしなくてはならないの?」

 あまりにも非常識なことを言われたかのように、不思議そうに尋ね返される。

「お、お嬢様!?」

「だって、ルドラはその為に私が飼ってあげて、養ってあげているのに……どうして、そのくらいのことで、私が一日も我慢しなくてはならないの?」

「お嬢様! ルドラが死んでしまってもよろしいのですか?」

 まるで別の生き物を見るような、怯えた瞳でルビィはローラを見上げる。

 そして、ローラは当たり前のように、ルビィの予想通りの答えを言ってのけた。

「そうなったら、また新しいのを買えばいいでしょう? どうせ、一匹の値段なんて私のお小遣いの何百分の一なんだから?」

「ッ!!」

 ルビィはそれを聞いてしまい、唇をかみ締め、スカートを両手でぎゅっと握り締める。

「ほら、何しているの? 早く連れてきなさい」

「……わ、わかりました」

 まるで死人のような声で、ルビィは答え、先ほどまで自分が控えていた部屋に踵を返す。

「まったく、相変わらずとろい子ねえ」

 ほとほと困り果てたという風に、幼少のころより自分に仕え続けたお傍付きの少女の背を眺め、ローラはため息をつく。

 程なくして、ルビィが再び再び姿を表す。その手には一本の縄が握られ、それは彼女に後ろについてきている一匹の中型犬の首輪に繋がっていた。

 その何の変哲も無い黒毛の犬は、しかし見るだけではっきりとわかるほどあちこちがぼろぼろとなり、怯えたように部屋に入るのを嫌がっている。

 ルビィは、まるで自分がそうされているかのような、泣きそうな顔でそんな犬の首に繋がれた縄を引っ張り、中へと誘導していく。

 その犬も、ルビィに力なく引っ張られると、抗うことなく付いて来るようになる。

「……ルドラを連れて来ました」

「そう……じゃあ、貴女はもう下がってなさい」

「……は、はい」

 一瞬、何かを言おうとするが、結局は主の言葉に従い、その場を後にする。

 扉を閉める瞬間、涙のこぼれる瞳で部屋に取り残される犬の姿を見やる。

 ローラの飼い犬であるルドラは、もう諦めたかのように黙って床に丸まっている。

 静かに扉を閉めると、ルビィは即座に目を瞑り、両手で耳を抑えその場で蹲る。

 この後の音と、悲鳴を聞かないために……

 だが、いつものようにルビィの身体は勝手に震えだした。


 肩で荒く息をしながら、ローラはようやく鞭を振るう手を休める。

 その視線の先では、たっぷりと血を吸いえぐい色になった黒毛の毛皮の塊があるだけ。

 ローラはそれにはもう目もくれず、返り血を浴びた自分の姿に眉をしかめる。

「やだわ。ドレスが台無し……これが無ければこのストレス発散も言うことないんだけど」

 とりあえず手についた血をハンカチで拭い取りながらぼやく。

 もうこのドレスは使い物にならないだろう……犬の血が付いたドレスなど、もう着る気にもならない。

 そこまで考えて、ローラの脳裏に天啓のようにあることが思い浮かんだ。

「そうだわ……そういう手もあったじゃない……」

 ローラは無邪気にその思いつきに喜び、ようやくズタ袋のようになった飼い犬に目を移す。それは、決してそれを生き物として見ている目ではなかった。


Ⅲ.蒼髮の少女

 レムン国にて、女性に限らず国民のほとんどの肌は白の色素の比率が多い。そんな中、異国の者の褐色の肌は限りなく目立つはずなのであるが……

「やれやれっと……ま~た、見失っちゃったな~」

「貴様も、思ったほど芸が無いな、これで三十四回目だぞ」

「だってさあ~、リディア君てば、逃げるのも、隠れるのも上手なんだもん」

 むくれるカシムに、エリスは苦笑して答える。

「それはしょうがない。彼女は、毎日、あのローラ嬢から逃げ隠れしなければならなかったのだから、嫌でも上達するだろう」

「なるほど、そりゃ道理だ」

 心の底から納得し、ポンッと手を打つ。

 そんなカシムに、エリスは呆れたように鉄兜の中でため息をつく。

「まったく、貴様は真剣なのか不真面目なのか……判別がつかんな」

「ははは、もちろん可愛い女の子のこととなれば、真剣の大真面目に決まってる!」

 握り拳など作りつつ、まったく説得力無く力説する。

「それが信用できたら、私の苦労も減るのだがな……それで、どうするつもりだ?」

 腕組みをして、カシムに詰問する。

「貴様がどうやって、リディアを救うつもりかは知らないが……捕まえられなくては話にもならない。違うか?」

「そうなんだよね~……ちょーと、困ってる」

「ちなみに……念のために言っておくが、私は『斬る』といったら、必ず斬るからな」

「うっ……ちなみに、時間制限は?」

 エリスの脅しに、カシムは苦笑いを浮かべる。

「特に無い……かといって、ゆっくりされても困るがな。あえて言うなら、リディアの件が手遅れになってしまってから、貴様がこの後宮から出る。すなわち、殿下の手から離れた時点で私が貴様を斬る。というつもりだ」

「う~ん、まあそれでいいか」

 あっさりと承諾してしまうカシム。その声に何の気負いも無く、ともすれば冗談を言っているだけのように聞こえる。

「さてと、それじゃあ捜索再開といきますか! 何度もいったけど、エリス君。今の俺の頼みの綱は、君のこの後宮内部の知識だ。というわけで、またまた道案内よろしく~」

 陽気なカシムの要請に、エリスは何度もついたため息をもう一度つく。

「理屈はわかるんだが……私をそう気軽に連れまわさないでくれ。こう見えても、後宮の警備は忙しいんだぞ」

「まったまた~。可愛い女の子に囲まれて、天国のような職場じゃないの。いや~、心の底から嫉ましいぐらいに」

「それは貴様に限っての話だ……実際には大変なんだぞ、たとえば……」

 と、そこまで言って、エリスはふと気配を感じ、足を止める。

「うん? どったの……て、おおう!」

 つられて振り返ったカシムが、驚きと喜びの声をあげる。

 二人の振り向いた先には、青髪の理知的な美貌の美少女がじっとこちらを見詰めていた。

「確か、ローラ君の取り巻きの一人レムス君! いやいや、リディア君の件が終わってから、声をかけようと思ってたのに、そっちから来てくれるなんて、感激だねえ」

 ニコニコと、早速親しげな言葉とともにレムスの元へ歩み寄ろうとするカシムだが、そのレムスからかなりきつい視線で睨まれる。

「……話し掛けないでください」

「おや?」

「……貴女と話している所を見られたら、私だけでなくエリス様のご迷惑になります。そんなこともわからないんですか?」

「あらら~」

 思いっきり、険のある対応に、カシムは困ったようにエリスのほうに視線を向ける。

 エリスは、おそらく鉄兜の奥で苦笑しているのだろう。やれやれという感じで、カシムに言葉をかける。

「カシム……すまないが、少し離れていてくれないか。レムスは私に話があるようだ」

「が~ん、エリス君まで~」

 心理的な擬音を自分で口にしながら、泣きまねまでし、二人から離れるカシム。

 カシムが離れるのを確認してから、レムスは先ほどまでとは一転して嬉しそうにエリスに話し掛ける。

「う~、俺に対する態度とまったく違う~」

 その様子をカシムは指をくわえて見続けていた。

 レムスが一通り話し、そしてエリスに何かを手渡すと、そこで話は終わったようで、足早にエリスの元から離れていってしまった。

「あらら、青春してるねえ」

 手渡すときエリスの手に触れた瞬間、顔を真っ赤にしたレムスの表情をはっきりと見ていたカシムが、そんな感想を漏らす。

「いやいや、エリス君てば。お堅いかと思ってたら、あんなおとなしそうな子たぶらかしたりしちゃって」

「何を言っている? レムスは、情報提供者だ」

「ふぇ?」

 本当にエリスがレムスを誘惑しているとは露ほども思っていなかったが、その真実もカシムは露ほどにも予想できていなかった。

 しばし、思考を走らせ。しばらくして納得をつける。

「ほほう、問題のありそうなグループにスパイを潜入させるなんて、エリス君てばやるう」

「それもまた人聞きが悪いな……勘違いをしないでくれ。別に私があの子に強要しているわけじゃない」

「と、いうと?」

「レムスはこの国の王室御用達の大商人の娘で、父親に無理やりこの後宮に送り込まれた」

「ふんふん」

「……そうなると、当然、今の貴様やリディアのように嫌がらせの的にされるのは目に見えていた……」

「それを、エリス君が守ってやった、てわけ?」

 カシムの言葉に、エリスは静かに首を振る。

「私はただ助言をしただけだ。自分の身を守りたいのなら……ローラ嬢に取り入れ、とな」

「ほほう、それはまた的確な助言だね……しかも、それを実行できるというのも、あの子も見かけ以上にしたたかって訳だ」

「まあな。レムスはもともと学士になりたかったのだそうだ」

 少しさびしそうにエリスは付け加える。

 たとえどのようなまばゆい夢を持とうとも、この後宮に入った時点でその夢がかなう可能性はまったく無い。

「……まあ、今言ったように私はそれほどたいしたことをしてやったわけではないのだが、レムスは私に感謝をして、こうして時々、私に情報を流してくれるようになったということだ。納得したか?」

「なるほど……控えめな優しさで、あの子を落としたってわけね。いやいや、とても参考になったよ」

「……貴様は」

 あくまでうがった見方をするカシムに、エリスは怒りを抑えたうめきを洩らす。

「……で? あの子はどんな情報を流してくれたわけ?」

「む、大抵は、ローラ嬢が何かをやらかす前にその事を知らせてくれるのだが、おそらく今回もその類だろう……」

 そうカシムに説明しながら、エリスは手に持った紙切れを広げ、中身に目を通す。

 鉄兜で表情はわからないが、そこからもれる気配が明らかに緊迫したものへと変じる。

「カシム……ついて来い」

 一言そう言い残すと、返事を待たずに歩き始めた。

 鎧を鳴らして、せかせかと歩くエリスの後をカシムはゆったりとした足運びで追う。

「ねえねえ、何があったわけ?」

 カシムの気楽な問いに、エリスが苦みばしった口調で答える。

「……ローラ嬢が、リディアを捕まえ取り囲んでいるらしい」

 それを聞き、カシムの眉はひそめられる。

 だが、それもエリスの次の言葉を聞くまでであった。

「どうやら、ローラ嬢は貴様に対して、リディアに何かをやらせるよう強要するつもりらしい……」

「はあ?」

 呆れた声に、呆れた表情。

「俺に? リディア君に何をさせるつもりなわけ?」

「さあな。そのことについては書かれていない。多分、レムスも知らないのだろう」

「は~、何を考えたのかねあの派手な姉ちゃん」

「さあな。もうすぐその場所につく。そうすれば嫌でもわかるだろう」

 お互いに話しながらも、足の運びを緩めること無く。それどころか徐々に歩く速度を上げながら、変わらぬ口調で話し合っている。

 どんどん速度は上がり、ほとんど常人が全力疾走するのと変わらない速度になったあたりで、カシムがふと鼻をぴくぴくさせ、歩を緩める。

 それに遅れて、エリスもまたそれに気づき同じく歩みを止める。

 問い掛けるようにこちらを振り返るエリスに、カシムが尋ねる。

「……エリス君も気づいた? この匂い」

「ああ……これは、血の匂いだ」


 そこからはエリスの案内の必要も無かった。

 きらびやかな後宮に似つかわしくない濃厚な地の匂いを追い、カシムはほとんどえ知ると並んで、その場へと走っていけた。

 血の匂いがどんどん濃くなり、最後の曲がり角の手前に来て、それは聞こえた。

「……ほら、早く言うとおりにしなさいよ」

 聞き覚えのある居丈高な声……

「この声は、あの派手な姉ちゃんだね」

 二人は足を止め、曲がり角からそっと声のした方を覗き見る。

 そこには、ローラとその取り巻きに囲まれた、褐色の肌の美少女の姿があった。

 取り巻きの一人が手にバケツを掲げ持ち、ローラがそれを異国の姫リディアにもつよう命じているように見える。

「何だ、あのバケツは?」

「……多分、中身は血だろうね」

 いぶしかむエリスに、いち早く血の匂いの発生源に気づいたカシムが答える。

「しかも……持ってる女の子の力の入り具合から察するに、あのバケツになみなみと血が入ってるみたいだな……あの量、かなりの人数から少しずつ採取したんじゃなかったら、人が2~3人ぐらい死んでてもおかしくないな」

 真顔でとんでもないことまで推測する。それにエリスは目を剥き、

「馬鹿な! いくらローラ嬢でも、そんなことはありえない!」

「じゃあ……結論、あれは人間の血じゃないっと」

 エリスの激昂……それでも声を抑えていた、にカシムはあっさり思考を転換させる。

 そして、指を顎に当て、

「まあ、実際のところ、あれが何の血かってことより問題なのは、あれをどう使うつもりかってことだな。まさか、この後宮のどこかで飢えた吸血鬼を餌付けしてるってわけでもないだろうし、使い道が無いだろう」

 考えても仕方が無いので、カシムは視界の端に映る集団の会話に耳を傾ける。

 会話といっても、先ほどのローラの命令を最後に、その場には重苦しい沈黙が漂っていた。どうも、ローラ以外の取り巻きの少女たちは今の状況に乗り気ではなさそうに見える。

 運悪く血の入ったバケツを持たされた少女など、今にも倒れそうなほど顔を真っ青にしている。

 ただ一人、ローラのみが意気込んだ様子でリディアの返事を待ち、そして苛々とし始めている。

 リディアの返事はいつまでも聞こえなかった。結局先に口を開いたのは、我慢が尽きたローラ嬢。

「……聞こえなかったのかしら? じゃあ、もう一度言いますわよ。この血を、どんな方法でもよろしいから、あの忌々しい占い女に引っ掛けてきなさい」

「…………」

 やはりリディアは返事をしようとしない。

 代わりに、カシムは顔をしかめ、エリスに質問する。

「あ~、大体状況はわかったが……やっぱり、占い女って……」

「貴様のことだろう」

「やっぱり……いや~、バケツ一杯の血をぶっ掛けるなんて、最近のお嬢様のいびりは過激でいらっしゃる」

「そうだな。私も正直驚いている……なおかつ、それをリディアにやらせようとはな」

 エリスの言葉に、はっきりと嫌悪の色が浮かんでいる。

 そこにまた沈黙に耐えかねたローラの声が聞こえる。

「……いったい何が不満なのかしら? 今の命令を聞きさえすれば、負け犬の貴女を私のグループに入れてあげて、ほかの子達と同格に扱ってあげるといっているのに」

 リディアはそれにも答えず。ただ己のドレスのスカートをぎゅっと握り締める。

「……カシム」

 エリスの深刻な声音。

「うん?」

「……リディアがローラ嬢の命令を聞き、行動に移したら……言い難いのだが」

 彼女には珍しく言いにくそうに口篭もる。

 だが、カシムはあっさりとその先を読み、先に答えてやる。

「黙っておとなしく、血をかけさせろってわけね。まあ、ローラ君が約束通りにリディア君への態度を改める可能性はかなり低いけど、その前にそれを失敗したりしたらさらに立場が悪くなっちゃうからね」

「……すまない」

 相変わらず気楽なカシムの返答に、エリスは頭を下げる。

 それにカシムはヒラヒラと手を振り。

「良いって、良いって。血を引っかぶるぐらい。別に死ぬわけじゃない」

 あくまで気楽に言ってのける。

「…………カシム」

 そのカシムに対して、エリスが何か声をかけようとしたその矢先に、それは聞こえた。

「……嫌です」

 儚げで、だがそれでもはっきりとした意志のこもった言葉が。

「…………」

「…………」

「あ~、エリス君。なんか今の俺らのやり取りを、根底から無に帰すような言葉が聞こえたりなんかしなかった?」

「……聞こえたな」

 呆然と見つめあい、お互いの耳が正常かどうか確かめ合う二人に、また聞こえる。

「……そのようなこと、はっきりとお断りさせていただきます」

「おいおい~」

 疲れたように、カシムはうめく。


Ⅳ.太陽の巫女

「……もう一度、言ってくださらないかしら?」

 頬とこめかみをぴくぴくとさせながら、ローラは震える声で尋ねる。

 震えているのは、無論怒りのためである。

 ありえるはずの無いことであった。この高貴な自分に、よりによってこの後宮でもっとも卑しい女が……

 だが、またもやその相手ははっきりと言った。

「お断りします。そのようなこと、私にはできません」

 今まで、取り囲めばうつむき、目も上げられなかった少女が、はっきりとこちらを見て、拒絶の言葉を発している。実際、ローラはこのときはじめて、この美少女の目が天空に輝く太陽のような黄金色であることを知った。

「……あ、あなた。何を言っているのかわかってるの? 敗戦国の生贄の貴女を、この私のグループに入れてあげようというのよ!」

 その輝きに気おされた己を叱咤し、虚勢を搾り出す。

「……そんな所……」

 ぼそりとした呟きに、ローラが耳を寄せ澄ませる。

「そんな所、少しも入りたくなどありません」

「っ!」

 はっきりとそれを聞き、ローラの顔から一瞬だけ血の気が引き、その後まるで果実のように真っ赤に染まった。

「……な、な……何ですってぇぇぇっ!?」

 ローラの絶叫に、周囲の取り巻きの少女たちもおろおろと混乱をはじめる。

 もともと、それぞれの裕福な家元で温室の中で育てられた彼女らに、予想外の状況で臨機応変に立ち回る器用さは欠片も無かった。

 ただ、ローラだけは持ち前のプライドの高さにより、それを傷つけられた怒りに任せて、リディアに食って掛かる。

「……貴女、自分の立場をわかってらっしゃるの!? 貴女は人質としてここに居るのよ!」

「そのようなこと、言われなくとも知っています」

 起死回生にと、相手を貶める言葉を吐いたにもかかわらず。リディアはあっさりと認める。まっすぐと、黄金の瞳をローラに向けて。

「……な、なによ。大体、アトゥム国なんて、戦争に負けたくせに国王陛下のお情けで国を存続させてもらってるだけじゃない。そこの王族だからって、少しも偉くないんだから」

「仰る通りです。私もそう思っています」

「……あ、貴女なんか、自国の存続のために殿下に身体を開いた汚らしい売女じゃない」

「その通りです」

「そ、そうよ。貴女は、惨めに身体を売って生きるのがお似合いなのよ。その癖に、この高貴な私に逆らう気?」

 どんな言葉を吐こうとも、リディアの瞳に圧倒されてしまう自分に苛立ちながら、震える声で罵倒を続ける。

「私は……アトゥム国の受ける責を少しでも減らすことが、王族として巫女としての務めだと、この運命を受け入れました……でも……」

 それまで、人形のようだったリディアの顔。その頬の褐色の肌に朱がさす。

 言葉に、確固とした憤慨を込め、それを目の前の女性にぶつける。

「あの方に……カシム様に何の責があるというのです!」

「なっ!?」

 言われたことより、リディアの静なる怒りにローラは仰け反る。

 そして、数瞬後にようやく言われたことを理解する。

「な、何を馬鹿なことを……決まってるじゃないの。たかが下賎の占い師の分際で、殿下を誑かし、ご寵愛を受けるなんて、とんでもない大罪よ! 責があるに決まってるわ!」

「……本当にそう思ってらっしゃるのですか?」

「何ですって?」

「本当に、あの方に責があると……殿下を誑かすためにこの後宮にきたと思っているのですか?」

「そ、それは……」

 真っ向から尋ね返され、ローラは口篭もる。

 口ではどう言おうと、さすがに真実は違うことは知っていた。

「あの方は……ただ、旅をしてこの国に訪れただけ……それだけなのに、噂が殿下の耳に止まってしまい無理やりここに連れてこられたのですよ……そのような方が、本当に殿下の正室の座を望むと思いますか?」

 まったくの正論に、ローラは思わず一歩後ろに下がる。

 だが、そのさらに後方には、己の取り巻きである少女たちが居る。これ以上弱みは見せられない。

「……そ、それが、下賎の女というものよ! 無理やり手篭めにされたからって、すぐ開き直って、身のほど知らずに欲望のまま殿下を誑かすに決まってるわ!」

「ありえません……少なくとも、あの方には」

 確固たる確信を込め、リディアは穏やかに否定する。

「貴女に何がわかるというの!?」

「わかります。だって、あの方は穢れていないから……」

 そのことを嬉しそうに、そして少し誇らしげに語る。

「あの方は、身体は傷ついていても、魂は穢れの無い清らかなままなのです」

 ローラに、そしてその取り巻きの少女らの誰一人にも、リディアの言葉の真意を悟られる者は居なかった。あの、カシムが後宮に入った最初の夜のことを知らぬ者には無理も無いことだが。

 だが、それでも、何が穢れで、どういうことが清らかであるか、それぐらいのことをわからぬほど、ローラは初心ではなかった。

 そのことだけで、ローラの視界は怒りに染まる。

「……貴女は、殿下のご寵愛を穢れだと言うの!?」

 ローラの怒りに燃える目と声を浴びせられるが、リディアは毅然とした態度を崩さず答えを返す。

「……少なくとも、私にとってはその通りです」

「ッ!!」

 何を考えるよりも、言葉にするよりも早く、ローラの手が傍らの少女が持つバケツの取っ手を掴む。

 次の瞬間に、水音が生じた……


 身体の前面に衝撃を感じ、その後鼻腔にそれまで以上に濃厚な血の匂いが刺激した。

「あっ……」

 リディアは呆然と、指先で頬をなぞる。

 その指を見ると、血まみれだった。なぞった指先だけでなく、掌も、手首も、腕も。

 嫌悪に吐き気を催しながら、その血まみれの腕で己の身体を抱きしめる。

 グチャッ、とした滑りを帯びた絹の感触……ドレスすらも血で染め上げられていた。

「あ……あ……!」

 巫女として、潔癖なまでの純潔を重んじることを教え込まされた身体が、不浄である血による穢れに反応し、ガクガクと震えだす。

 神の巫女として、生き物の血は禁忌であった。触れることすら許されないほどの。

 だのに、今リディアはその血を全身に浴びせられてしまった。

 その驚愕に震えるリディアに、怒りに染まったローラの言葉が降りかかる。

「……つまり、貴女はこの後宮にいる私も、穢れた女だというわけね」

 聞くだけで震え上がりそうな声音は、逆にリディアの性根を奮い立たせた。

 穢れに穢れた己の神性の跡に、わずかに残った誇りを胸に、リディアは意思を込めて相手の顔を見上げる。

「……それは、貴女自身が選んだことではないですか。殿下の正室になるために、後宮に来られた貴女方は、それが望みだったのでしょう?」

 言い終ると同時に頬が鳴る。

 頬にこびりついた血が、音を立てて弾けるのをリディアは肌で感じた。

 平手を打った体勢からその手を元に戻しながら、ローラはキッと相手を睨みつける。

「よくも……よくも、高貴なレヴァンド家の一員であるこの私を、売女扱いしてくれましたわね。自分の立場もわきまえずに……貴女のような方に、そのようなこと口にする権利は一片たりとも無いと言うのに!」

 今まで、幾度と無くかけられたその言葉に、今度だけは胸の中が燃え上った。

「では、貴女はどうなのですか……貴女に、カシム様を汚す権利があるというのですか!」

 声にはっきりとした怒りを乗せ、リディアがはっきりとローラを非難する。

「このっ……!」

 ローラはもう一度、今度は先ほどとは逆の頬を打ち据え、そして後方に命じる。

「貴女達! この女を抑えなさい!」

 彼女の命令に、取り巻きの中から三人の少女が即座に飛び出し、リディアの血にぬれた腕と首を掴み、動けないよう抑えた。

 それを確認し、ローラは先ほどから手にもっていた中身のほとんどをぶちまけたバケツをリディアの顔の高さまで掲げる。

 バケツの中から、ちゃぷんっという水音が小さく聞こえる。それが、まだなかにわずかにだが血が残っていることを示す。

「口を開かせなさい」

 首を掴んでいた少女の指が、リディアの顎に伸び、口を強引に開かせる。

 この期に及んで、リディアは自分がこれから何をされるか理解できていなかった。

 そんなリディアに、ローラは気味が悪くなるほど甘ったるい声を浴びせる

「以前聞いたことがありますわ。貴女のような巫女は、獣の肉を食べることを禁じられ、それを口にすることが最大の罪の一つとされていると……」

「……っ!!」

 ようやくローラの意図を悟ったリディアは、慌てて逃れようと暴れるが、非力な少女とはいえ三人がかりで抑えられた身体はピクリとも動かない。

「ぁ……ぁ……」

 リディアはその金の瞳に恐怖を湛え、徐々にバケツの淵に盛り上がっている赤い液体を見上げる。その様を、ローラは満足げに、残酷な笑みを浮かべ、さらにバケツを傾ける。

 だが……そうしようとした瞬間に、手の中からバケツが消えていた。

「え?」

 慌ててそちらを見やるローラの目に、まず入ったのは、豊かとはいえない盛り上がりに押し上げられた白い布地だった。

 さらに視線を上げると、白い肌に黒い髪……

「あ、貴女は!?」

「よっ! 楽しそうなことやってるな、ローラお嬢様」

 ローラの驚愕の視界の中で、カシムは気軽にバケツを持っていない方の手を上げ挨拶をする。

「な、なにを……貴女には関係の無いことですわ! さっさと私の視界から消えなさい!」

「おやおや、つれないね……まあ、別に用事も無いしね。従いましょう」

 てっきり、リディアを助けに現れたかと思っていたが、カシムはあっさりと引き下がる発言をする。だが、続きがあった……

「ただ、ちょっと喉が渇いててね、というわけで、これ貰うね」

「え?」

 あっけに捕らえるローラの目の前で、カシムは手に持ったバケツを口に寄せ、傾ける。

 そして、躊躇い無くその中身を口内に流し込んでいく。

「なっ!? な……な!」

 その意外な行動に、ローラはあんぐりと口をあけ、呆然と立ち尽くす。

 周囲の取り巻きも、いまだ取り押さえられているリディアも同様であった。

 誰もが、目の前の現実を理解できず、思考が停止してしまっていた。

 だから、バケツより口を離したカシムが、呆然とするローラを抱き寄せた時も、誰も反応はできなかった。

 そして、口に含んだ血が端から一筋流れる唇を寄せられる段にいたっては、ローラは正気に戻り、とっさに離れようとする。が、そのときには腰をがっしりと抱きしめられ、離れるどころか、身動き一つできない。

「や、やめ!」

 拒絶の言葉すら最後まで言えず、ローラの唇にカシムの唇が覆い被さる。

 そして、舌の先に鉄のような味……血の味が感じられ、それがどんどん口の中に流し込まれてくるのを自覚する。

「ん~っ! んーーっ! んんんっ!!」

 必死になって抵抗し、手足を振り回し、相手の背中を叩いても足を踏みつけても、その唇が離れることは無く……息苦しさが徐々にローラの身体を支配する。

 そして……その息苦しさから逃れるために、ローラの身体は自動的に喉を動かした。

 ゴクッ、コクッとローラの喉が鳴る。

 それを確認して、ようやくカシムは唇を開放する。

 何が起こったのか理解できていないローラに、悪戯好きの子供の顔で、

「ふふ~ん、お裾分け~……お味のほうはどうだった、お嬢様?」

「…………っ!」

 カシムの言葉に、数秒をかけて、己の現状を理解する。

 即、ローラの膝から力が抜け、地面に跪き……その場に嘔吐した。

 口から吐き出されたそれは、床の絨毯を真っ赤に染めた。


Ⅴ.哀怒

「ローラ様! 大丈夫ですか!」

「しっかりしてください!」

 取り巻きの少女たちに支えられ、ローラは魂が抜けたかのような有様で、カシムと呆然とするリディアの前から姿を消していった。

「おやおや、俺が消える前に、向こうのほうが消えちゃったね」

 やれやれと肩をすくめ、カシムは口の中をもごもごさせる。

 血まみれとなった口内が、やはり気持ち悪いのか眉がひそめられる。

 その様を見ながら、リディアはぼそりと呟いた。

「どうして……?」

「うん?」

「どうしてですか? どうして、そんなことを……血を飲むなんて……」

 信じられないという表情で、呆然とカシムに問い掛ける。

「ははは、何言ってるの? 君だって、血まみれじゃないの?」

「私は良いんです! それに、そういうことじゃないです」

 暢気なカシムの返事に、リディアの怒声が飛び出す。先ほど、ローラに向けられたものより、大きく鋭い。

 カシムも驚きに目を見開き、じっとリディアの顔を見る。

 褐色の肌も、ドレスも血に染まり、惨々たる有様だった。

 だが、怒りを宿した美貌は、血にまみれていようと……いや、それだからこそ、

「……きれいだなあ」

 心底からの言葉が、勝手にカシムの口から発せられる。

「な、何を!? 真面目に聞いてください!」

 その言葉を聞き、一瞬きょとんとしたものの、からかわれたと判断したのか、さらに怒りの声をあげる。

「いやいや、ふざけてなんか無いよ。それに言わせて貰えば、ふざけているのは君のほうじゃないかい?」

「え?」

「なんで、俺が血で汚れるのがいけなくて、君が血で汚れるのは良いの?」

「そ、それは……だって……」

 問いかけに、リディアは俯いてしまう。先ほどのローラとの会話と逆の立場に立たされた気分である。カシムの言っていることは、正しい。

 だが、リディアもそれがわかっていても言わなければならないことがあった。

「……私は、もうすでに汚れているから……魂も躯も穢れてしまっているから……」

 言い終わると同時に、その後続く言葉を考え、待ち構える。

 おそらくカシムは否定するだろう……それを予測してそれに対する答えを用意する。

 だが、

「なるほど、で?」

 予想に反して……カシムはあっさりと言い放つ。否定で無い言葉を。

 否定で無い……それをリディアは肯定と受け止めた。

 胸が、痛んだ。そして、まだ傷つく隙間が己の胸にあったことに少し驚く。

「そうです……私は穢れているから、もう、いくら汚れたって……」

「いやいや、そうじゃないって……」

「はい?」

 痛みをこらえて、用意した言葉にアドリブを加えて発した答えを、途中でさえぎられてしまう。

「それだけじゃ、俺は納得できないな。その次に、俺が汚れてはいけない訳が聞きたいね」

「え……」

「さっき、なにやら面白げなことをお嬢様に言ってただろ? あの続き」

「あれは……」

 リディアは口篭もる。ローラに言うのと、本人の前で言うのとではかなり気分が違う。

「……貴女が穢れていないから……」

「そう、それ。何でそんなこと思ってるわけ? そこが良くわからん」

 本気でわからないというカシムの問いに、リディアは少しムキになって答える。

「それは……貴女は純潔を自らの手で傷つけたことで、王子に貴女の魂を汚させなかった……貴女は自らの手で、魂の尊厳を守ったではないですか」

 それを見たリディアは、そんなカシムの行為を信じられなかった。

 自分はただ泣き、諦めるだけだったから……そのようなことすら考えもしなかったから。

 自らの手で自らを傷つけ、己の誇りを保つなど考えられなかった。

 だが、それをあっさりと行うカシムという女性は、目の前に存在していた。

 そして諦めしか知らない彼女は、その存在に淡い憧れを抱いた。

「だから……私は貴女に汚れて欲しくなかった。穢れて欲しくなかった……そう思ってました……なのに、なのに……」

 最後のほうは声がかすれ満足に言えなかった。

 頬に血の生暖かさとは違う熱いものが流れ、それが頬についた血を拭い取るのを感じる。

「貴女は……私などのために、穢れてしまった……どうして、そのようなことをするのですか……どうして……?」

 それからは嗚咽となり言葉にならない。

 涙を隠すように手で顔を覆ってしまったリディアの前で、カシムは居心地悪そうに後頭部を掻く。

「あ~、いろいろと言いたいことはあるが。まず最初に……俺がいつ穢れた?」

 少しきつく問い掛ける。

 リディアは、小さくしゃっくりをしながら、細々と答える。

「……血を、口にしました。人のものかもしれない血を……」

「人聞きの悪い……なんで俺がそんなことぐらいで穢れなきゃいかん?」

 憤慨をあらわに、カシムは抗議する。

「え? で、ですが……」

 まるでそのことがなんでもないかのようなカシムの言動に、リディアの方が困惑する。

「まあ、血肉に関するタブーは信仰には付き物だしね。まあしょうがないかな。でも……これははっきりと言っておくと。俺は何ものの血肉を口にしようと穢れる事はないし、恥じる事もない。それが、俺の願いにかかわることだったら尚更ね」

 そこでカシムは顔に浮かべた笑いの質を変える。楽しげでも、嬉しげでもない。まるでこちらを威嚇するような獰猛な笑み。

「俺は俺自身の願いに忠実なの。それが俺の生きる理由だし、意義だから。そしてさっきもその信条に基づきあの血を口にした……それを誰にも責められるいわれはないね。たとえ、それが君でも」

 声を荒げるでも、怒りをあらわにするでもないのに、カシムのその言葉に反論できなかった。まるで、先ほど三人がかりで押さえつけられた力の何倍もの強制力で、思考を直接拘束されたように、驚くほど速やかにリディアの思考にカシムの言葉が入り込む。

「願い……カシム様の、願いとは何なのですか?」

 それまでの彼女の人生で一度も目にした事のない笑みに目を奪われながら、リディアはそれを問い掛ける。それにカシムは心外そうな顔をする。

「やだなあ。言っただろ? リディア君と友達になることだよ」

 いつもの調子で、いつもの言葉を放つ。

 それがリディアの胸を再度痛ませた。

 この人はまだわかっていない。傷つきながら説明したというのに、まだわかってもらえていない。わからせるにはもう一度、再び自分を傷つけなければならない。

「……だから、それはできません」

「たしか、リディア君が穢れているから、てのが理由だったよね?」

「はい……その通りです」

 汚らわしいと相手の方から敬遠されることより、こうして親愛の情を込めて接近されることのほうが心苦しい場合もある。リディアの心境はそれだった。

「あの時は聞けなかったし、ついでにあれからずっとこのことを聞こうと追いかけてたんだけど……それが何?」

「え? 何、とは?」

「リディア君が穢れてることの、何が友達になれない理由になるのか、俺にはどうしてもわからないんだわ、これが」

 カシムは困ったもんだと肩をすくめる。

 それにリディアは唖然とする、まさかこのようなことを尋ねられるとは思わなかった。

「そ、それは、穢れた私なんかと友達となれば、貴女まで穢れてしまうから……」

「それはさっき言わなかった? 俺は穢れようがどうしようが、自分の望みを優先するって……」

「そんな、そのようなこと、いけません!」

 思わず声高く叫んでしまう。

「なんで?」

「貴女は、貴女は穢れていないのに……自分から穢れようとするなんて……そのようなこと、しないでください」

「ふ~ん、だから何で?」

 リディアの必死の嘆願に、カシムは適当な相槌とまったく同じ質問を繰り返す。

 わけがわからず顔を上げるリディアに、カシムは不思議そうに問い掛ける。

「何で、俺の行動をリディア君に口出しされないといけない訳?」

「え?」

「俺は、俺が願うから、リディア君と仲良くなろうとしている。俺が願い、俺が決め、俺がやろうとしていること。それに君に口出しされるいわれはないね」

「そ、そんな……」

 あまりの言葉に、リディアは愕然とする。

「俺は君と仲良くなるためだったら、どんな事だってやるつもりだ。汚れようが、穢れようが、傷つこうが……どんなことをして、どんなことになっても、君を抱きしめてあげる……こんな風に」

 言葉とともに、カシムの腕がこちらに伸びてくる。

 リディアは慌てて身を引いた。今の彼女は滴るほどの血に濡れているのだ。抱きしめられたら、その血は大量にカシムに付いてしまう。

 近づいてくる純白の長衣が血に染まることを考え、リディアはぞっとする。

「や、止めてください。近寄らないで……」

「だから、君の言うことを聞く気はないね。悪いけど、少なくとも今は……」

 背中を壁に押し付けてしまい、逃げ場を失ったリディアに、カシムが迫る。

 本能的に身を縮めるリディアの細い身体にカシムの腕がついに届き……一切の躊躇いもなしに、力を込め抱きしめる。

「やっ……いや……」

 カシムと自分の身体の間で、滑った血の感触を感じ、カシムの衣服に血が染み込む様が手にとるようにわかり、リディアは涙を流す。

「汚れます……穢れてます……」

「うん、そうかもね。でも俺には関係無い……これは君を手に入れるために必要なことだし、その為に穢れたことで恥じるつもりは一欠片もないよ」

 耳元に響く、カシムの言葉にリディアの身体から抵抗の力が消える。

「……貴女は、ひどい人です……ローラ様よりひどい事をします……」

「そう? じゃあ、リディア君はローラお嬢様のほうが良い?」

「いいえ……いいえ……」

 リディアは速やかに首を振り否定する。

 それを満足げに見つめ、カシムが再び問い掛ける。

「さて、見てのとおり俺は穢れることに何の抵抗もない……これで君と友達になれるね」

「……でも、貴女は穢れた私を知りません。魂の穢れた私が、どんなにあさましいことを考えているのか、知りません……それを知れば、貴女も穢れた私を軽蔑するでしょう」

「ほほう」

 カシムの目が、面白そうにそして挑むようにリディアに向けられる。

「つまり、リディア君は俺の目を疑ってるわけだ。俺の目がその穢れとやらを見分けられず、理解していないから、友達になるのは無理だと、そういうわけね」

「え、そんな! 違います」

 意地悪なカシムの言葉を慌てて否定する。

「ただ……私の本質は、貴女の目に映るようなものではないと……」

「それなら心配ない。俺は、俺の意志で君と友達になることを決めたんだ。たとえ、その可愛らしい顔が偽者でも、その言葉がすべてうそでも……君の魂がどんなに穢れていても、俺はそれをすべてひっくるめて受け止めてあげるよ……こんな風に」

「あ……」

 言葉の続きに、カシムはリディアの顔に口を近づけ、ぺろりと舌を這わせる。

 そこは当然血のりがべったりとこびりついている。だが、カシムはそれすら愛しそうにさらに舌で舐めていく。

 頬から始まり、目蓋の上、額から鼻筋を下がり、逆の頬に映る。

 しばらくして、一部を残して顔の大部分の血のりをすべて舐めとり満足げに顔を放す。

「うん、綺麗になった……こうやれば、いくら汚れてもすぐ綺麗になる,だろう?」

 血のりのなくなったリディアの顔を満足げに見つめ,カシムは頷く。

「うんうん、やっぱりリディア君はそういう綺麗な顔が一番だね。俺が少し汚れるだけで,その顔が見れるのなら、安いもんだよ」

「で、ですが……それでは、カシム様が汚れてしまいます」

 口元に血をべっとりとつけたカシムの顔を、リディアは悲しそうに見つめ、言う。

「おう、なるほど……じゃあ、これはリディア君に綺麗にしてもらおうかね?」

「え?」

「そうすれば、お互い綺麗になって万事解決……もし、それでまたリディア君が汚れちゃったら、また俺が綺麗にしてあげるよ」

 そういって、カシムは再び口をリディアの顔に近づける。今度は、リディアの口のホンの前に……それが何を求めているのか、リディアですら容易に判った。

「あ、あの……」

 リディアは顔を真っ赤にして、目の前のカシムの唇を見る。

「あれ、いや? それだったら、無理は言わないよ。俺」

 そのカシムのその言葉に、甘えられるほどリディアは小器用ではなかった。

 リディアは意を決し、ゆっくりと顔をカシムに近づけていく。

 カシムの唇は血が付いていた……おそらく、その口内も血まみれとなっているだろう。

 先刻のローラの言葉通り、巫女であったリディアにとって、血肉を食すことは禁忌であった。特に、血をすするなど、狂人か魔物がすることと教えられてきた。

 だからあの時必死で抵抗して、だが、今は、そのときの気持ちが嘘のように、穏やかにそれに口付ける気持ちになっていた。

 そして、リディアの唇に暖かく柔らかな感触が……

 いつまでも訪れない。

「?」

 自然に閉じていた両目をそっと開けてみる。

 すると、目の前のカシムはなぜか大きく後ろに仰け反っていた。

 良く見ると、その後ろに鉄兜が見える。

 いつのまにか背後に来ていた女騎士が、カシムの後ろ髪を引っ張ってそういう状態になったようだ……

 カシムは、痛みの所為か涙声で抗議する。

「エリス君~、君ってば、何でこういう良い雰囲気のときに邪魔するの?」

「あえて理由を言うとすれば……貴様が人の話をまったく聞かないからだ!」

「いただだたっ!」

「…………」

 リディアは呆気にとられて、目の前で大騒ぎをはじめた二人組みを見つめる。

 状況から見れば、先ほど彼女とローラがやっていたような口論であるはずなのに……ともすれば逃げ出したくなるような剣呑な雰囲気のあれとは違い、いまのこれはどこか暖かく、優しい雰囲気が感じられた。


Ⅵ.贈り物

 思いっきり引っ張られた後ろ髪をさすりながら、カシムはジト目で現況を睨む。

「う~、あんなに引っ張って~、抜けたらどうするの」

「貴様が不埒なまねをするからだ……全くの自業自得だな」

「不埒だなんて……ただ単に、ちょっと舐めっこしようとしてただけじゃない。ねえ、リディア君」

「え? ええ、と」

 それが不埒な真似なんじゃないかなと思いつつ、無難に返事を返すリディア。

「……まあいい。とりあえず、今は風呂で身体を洗うことが先決だ」

「そうだね~、俺もリディア君も汚れちゃってるし……お風呂で洗いっこをしよう!」

「……カシム、そんなに私に抜刀させたいのか?」

 素人のリディアにもはっきりとわかるほどの殺気が、エリスの身体からカシムに放たれる。……リディアはそんな二人のやり取りに少々圧倒されながら、それでも楽しそうに微笑んでいた。

 身体は血まみれとなり、ドレスの中に染み込んだ血でべたべたと布地が張り付き気持ち悪いという、散々な状態であるというのに、リディアはこの後宮に来てはじめての安らぎを感じていた。

「……もうすぐカシムの部屋だな……リディア、まず貴女が身体を洗うといい」

「え? でも……」

 まずは部屋の主が入るべきではと、リディアはカシムに目をやる。

 エリスはそんな彼女の肩に両手を置き、語りかける。

「安心するといい。貴女の入浴時には、私がカシムを見張っていよう。騎士の誇りにかけて、貴女に不埒な真似はさせない」

「え、ええと……」

 視線の意味を勘違いしているエリスに、まずどんな言葉をかければいいのか、リディアは真剣に悩んだ。

「おや? 開いてる?」

 そんな中、カシムが己の部屋の以上を見つける。

 ようやく通路の先に見えてきたカシムの部屋は、扉が開け放たれていた。

「……ええと、俺は出るときちゃんと扉を閉めたよね?」

「ああ、確かにそうだったな」

 そのときいっしょだったエリスが肯定する。

「と、いうことは。開けたままにしているのはレフィ君か……珍しいね。あの子が戸締りを忘れるなんて……」

「そうだな……レフィリアがそんな基本的なことを忘れるなどとな……」

 何気なさそうに二人で言い合いながら、二人の足はどんどん加速していく。

 リディアがあっさりと置いていかれる。

 彼女を残し、二人は流れるように開け放たれた扉の中に滑り込む。

 そして、第一声は少し気の抜けた声だった。

「何だ、居るじゃないレフィ君ってば?」

 扉から見える位置に座り込んでいるレフィの背中に、カシムが安堵の声をかける。

 だが返事はない。

 カシムが第二声を放つ前に、エリスが注意を呼びかける。

「カシム……その向こうを見ろ」

「うん? ……おやまあ!」

 言われたとおり視界を移動したカシムは、驚きというか呆れた声をあげる。

 そこには、カシムの為に用意された……一度も袖を通していないドレスが山と積み上げられたいた……ご丁寧にも、その一着一着をずたずたに切り裂いて。

「……ひどい」

 ようやく追いついたリディアが、それを目にして泣きそうな声でそう呟く。

「やれやれ、ローラお嬢様の考えていたことの正体はこれか」

「どういうことだ?」

「つまり、事前に俺の着替えをすべて使い物にできなくしてから……リディア君に俺の服を血をぶっ掛けてだめにさせる……すると、後宮内で俺の着る物が一着もなくなる、という寸法だったんだろうね」

 子供じみた悪戯のようであり……その実かなり根の深い行為である。

 この後宮で着替えを無くしたからといって、自分で調達してくることはできない。

 貴族の娘などであれば、家元から送ってもらえる場合もあるが……カシムにはそんなこと不可能である。つまり、着替えを手に入れるためには、誰か別の側室に頼んで譲ってもらうしかないのである。

 そして、ローラはこの後宮のほとんどの者に支配力を持っている。

 つまり、誰も貸し手がない……カシムは裸で生活を強いられることになったかもしれないのである。

「やれやれ……ま、あのお嬢様じゃあこれくらいが関の山か……さて、レフィ君、大丈夫かい?」

 ため息をつきながら、レフィに呼びかけるが、反応はない。

「レフィ君?」

「レフィリア?」

 カシムと、そしてエリスの声も加わるが、レフィは反応を返さず、ただ何かを呟くのみ。

「あ……あ、あれ……う……」

「おいおい、レフィ君、どうしちゃったの?」

 さすがにカシムも慌てて、レフィのそばに駆け寄る。

 それでもこちらを見ないレフィの口元に、カシムは耳を寄せる。

 少し鮮明になった呟きはこんなものだった。

「あ……あれ……片付け……ら……動い……」

「ふむ……」

 カシムは少し考え込むと、おもむろにレフィの額に指先を突きつける。

「レフィ君」

 返事はない。だがカシムは、優しい声で、

「お疲れ様。もうお休み」

 言葉とともに、レフィの身体はその場に崩れ落ち、すぐに安らかな寝息を始める。

「さて……と。原因は、あのドレスの残骸の山か?」

 眠りの術が成功したのを確認すると、カシムはその残骸の山に向かう。

 向かいながら、後方のエリスに声をかける。

「エリス君、悪いけどレフィ君をどっかで休ませてくれないかな……後、リディア君のお風呂の件も、どうもここじゃあ無理みたいだし……頼める?」

 あの残骸の山に何があるのかはわからないが、それがレフィをあの状態に追い込んだことは間違いない……そして、それをリディアに見せれば、彼女も同じ状態に追い込むことになるかもしれない。

 その事を察したエリスは、即座にカシムの頼みを承諾した。

「わかった……リディア、行こう」

 レフィの身体を抱き上げながら、リディアに呼びかける。

「でも……カシム様は?」

「奴なら大丈夫だ……風呂は、私の部屋にもついているから、そこに入ると良い」

 躊躇うリディアを、やや強引に部屋の外に連れ出していく。

 それを見送り、それからカシムは残骸の山に歩いていく。

 近づいていくと、ほんの小さい動きであるが、その山が震えるように動いていることに気づいた。

「ほほう……さてさて、何が出てくるやら……」

 カシムは躊躇いなしに、動きの核と思しき部分のドレスの残骸をかき分ける。

 そして、現れたものに……カシムの口元はこれ以上ないというほど皮肉げな笑みを浮かべる。

「……なるほど……『あれ』は、犬の血というわけか」

 そう、残骸の山の中でうごめいていたのは……黒毛の犬だった。

 それも、体中をずたずたに引き裂かれた……だと言うのに、傷口からほとんど血が流れていない……流れるだけの血を絞り取られたかのような有様。

 それでも……その犬は、苦しげにもがくように、うごめいていた。

「やれやれ……へたくそに切り刻んでまあ……おかげで、この犬君もこんなに苦しんでるのに死ねないでいるよ」

 哀れみの視線で、その犬を眺めながら、呟く。

 弱々しい犬の瞳をじっと見ながら、カシムはしゃがみ、その犬の顔に手を差し伸べる。

「さて……あのバケツの血の量は、人間でも死に至るほどの量があった。だと言うのに、君は生きて……そしてあがいている。その生への執着は何かな?」

 まるで人間にするように、ゆっくりと語りかける。

 もちろん犬は答えないが、その瞳をカシムに固定する。

「何かやり残したことがある……やらなければならない事がある……やりたいことがある……そんな所かい?」

 犬は言葉では答えられない。その代わりに、犬は差し伸べられた手に噛み付いた。

「なるほど……」

 カシムが軽くてを動かすと、あっさりと犬の口は離れる。

 もともと、噛み付くだけの力が無いのである。

「それが答えか……それなら、俺も協力しよう……」

 噛まれた手と、もう片方の手で犬の顔を挟み、上を向かせる。

「それに……さすがに俺も少々腹が立っていてね……」

 そう言いながら、犬の口に、自分の唇を近づける。

 そして、呪文のような言葉を口ずさむ。

「では君に、力を与えよう……望みをかなえる力を……」

 苦しげな、犬の生臭い息を感じながら、平静な声で続ける。

「君の願いに……魔女の呪いと、祝福を……」

 言い終わると、優しい動きで犬の口先に己の唇を押し付ける。まるで愛しい者にキスをするかのように……


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