表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

2話


「失礼します」

 丁寧な挨拶とともに、音も立てずに扉が開く。

 ゆっくりと開いていく扉から、するりと姿をあらわしたのは……フリルのあしらわれた黒と白を基調にしたエプロンドレスに身を包んだ……

「うわっ、メイドさんだよ」

 カシムは思わず感嘆の声をあげてしまう。

 そういう職業が存在すると聞いてはいたものの、実物を見るのは初めてなのである。

「はい?」

 そんなカシムの感動のほどをわかるはずもないそのメイドはかわいらしく首を傾げる。

「あ、いやいや、こっちの話。こんにちは、可愛らしいメイドさん。名前を聞いても良いかな?」

 物怖じもせず、平然と親しげに話してくるカシムに、今度はメイドの方が驚かされる。

 この後宮に来たものは、不安にびくびくと臆病になった者か、もしくは己が王族の側室という特別な存在になったのだという特権意識から、居丈高にメイドに命令する者の二種類に分かれていた。

 この、自分が新たに身の回りを任されたカシムという新たな側室は、そのどれとも違っていた。まるで同じメイド仲間、いやそれ以上に気安く話し掛けてくる。

「は、はあ、レフィリア・ソウラと申します。この度、カシム様の身の回りのお世話をするよう言いつけられました貴女様専属のメイドです。どうぞ、よろしくお願いします」

 徹底的なまでに叩き込まれた礼儀作法に則り、主人に対する礼をカシムに向かってする。

 それは教えられた中で、最上級に分類される礼だったのだが、相手はまったくそれには気を払わなかった。

「ふ~ん、レフィリアね……てことはレフィかな? それともリリアのほうが良いかな?」

「はい?」

 今まで経験したこともない、想定外の事態にレフィリアは困惑を隠し切れなかった。

「う~ん、俺的にリリアのほうが良さげに思うんだが……ねえねえ、君、親しい友達とかに自分のことなんて呼ばせてるの?」

「……ええと、レフィの方で呼ばれています……が、それが?」

「ん、じゃあ、俺もレフィって呼ぼうかね」

 ニコニコと勝手に結論を述べる。

「は、はい。それはかまいませんが……」

 呆然と返事をするレフィリア。

 主人とメイドが必要以上に親しくするのはまずいのだが、まあ、メイドの名前を短縮するぐらいは問題はないだろう。その逆は不可であるが。

「よし、じゃあ、レフィも俺のことをカシムって呼ぶよーに」

 その禁忌を、あっさりと踏みにじる発言をするカシムにレフィは立ちくらみを感じる。

「い、いけません!」

 思わず声高に叫んでしまった。

 カシムの驚いた顔に、自分のメイドにあるまじき行為に口を抑える。

「も、申し訳ありません! 主に口答えをするなど、とんでもない無礼を!」

 深々と頭を垂れ、必死になって謝罪する。

 そんな相手の様子を、居心地悪そうに眺め、ぽりぽりと頬を掻く。

「あ~、無礼うんぬんは、どうでも良いからさ、できたら呼び捨てできない理由を言ってくれないかな?」

 商売用でなく、威嚇用でもない、まじりっけなしに純粋に微笑みかけてやると、レフィは真っ赤になってうつむいてしまう。

 そんな彼女の可愛らしいしぐさに、カシムの機嫌は再現なしに上昇していく。

「ほらほら、恥ずかしがらないで、理由を聴いて納得したら、もう二度といわないからね」

 安心させるようなカシムの言葉に、レフィはおずおずと口を動かす。

「……叱られます」

「ほう、なんで?」

「その……メイドがお仕えすべき主人を呼び捨てにするなど……もし、それをメイド頭に知られたら、叱られてしまうんです。だから、それだけはできません」

「う~ん、叱られちゃうかあ……だったら、無理もいえないね」

「すみません」

 再度頭を下げ、謝りながら、どうやらカシムが諦める様子であることにほっと胸をなでおろす。が、それはあまりに甘かった。

「でもね。それはこっちも同じなんだよね」

「は?」

「俺もな、師匠の言いつけで、可愛い女の子とはもれなく親密になるように、と厳命されているんだ……だというのに、レフィ君みたいな可愛い子に“様”だなんて他人行儀な呼び方をさせてるって知られたら……」

「ど、どうなるんですか?」

「最低、殺されるな」

 真剣な表情でボソリと呟く。

「最低で……それですか?」

「無論、あっさり苦しめもせずに殺すなんて下の下だね。師匠だったら、誰もが思いつかないような苦しめ方で、徹底的に相手を苦しめ、発狂死させることぐらいお手の物だ……はあ、レフィ君があんまりつれないものだから、俺も明日には師匠の哀れな犠牲者の一人か……」

「そ、そんなぁ……」

 大仰に涙を流して世を儚むカシムに、レフィはまともに顔色を変える。

 レフィの困惑気味を確認して、カシムはころっと表情を一転させ、身を乗り出す。

「それで提案だけど、お互い譲れない立場にいるわけだから、ここは一つ最低ラインまでお互い譲歩するってのはどうだろう?」

「譲歩……?」

 あまりの変化についていけず、きょとんとするレフィにさらに畳み掛ける。

「そ、レフィ君が俺を『カシム様』て呼ぶのは、そのメイド頭や他人の前だったらしょうがない……でも、二人っきりの時は、俺のことを『カシム』と呼んで、仲の良い……友人として接すること、これで問題ないだろ?」

「え? え?」

 鼻の先が触れ合うほど間近にまで、カシムの顔に接近され、パニックに陥るレフィは、まともに思考すらできない。

 そこにカシムに耳元にさらに追い討ちをかけられ、

「……な、いいだろ? レフィ君」

「は……はい」

 耳たぶにかかる吐息に背筋を震わせながら、ついそう返事をしてしまう。

「ふふーん」

 カシムの嬉しげで、誇らしげな笑み。

 ご満悦の表情で、レフィの細い腰を引き寄せる。

「あっ!?」

 先ほどの困惑が尾を引き、なすがままに抱き寄せられてしまう。

「あ、あの、カシム様?」

「ふふ、違うだろ、レフィ君……今は二人っきりだよ?」

「あ、カ、カシム……さん」

「ん~、まあ今はそれでいいか……で、何?」

「あの……離してもらえませんか?」

「なんで?」

 当たり前のレフィの要求に、これまた当たり前のようにカシムが返す。

「なぜって……その、どうしてこんな風に抱きしめたり?」

「うん? 友人に抱擁するのって、そんなにおかしい?」

「いえ……おかしくはない、と思います。たぶん」

「じゃあ、問題なしだね」

「え? あの~」

 話は終わりとばかりに、カシムの手がレフィの背中を好き勝手に撫で始める。

 それに困り果てるレフィだが、まさか主を突き飛ばすわけには行かない。だが、やんわりと引き剥がそうにも、存外にこのカシムという女性は力が強いようでびくともしない。

「カ、カシムさん、あの、私、これからお仕事が……」

「はて? レフィ君のお仕事は俺の世話じゃなかったの?」

「そうです」

「じゃあこれも仕事の内だね」

「そ、その、困ります」

「う~ん、そう? 困っちゃう?」

「はい、すみません」

 いくらカシムの世話が仕事とはいえ、こうしてカシムの傍にいる以外にも仕事は山ほどある。

「う~ん、じゃあさ、キス一回で離してあげる」

「ええっ! じょ、冗談、ですよね?」

 そうであって欲しかったが、現実はレフィに厳しかった。

「ううん、キスしてくれないと、離してやんない」

「そ、そんな~。困ります」

 あせあせと、レフィは何とか許してもらおうと懇願する。が、カシムはまったく構わず。

「ふふーん、俺が離さなくても困るんだよね? さあ、どっちを選ぶ?」

「ふえ~ん、もう許してください」

「ははは、泣いたってだめ~」

 とうとう涙目になったレフィに、上機嫌に笑うカシム。もうほとんど、いじめっ子といじめられっ子である。


 そんないじめられっ子に救いの手が唐突に訪れる。

「いいかげんにしろ、カシム」

「おや?」

 聞き覚えのある声に、カシムが振り返ると扉がいつのまにか開いており、そこには全身鎧に鉄兜で身を固めた騎士の姿があった。そのいかめしい格好では判別がつかないが、その兜の中身はりりしい女騎士であることを、カシムは知っている。

「え、エリシエル様……きゃっ!」

 エリスの登場にカシムの力が緩んだことと、抱きしめられている自分をエリスに見られてしまったという恥ずかしさから、レフィはカシムの腕からの脱出に成功する。

「あらら……まあ、いいか。約束じゃあ、二人きりのときだけってことだしね」

 離れてしまったレフィに少しだけ残念そうにしながら、身体をエリスに向ける。

「……で、何か用? エリス君」

 まるで先ほどのことが無かったかのように平然としたカシムの態度に、エリスは苦々しげにため息をつく。

「……別にたいした用は無い。少し、警告しておこうと思ってな」

 咳払いを一つして、気を取り直し、カシムの顔を真っ向から見据える。

「わかっているだろうが、この後宮に一度入ったからには、自分の意志で出ることはできない。出る方法は、殿下のお許しを得るか、それとも殿下に追放されるか、もしくは死ぬか、だ」

「ふんふん、まあそんなとこだろうとは、思ってたよ」

 十分に脅しをこめていったつもりなのだが、カシムはまったく堪えた様子は無い。逆に、傍らに控えたレフィの方が、その言葉に顔を真っ青にして立ち尽くしている。

「もちろん貴様のことだから、自ら命を絶つ、ということはありえないだろう。となると、残るのは二つだ……」

「んで、さっきの王子様との面会にて、俺の印象は最悪、とくる」

 まだ話を始めたばかりだというのに、あっさりと話の核心を先取りされる。

 聡い……。エリスは鉄兜の奥で微笑む。

 ほとんど確信していたことだが、やはりただの旅の占い師ではない。

「そうだ……貴様が殿下に与えた印象は、私の知りうる限り最悪のものだ。あの後の殿下の不機嫌さは、気絶していた貴様は見てないだろうがな……そこで言っていたことだが、無礼を働いた貴様は、今夜、徹底的に思い知らせてやるそうだ」

「ほほう」

「そ、そんな!」

 この期に及んでも平然としたカシムはともかく、レフィは主のこの後の余りな運命に涙ぐみ、非難の声をあげる。

 エリスはそのレフィの反応に好感を抱きながら、勤めて無感情に話を続ける。

「そこでだ……もはや、貴様がこのまま殿下の側室になるということは無い。つまり、今夜、殿下が満足なされ、気が済めば……貴様に対する殿下の興味も完全になくなり、晴れてこの後宮から出られることとなるだろう」

 そこで、じろりとカシムの顔を睨み据え。

「……貴様が、妙なことをしでかさないかぎりな」

 実際それこそが、カシムに残された唯一の開放されるチャンスである。

 そこで、下手にレイド王子を怒らせる、もしくはさらに興味を持たれるようなことをしでかせば、そのチャンスは無に帰す。

 そして……このカシムという女は、まず間違いなく面白がってそういう馬鹿な事をしでかすのである。エリスは、カシムとの本当に短い時間の接触でそれを理解していた。

「もうわかったな。貴様が少しでも、この後宮で一生を過ごしたくないと思っているなら……今夜一晩、何をされようがおとなしくされるがままにしていろ! わかったな」

「……わかったよ」

 反論されると思っていた。自分がいかに最悪なことをいっているか、何より自分で理解しているからだ。黙って身体を許せなどと。

 だから、カシムの初めて聞くしおらしい返事に、まずエリスが己が耳を疑った。

「カシム……?」

「わかってるよ。それしか方法が無いってことも……そうだよね。諦めるしかないよな」

「あ……」

 その寂しげな表情に、エリスは相手が自分と同じか年下の、うら若い少女であることをいまさらながら思い出す。

 そして、本人の口から聞いた言葉……このカシムが男を知らない穢れ無き身体であるということ。

「……まあ、それほど大事だと思ってたわけじゃないけど、ね。やっぱり、あいつ以外の奴に与えることになるなんてな……」

「…………」

 あいつ……聞かなくてもわかる。おそらく将来を誓い合った男性なのだろう。

 エリスは己の鈍さに嫌気がさした。いかに平然と振舞っていようが、このような状況で平気なはずが無いではないか。

「ガーランド……あいつがこれを知ったら、なんて言うかな……それを考えたら、ずっとここにいた方がいいのかな、なんてな」

「カシム様……」

 自虐的なカシムの言葉に、レフィが涙ぐみながらその手にそっと自分の手を重ねる。

 このあまりに可哀想な主に、少しでも安らぎを与えたい。そう心から思った。

 のだが……。

「…………なーんて、雰囲気出してもなあ。どうもいかん、俺には似合わんし、自分でも鳥肌立ってきた」

「…………」

「…………」

 唐突に、コロッと普段の態度に戻り、鳥肌の立った自分の腕を掻き始めたカシムに、展開に取り残された二人はなすすべなく固まる。

 何かが、思い切り欠けてしまった穴だらけの思考を復活させるのは、エリスの方がわずかに早かった。

 震える声で、とりあえず尋ねたことは、

「……さっき言ったガーランドというのは何だ?」

「うん? ああ、あれ、場を盛り上げるために適当に即興で考えた名前。特に意味なし」

 平然と返され、エリスの中で盛大にぶちきれるものがあった。

「……もういい!! 貴様などに警告など無意味だったな! 好きにするが良い!」

 そう怒鳴りつけ、身を翻し部屋を出ようとするその背に、カシムの声がかかる。

「ああ、そうそう。エリス君が俺を昏倒させたこと、ぜんぜん気にしてないからね」

 ドアに手をかけたまま、思わず足を止めてしまう。

「ここに来たのも、それが気になったからでもあるんだろ? 大丈夫、ほとんど痛くなかったからさ、いやいやすごいスキルだね。今度教えてよ」

 まるで、多々なることで思い悩むことをあざ笑うかのように、飄々としたカシムの言葉がなぜか拒絶できずにエリスの中に浸透していく。

「ふふーん、そんな俺なんかに気を使う、優しいエリス君って可愛いね。……愛してるよ」

「っ!!」

 衝動的に満身の力をこめ、扉を叩きつけるように閉める。

 粉々に砕けそうなほどの衝撃に生じた轟音だが、カシムの最後の言葉をさえぎるにはあまりに遅すぎた。

 耳に残ったその言葉を振り切るように、エリスは足早にその場を後にする。


 扉どころか部屋全体が壊れるかのような衝撃と、その後聞こえる足音高に遠のくエリスの気配に、カシムはたまりかねたように含み笑いをもらす。

 めったに聞くことの無い荒々しい轟音に身をすくませていたレフィは、そんなカシムをとがめるように、少しだけ睨む。

「カシム様……エリシエル様のことがお嫌いで?」

「様?」

「……カシムさん」

「そうそう……で、エリス君が嫌いかだって? ははは、もちろん大好きに決まってるだろうに」

 ごく当たり前のことのように、ぬけぬけと言ってのける。

 レフィの方も、それで納得はもちろんしない。

「その割には、ずいぶんエリシエル様にきつくあたっているように見えましたが?」

「きつく? どこが?」

 本当に心当たりの無いといった風に、きょとんとする。

「あの方は、カシムさんを本当に心配しておられたのに、あんなふうにからかわれて……怒るのは当然だと思います」

 エリス同様、レフィ自身もカシムの境遇に同情を感じていただけに、憤慨する気持ちは抑え様が無い。

 いつのまにか、最初あれだけ気にしていた主従の関係もやや希薄になりつつある。

 それは、カシムが望んでいたことであるのだが、レフィにその自覚はない。

 カシムは嬉しそうに、膨れるレフィの相手をする。

「ははは、エリス君のそういうところが可愛いんじゃないか」

「もう……エリシエル様って怖い方なんですよ。どうなったって、私は知りませんからね」

 もう付き合いきれないとばかりに、唇を尖らせつんっと顔をそらす。

「怖いって、エリス君が?」

「ええ、そうですよ。エリシエル様は、ここに来る前は騎士団で一二を争う強豪だったそうなんですから」

「ほほう、どおりで強いと思った。でも、『怖い』ねえ……ひょっとしてレフィ君、エリス君の素顔を見たこと無い、とか?」

 唐突な質問に、首をひね考え込む。

「……はい、ありませんけど?」

「だったら、わからないか。エリス君の素顔を一度見たら、そんなことなんかもうどうでも良いって感じるよ、きっと」

「はあ…………ええと、あの、ひょっとしてエリシエル様って……美人なんですか?」

 しばし黙考の後、おずおずと質問してくる。

「うん、とっても……やっぱり見たこと無かったか」

「ええ、あの方はいつも兜の面当てをおろしたままにしているので、一度も見たことはありません。たぶんこの後宮にいる者の大半がそうだと思います」

「いやいや、もったいない話だねえ。いや、そんなエリス君の素顔を見れたオレが幸運なのかね……しかし、レフィ君、エリス君が美人だってこと、意外そうだったけど、なんか理由でもあるの?」

 カシムの質問に、レフィは言いにくそうに答える。

「ええ、その……噂でなんですが、エリシエル様がレイド殿下のお傍付きに任命されたのは……その、殿下が絶対に手を出さないような容姿だから、だとか。そういう噂が」

「なるほど、兜の奥の顔は醜女と、そういうわけね」

「はい、そういう噂が……」

 もともとこういう陰口じみた会話は苦手なのだろう、どこか居心地悪げにそわそわとしてレフィは答える。

「その、先輩のメイドの話では、エリシエル様がレイド殿下の寝室に呼ばれたことは、一度も無いだとかで、それが噂の原因だと思います」

「へえ、あの容姿だからてっきり、あのチンピラ王子に権威を笠にことある度に相手をさせられてるかと思ってたが……ふむふむ、興味深い話だ」

「チンピラ……」

 この国の王族、そしてこの後宮で一番の権力者をチンピラ呼ばわりするカシムに、レフィは眩暈を感じる。

 このときになってようやくエリスがカシムの何を心配していたのかを痛いほど理解した。


 一度打ち解けると、その後はなし崩しに互いの……というか、レフィが一方的に打ち立てていた主従の垣根は崩れていった。

 他のメイドと共同の仕事などで部屋を出るとき以外、カシムはレフィに絶えず話し掛け、そしてレフィもその一つ一つに膨れたり、笑ったり……時には怒ったり、穏やかな時間が過ぎて行く。

 そんな時間も、窓からさす光が衰え、薄暗い夜が訪れるまでであった。

 カシムの寝室の扉が、丁寧にノックされる。

 部屋の中にはカシムと、そしてレフィ……つまり、このノックはレフィではないということ。

 カシムにボディラインのことをからかわれ、涙を流しながら憤慨していたレフィは、即座に態度を切り替え、扉へと歩み寄る。

 扉を開けると、そこには同期のメイドがいた。

「何用でしょうか?」

 丁寧語を使う仲でもないのであるが、仕事中であるためこのような言葉遣いとなる。

 相手ももちろんそれと同じく。

「カシム様への御伝言です。半刻後にレイド殿下の寝室に来られるようにと」

「っ!?」

 それをおかしいことなどではなかった。先ほどエリスもこのことを示唆していたのだから。だが、レフィはカシムの変わらぬ態度にその未来を頭の奥にしまいこんでいた。

 だが、レフィがいかに否定しようと訪れるべき未来は訪れる。

 同期のメイドは、同僚の異変に気づきながらそのまま礼をして扉を閉める。

 レフィは閉じられた扉を前にしばし呆然とする。

「おっ、その様子だと来たみたいだね。いつ来いって?」

「……半刻後……だそうです」

 カシムのように平静を装おうとするも、どうしても声が震えてしまう。

「ほうほう……じゃあ、もう準備をしないといけないかね」

 平然としたカシムになぜか腹が立ち、レフィの唇は勝手に質問をつむぐ。

「……哀しく、無いんですか?」

「うん?」

「さっき、冗談交じりに言ってましたけど……初めて、何でしょう?」

「そだよ。……師匠が意識の無い俺からそれを無理やり奪ったりしてない限り、俺は正真正銘の処女、のはずだ」

「どういう人なんですか、その人?」

「無類の女好き、あんな奴の元で俺みたいなまっすぐな人格形成の乙女が生成されたなんて、まさにこの世の不思議だな」

「そ、それは……じゃなくて、始めてだったら、それはとても大切なものでしょう。それを、こんな風に……失うことが哀しくないんですか!?」

 声を荒げて訴えるレフィを、カシムは不思議そうに眺める。

 そしてしばし考えて……ポンッと手を打つ。

「あ~、あ~、そういえば、あれって結構大事なものだったんだよな。関係ないから、すっかり失念していた」

「失念って……」

「ふむふむ、そうなるとあんなチンピラに、そんな大事なものと思しきものをくれてやるのは、ちょっと癪だな……さて、どうするか」

「あ、あの、私が言っているのはそういうことでは……えと、そういうことなのかなあ?」

 首をひねるレフィは、どことなく自分がとんでもないことをしでかしてしまったのではないか、などという不安に襲われる。楽しそうに、考え込むカシムの姿を見ると、なぜか。

 そのカシムは、ふと首をめぐらし、周囲の部屋の内装を見渡す……まるで何かを求めるように。そしてその目が止まったその先には……

「ふふーん、いいのみーけっ!」

 レフィは慌ててその視線の先に、自らも目を向けるが、何がカシムの興味を引いたのか判別かつかなかった。

 そこにあるのは、小物入れも兼ねた台座に、その上に乗っているかぐわしい生花のさされた円筒状の花瓶……

 わけもわからず、そちらに歩みよるカシムを見つめる。

 何をするのかもわからないというのに、止めることなどできない。だが、この後レフィはこのときの判断を思い切り悔やむことになる。


「あれは……カシム?」

 夜間の後宮内の見回りに従事していたエリスは、視界の端を掠める影に注意を向ける。

 チラッとしか見えなかったが、おそらく間違いないだろう。この後宮内でドレスを着ていない女性など、自分以外ほとんど限られている。

 しかもあんな真っ白な長衣など……

 そしてエリスはそのことを不思議とも思わなかった。

 わかっていたことであるからだ、今ぐらいの時間に彼女が王子の寝室に呼ばれることなど……。

 それは仕方の無いことである。そうエリスは思うようにしていた。命令され、この後宮に美しい少女を連れてくること……そんな女衒紛いの任務をさせられ続け、エリスは自分に言い聞かせるようになった。

 仕方の無いことだと。王子に見初められたなら、もう手遅れなのだと。自分にできる、せめてものことは、できる限り傷つけないように連れて来て、そして必要以上に傷つけられないように警告をする、ただそれだけだと。

 もうカシムに対する自分の役目はすでに十分済ませた。後は、彼女次第である。

 そう思っていたものの、エリスの足はいつのまにか見回りの順路を外れ、先ほどカシムを見かけた廊下にまで移動していた。

 当然、もうすでにカシムの姿は無く、歩いていった方向に背中すら見えない。

 エリスはため息をつき、元の順路に戻ろうと身を翻したとき、床の絨毯の上に点々とした何か、を見つける。

「?」

 廊下の汚れなど、メイドたちが徹底的なまでに注意している。ということは、その赤い汚れは、メイドが掃除をしてから付いた真新しいものであるということである。

 エリスは、無償にその赤い点が気になり、その場にかがみこみそのうちの一つを入念に見つめる。

「……これは、血!?」


 案内のメイド……無論レフィではない、の後について王子の寝室とのたまう部屋の前にきたとき、カシムは……まず呆れた。

 おそらくが、百人の人間を道案内も地図も無しでこの後宮内を徘徊させたとして、早く人が、ここが王子の寝室であるとわかるだろう。そういう自己主張激しいの扉がデンッと構えている。

「……これって、案内の意味無いんじゃない?」

 冗談のように豪華な扉のノッカーに手をやるメイドにそう問い掛ける。

「……案内が、私の仕事ですので」

 否定も肯定もせず、そのメイドは丁寧に答え、そしてノッカーで扉を叩く。

 返事は……ない。だが、メイドはそれで終わりとばかりに、カシムに対して道を開く。

「……どうぞ、殿下がお待ちです」

「あん? 返事が聞こえなかったように思えるんだが」

 不思議そうに尋ねるカシムに、メイドはまた丁寧に答える。

「殿下は、すでに『お楽しみ』の最中であられます。どうぞ、ご遠慮なくお入りください」

「お楽しみって……」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、まるで門のような扉に手をかける。

 見た目で、重いかと思っていたのだが、少し力を入れるだけでまるで羽のように軽く扉は開かれる。

 そして、開いた扉からまず飛び出したのは……女のすすり泣く声だった。

「やっぱそれかい」

 カシムはうんざりと顔をしかめる。その耳に次に入ってきたのは、男の荒い息遣い。

 もはや決定的である。

 悪趣味に豪華な扉の向こうは、やはり悪趣味に豪華な内装の寝室だった。

 その中央に、まるで御伽話をそのまま鵜呑みにして作ったかのような、天蓋つきの大型ベッドまで会ったりする。ご丁寧なことに薄いカーテンつきである。

 薄い布地越しに、二人と思しき影が重なり合っている。

 否、一方が一方に強引にのしかかり、無闇やたらに相手を責め立てる様が見える。

 そこからもれるすすり泣きも、快楽の色合いなど欠片も混じっておらず、ただ苦痛と恥辱に耐える哀しみの色しかない。

 ただ、男の声だけが無様なほどに自分勝手に高揚していく。

 そして、男がひときわ高い声を上げると、女は絶望の悲鳴を小さくかすかに、だが確かにあげる。

 それが、これが少なくとも女の方が望んだ行為ではないということを証明する。

 相変わらず哀しげなすすり泣きを洩らす女を残して、男がこちらに歩み寄ってくる。

 薄い布をかき分け姿をあらわしたのは、昼顔を合わせたチンピラ王子・レイドである。

「おう、来たか」

 整った顔にあからさまに馬鹿にしたような笑みを浮かべたレイドの言葉に反応せず、カシムはゆっくりと視線を下に下げていく。

 レイドも、その視線を追うように視線を下げると、行き着く先は己の股間……

 あろうことか、カシムはそこをしげしげと眺め、そして一言、

「……並以下」

「オグアッ!!」

 気にしていることを真っ向から言われ、レイドは危うく品詞の重症を負いかけた。

 思わず意識が遠のきかけたが、何とか持ち直し、虚勢を取り繕おうとする。

「……こ、これは、さっき出したすぐだからであって、だな」

「いや、それでもそれは標準以下だろう」

「や、やかましい!」

 虚勢すら張れずに、顔を真っ赤にして絶叫する。

 獣のように荒い息を吐き、こちらを睨むレイドを無視して、カシムはその向こうを覗き見る……見たとたん、感嘆に口笛を吹く。

「おおうっ! チンピラにはあまりにもったいないぐらいのとびっきりの可愛い子じゃないか!」

「チンピラというな!」

 レイドの抗議を受け流し、カシムはただその美少女に見とれる。

 この辺りではほとんど無い褐色の肌……おそらく西方の国の出なのだろう。

 カシムと同じ色だとはとても思えないほどの、光沢すら放つ流れるような黒髪。涙を零し、憂いに満ちた顔も美しい……

 そして何よりも目を引くのが、その細い肢体のラインである。

 カシムも細いことは細いのであるが、師匠曰く『鶏がら』といわれ、全体的に細いだけなのであるのだが、その娘がそれに匹敵するぐらい細いというのに出るべきところはきっちりと出ていたりする。

 ぶしつけな視線に気づき、恥らう様に、カシムは同性でありながら思わず生唾を飲んだりしてしまった。

「いやいや、こんな辺鄙な国のチンピラの後宮なんかで、こんな立て続けに可愛い子達を会えるなんてね。しかも、これは飛びっきりだな」

 素直に大真面目に感嘆するカシムに、呆然としていたレイドはようやく事態を自分にありに把握する。

 要するに、自分の女を見て、カシムが恐れおののいているのだろう、と。

 先ほど無残に叩き折られた鼻っ面が、驚くべき速度で再生する。

「ふん、どうだ? てめえなんかにゃ、こんな上玉にお目にかかったことは無いだろう。だが、オレの力なら、一声かければこのくらいの女山ほど……」

「ねえねえ、君、名前なんていうの?」

 鼻高々に自慢するレイドなど、完全に無視してカシムは褐色の美少女に話し掛ける。

「おい、聞けよ」

「あ……あの」

 無遠慮に話し掛けてくるカシムにではなく、その後ろで不機嫌そうに睨むレイドにおびえ、褐色の美少女は困惑した態度を見せる。

「いやいや、しかし君も大変だね」

 そんな美少女の様子に委細構わず、カシムは自然に言葉を続ける。

「こんな、『へたくそ』の相手をさせられちゃってさ。大変だろお?」

「うっがーーーッ!!」

 やたらと広い寝室に、レイド王子の咆哮が木霊する。


「うるさいぞ、チンピラ」

「て、て、てて、てめえっ、言うに事欠いて『へたくそ』だとおぉぉぉぉっ!?」

「ほほう、というと、君はまさかあれで自分をがセックスが上手いと思っていたと」

 思いっきり激昂するレイドの気勢を制して、カシムは落ち着いた声で言う。

「お、オレのどこがへたくそだってんだ!?」

「全部」

 一言で斬り捨てる。

「まあ、といっても、俺がこの部屋に入ってきたのは最後の辺りだったけど……あれだけ見ても、十分不合格だな」

「だから、何がだ」

 まったくわかっていないレイドに、ため息交じりに答えてやる。

「あのねえ。一言も相手の承諾無しに相手の中に射精するなんて、思い切り最低なマナーなんだってば。本当なら、お互いにどのくらい高まってるか確認しあって、タイミングを合わせて同時に絶頂というのが理想的だし、それができなくても出す前に声をかけるのが最低限のマナーだ。それを、黙ったまま腰にへばりついて、いきなり出して、はい終わり、か……君は背後霊か?」

「あが……が、ぎぎぐぐ」

 歯軋りまでして悔しがるレイドだが、そこであることに気づく。

「てめえ、そこまで詳しいってことは処女じゃねえってことか!?」

 そうだったらただじゃ済まさん、といわんばかりに剣呑に問い詰めてくる。

 だが、カシムは飄々と、

「いや、師匠の受け売りだ。もし、そーいうクズなチンピラ野郎を見つけたら、もれなく去勢蹴りで、陰嚢踏み潰しとけと言いつけられている」

 レイドは身の危険を感じ、とっさに股間を抑え後ずさる。

「……それと、処女かという質問だが。俺自身半信半疑だったが、さっき確認してみたら、確かに処女だったぞ」

「確認? ……まあ良い。それだったら、さっさとこっちに来い。こいつと一緒にひいひい言わせてやるぜ」

 とりあえず処女であるということで、それ以上深く考えないようにしながら、カシムをベッドに誘う。

「ふむ、その子とか、それは確かに魅力的なお誘いなんだが……残念極まることに、すでに先客がいるんでね。できないんだわ、これが」

「先客だあ? この後宮に俺以外の男はいないはずだぞ」

「ふふーん、それがねえ。ちょーと一目ぼれしちゃって、そいつに思わず俺の始めてを捧げちゃった。ついさっき……ちなみに、そのとき血が出たから処女だと確信したわけ」

「んだとお。どこのどいつだ!」

 声を荒げるレイドに、カシムは黙って、首の下から足首まで覆う長衣の裾を摘む。

「それはそれ、論より証拠ってね。今紹介するよ」

 そう言って、カシムはゆっくりと裾を持ち上げていく。

 徐々にその純白でほっそりとした足があらわになり、それが膝、太ももときて、そしてさらにその上まであらわにする。

 レイドも怒りも忘れ、思わずその光景に見入ってしまう。

 のだが、それもつかの間で、次の瞬間にはその目が驚愕に見開かれる。

 その股間を覆うものは布切れ一枚なかった……つまり下着すらはいていなかったのである。しかもそれだけではなく、何よりもレイドを驚かせたのは……

「何だそりゃああー!!」

 震える指でカシムの股間……そこに深々と突き刺さっている花瓶を指差し、レイドは思い切り絶叫する。


 そのあまりに非常識で、どこか淫靡なその光景にレイドも、そして褐色の美少女すらも言葉を忘れ見入ってしまう。

 長衣の裾を捲り上げ、さらされた股間より顔を出している花瓶の頭から、血が滴り落ち、ポツッと、カシムの部屋よりさらに豪華な絨毯の上に赤い斑点を作る。

 そう、出血していた。

 その花瓶は、確かこの後宮内でよく見るもので、細い円筒状をした上質の陶器の花瓶である。それをくわえ込み、出血しているということは……

(あの花瓶で、処女を破ったってのか、んなばかなっ!?)

 あまりの結論に、レイドの脳はそれを理解することを拒否する。

 だが、あくまで能天気なカシムの声がいやでも耳に入る。

「いやいや、ちょっとひまを持て余していたら、この花瓶君が目に入ってね。めったに見ない上物についつい目を奪われちゃったとおもったら。気が付いたら、お互いこういう関係になっちゃってたわけで」

「嘘つけええっ!!」

「フッ、道ならぬ恋を目の当たりにした奴は、大抵そう言うんだよね」

 あからさまに大嘘をのたまうカシムに、激昂するレイドだが、そこをさらに鼻で笑われてしまう。

 それに、レイドの頭に血が上る。

「てめえ! そんな花瓶で膜破るほど、オレがいやだってのか!?」

「そういうわけでも……あるかな~」

 持ち上げた裾を直しながら、カシムは飄々と答える。

「……こんな上物の陶器だとね。もう表面がすべすべしちゃってさ……そして何よりも」

 そこまで言って、再びレイドの股間に目をやる。

 そこは、カシムのあの異常な状態を見たときから、これ以上ないというぐらいに猛りその質量を増大させていた、のだが。

 カシムはそれをじっくり観察し、あっさりと言ってのける。

「君のより、太くて長くて、立派だしねえ」

 レイドの中で太いものが切れた。本日二度目である。

「―――――!!!」

 自分でもわけがわからないようなことを叫び、手近にあるものを手当たり次第カシムに投げつける。

 いつもなら淫靡な空気と乙女の鳴き声が響くその寝室に、その日に限り、置時計や枕や剃刀やらが飛び交った。


「あっはっはっは!! いやいや、あのチンピラ王子の顔ったら」

 必要最低限の明かり以外消され、薄暗くなった通路にて、カシムの大笑いが響く。

 あれから、カシムととばっちりを食った褐色の美少女は、レイドの寝室を追い出されてしまった。

 というより、ぶち切れ状況もろくに把握できない状況のレイドの被害が、この美少女にも及ぶと判断したカシムが強引に連れ出したのであるが。

 豪快に笑っていたカシムだが、唐突に痛みに顔を歪め身をかがめる。

「ツッーー……やっぱ、まだ腹筋を動かすと、きついなこりゃ」

「あ、あの、大丈夫ですか?」

 その様子に、褐色の美少女が慌ててカシムの傍に寄る。

 あまりに自然な様子だったので、つい失念してしまうが。彼女はついさっき処女を破ったのである、己自ら。

 美少女は自分があの王子に始めてを奪われたときのことを思い出し、身震いする。

 あの後、痛みとどうしようもない哀しみで、一日中泣いた。そしてその日の晩、また呼ばれた。

 あの苦痛を、今目の前の女性が感じているのだと思うと、疑問が浮かんでくる。

「……どうして、そのようなことをしたのですか?」

「う~ん、痛いとは聞いてたんだが、まさかこれほどとはね。ちょっと読みが甘かった」

 あっさりと、気負い無しの答えが返ってきて、拍子抜けする。

 そこには哀しみの一欠片も見当たらない。

「いえ……そうではなくて……」

「それよりさ」

 今度は言葉途中に質問で遮られてしまう。

「名前は?」

「はい?」

 簡単な質問なのだが、思わず聞き返してしまう。

「だから名前……さっき聞いたけど、結局あのチンピラ君が邪魔してくれちゃっただろ?」

「は、はあ……」

 チンピラというスラングを理解できない美少女は曖昧な返事を返す。

 どうやら、あのレイド王子のことを言っていることだけは理解できたのだが。

「俺、君と仲良くなりたいんだよね。となると、お互いに名前を教えあうのが、付き合いの第一歩だと、思わない?」

「私と……仲良く、ですか?」

 そのようなことを言ってくれたものなど、誰一人いなかった……この異国の地では。いや、もはや遥か彼方となった故郷の地でさえ。

「そそ、さっき聞いて知ってるだろうけど、俺はカシム……で、君は?」

「私は……」

 轟音が美少女の返事に覆い被さる。

 金属の音高く鳴る音……まるで金属鎧を着た何者かがこちらに爆走してきているかのような……

「カーーシム!!」

「どおわっ!」

 その音の元凶が、すさまじいスピードで駆け抜けたかと思うと、カシムの姿が消えた。

 どうやら、駆け抜けざまにカシムの首根っこを掴みそのまま引きずっていったようである。金属の音と、カシムの悲鳴がだんだんと遠のいていく。

「…………」

 呆然と取り残された褐色の美少女。

 あっという間に消えてしまったカシムの姿を見送りながら、ポツリと、

「……まるで、風のような人……」

 いろいろな意味でそう思った。


 カシムに割り当てられた部屋の扉が乱暴に開け放たれ、飛び込むように金属の塊、いや鎧を着た騎士が駆け込んでくる。

「見つけた。連れて来たぞ!」

 中で待っているメイドに向かって、端的に報告する。

「ああ、ありがとうございます。エリシエル様」

「……て、何でエリス君とレフィ君が結託してるわけ?」

 後ろ手で首根っこを引きずられているカシムが疑問の声をあげる。

「うるさい! 黙ってろ!」

 エリスはそんなことに耳を貸すことなく、怒鳴りつけ、カシムの身体をその場に立ち上がらせる。

 カシムが自分の足で立ったのを確認すると、ためらいなくその長衣の裾を捲り上げる。

「おおうっ! エリス君てば大胆!」

「やかましいっ! この馬鹿!」

 ふざけるカシムを罵倒し、そしてさらされた股間を見てもう一度罵倒する。

「このっ……馬鹿者が! なんて真似を!!」

 いまだ突き刺さったままの花瓶を見て、エリスは思い切り罵り声を上げる。

「う~ん、だって~、エリス君がつれないから~」

「ふざけるな!」

 奇妙に身をくねらせ、甘ったるい声を出すカシムに、エリスはもはや絶叫といって言いぐらいの大声をあげる。

「貴様は、私の言ったことを聞いていたのか!? 今日、あの時が、貴様の開放される唯一のチャンスだったんだぞ!」

 裾から離した手で、カシムの胸倉を掴み、一気にまくし立てる。

「いくらふざけてても、それくらいはわかっていると思っていたが……まさかこんな真似をしでかすとは……あの時、血の跡を見たとき、貴様を追いかけるべきだった」

「血の跡?」

「貴様が、通路に垂らしていった血の跡だ、気になってそれを辿ってみれば、着いたのは貴様の部屋だ。気になって中で呆然としている彼女を問いただしてみれば……このっ、馬鹿がっ!!」

 何度言ってもいい足りないとばかりに、立て続けの三度目の馬鹿をはき捨てる。

「ははは、そう何度も言わないでよ。照れるじゃないか」

「こっのっ……」

 ほとんどカシムの身体を持ち上げるように、首を締め上げてしまうエリス。

 その様子に危険を感じたレフィが、慌てて二人に声をかける。

「あ、あの! お風呂を沸かしていますので、まずカシム様をお入れになったほうが……」

「むっ……それもそうだな」

 エリスもそれに納得し、カシムを開放する。

「早くそれを抜いて風呂できれいに洗って来い。それからきちんと薬を塗るんだ。そうしないと、とんでもないことになるぞ!」

「はいはい、それじゃあ、と」

 エリスの言葉に、カシムは無造作に長衣の裾を捲り上げようとする。

「ば、馬鹿者。こっちを向いてやるな」

「……さっき自分で捲って、じっくり見たくせに」

 いまさらながら、真っ赤になって恥ずかしがるエリスに、しょうがなしにカシムは背を向け、しばらくごそごそとする。

 その動きが、唐突に止まる。

「あ~、二人とも、聞いてくれないか?」

「なんだ?」

「なんですか?」

「その……なんだ、どうやら血が乾いて固まってしまったようで……花瓶がへばりついて、抜けなくなったみたいなんだが……ど~しよ~」

 絶句。

「こ、このっ、大馬鹿―――ッ!!」

 エリスの怒りの咆哮は、後宮中を揺るがすほどだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ