アンドロイドは恋をしない
先輩メイドの後について病室へ続く白いドアをくぐると、まず最初に目に飛び込んできたのは白いカーテンにふちどられた壁一面の青空だった。天井の高いこの部屋は、突き当りの壁が一面ガラス張りになっており、やわらかな日光が降り注いでいる。雲上都市の中でもかなり高い位置にあるこの部屋に日を遮るようなものはない。窓辺からはきっと市街地を見渡すことができるだろう。
爽やかな風の吹きこむ窓辺にはベッドが置かれ、真っ白なシーツに埋もれるように少年が体を横たえていた。細く白い腕には透明のチューブが何本もつながれている。その内の一本はベッド脇に立てられた点滴スタンドから伸びたものだった。
少年はわたしがこれからお仕えするご主人様だ。ギルバート・フォー・ギブソン、この雲上都市の市長の一人息子である。品行方正で優しく、非の打ちどころのない好青年だという。市民からも慕われており、将来を期待されていた彼が突然の病に倒れたのは今から半年ほど前のことだ。どのような病なのか、治る見込みはあるのか、経過については何も公表されていない。ただ公の場に姿を見せることはぱったりと途絶えてしまい、病室に閉じこもっているのだという噂を耳にしたのみだ。
ギルバート様の顔を見るのは初めてではない。市長の演説を聞きに行った時には舞台の脇に控えているところを見たことがある。穏やかで優しいという彼の人柄を表すような柔和な笑みを浮かべていた。同世代の友人たちの中にはその整った容姿に黄色い声を上げる子もいたが、正直なところ今までわたしはそこまで興味を引かれてはいなかった。確かにギルバート様は格好良いかもしれないが、まるでお人形のような笑顔が近寄りがたいものに思えたのだ。
ベッドの中のギルバート様は病人らしく青白い顔をしている。以前に見かけた時より、顔も体も痩せたようだ。やはり重い病気なのだろうか。同情心が湧いたわたしの耳に、思いの外明るい声が飛び込んできた。
「この前読んだ本に書いてあったんだ。人類がまだ地上で暮らしていた頃は、想像もつかないような大きな動物がたくさんいたんだって」
それはベッドの傍らの丸椅子に腰かけるメイドに話しかける声だった。病室へ入ってきたわたしたちには目もくれず、メイドに向かって幼い子供のように夢中で喋りかけている。骨ばった手でメイドの手を握り、屈託なく大口を開けて笑い、細めた目元には一見して分かってしまうほど、見つめる相手への想いが溢れていた。
わたしは一目で、彼の笑顔に恋してしまった。
「人間の五倍くらいの大きさのサルとか、両手を広げたよりも大きな鳥とか」
「ギルバート様、失礼致します」
先輩メイドが会話を遮る。ギルバート様は驚いた様子でようやくわたしたちの方を見た。わたしたちが病室に入ってきたことに気付いていなかったようだ。
「今日からギルバート様のお世話をさせていただく、新しいメイドをご挨拶に連れて参りました」
「新しい子なんて必要ないよ。俺にはアンがいればいいって、前にも言っただろ」
「そういう訳には参りません」
ギルバート様の顔が不満げに曇るが、先輩は構わずにわたしの背を押した。一歩進み出て頭を下げる。揃えた両手に汗が浮くのを感じる。
「初めまして。メリーと申します。これからよろしくお願いいたします」
「ああ……よろしく」
頭上から降ってきたギルバート様の返事は歯切れの悪いものだった。あまり歓迎されていないのだろう。恐る恐る顔を上げると、ギルバート様はやはり渋い顔をしていた。
「メリー。たぶん、他の人からいろいろ言われるだろうけど、頼むから僕とアンの邪魔をしないでくれよ」
「あ、はい……」
わたしはどう答えていいものか分からなくなり、助けを求めて先輩をちらりと見上げる。先輩はすまし顔でギルバート様を見下ろしていた。その横顔は妙に冷たい。どうしたんですか、などとこの場で聞くわけにもいかず、わたしはギルバート様と先輩とをおろおろと見比べた。ギルバート様がふっ、と悪戯っぽい笑みを漏らす。
「そんなに怒らないでよ。いいじゃん、俺とアンは恋人同士なんだから。お世話してもらうなら好きな人の方がいいだろ」
「今夜からこのメリーが担当させていただきます。それでは失礼致します」
なぜか先輩はますます憮然とした表情になった。さっと礼をするとわたしの手を引き、ご主人様の返答も待たずにそのまま病室を出ていこうとする。わたしは当然うろたえたが、有無を言わさぬ先輩の強い力に引きずられまた白いドアをくぐることになった。先輩がいささか乱暴にドアを閉める直前、ちらりと見えたギルバート様は幸いなことに全く気分を害した様子ではなかった。問題なのはギルバート様ではなく、その傍らに座っていたメイドの方であった。わたしたちと同じメイドの制服に身を包み、色素の薄い茶髪のショートカットの少女。体つきは今年十三歳になるわたしよりも大人っぽいものだが、大人の女性にはまだ届かないだろう。
彼女はわたしたちがいる間一言も発しようとはせず、またギルバート様の方を向いていたためわたしに見えていたのは彼女の後ろ姿だけだった。その彼女が、ドアが閉まる直前に振り向いたのをわたしは見た。
彼女の夕焼け色をした両目は作り物だった。その目も肌も、全て生きた人間と同じ形をした無機物の塊、アンドロイドだったのだ。
不自然に整った、作り物のその顔には一切の感情らしきものが見られない。このアンドロイドには、心がない。
閉じられた病室のドアをぽかんと見上げながら、わたしは混乱していた。最初はてっきりギルバート様が人間のメイドを相手にお喋りをしているものだとばかり思っていたのだが、そこにいたのは人間ではなくメイド服を着せられたアンドロイドだったのだ。心のないアンドロイドに会話の応酬をさせるのは難しいだろう。アンドロイドは命令を聞いたり問いに答えたりすることはできても、他愛ないお喋りにつき合わせることはできない。
ということは、ギルバート様は、機械的に頷くことしかできないお人形を相手に、一人でお喋りをしているのだ。
わたしの隣で先輩メイドがため息をついた。
「分かったでしょうメリー。可哀想なギルバート様は、頭がいっちゃってるのよ」
その日から、ギルバート様のお世話はわたしの仕事になった。ただ、わたしがギルバート様の病室にいる時間はほとんどない。ギルバート様がわたしに告げた通り、実際に彼のお世話をするのは例のアンドロイド「アン」だったのだ。
着替えの手伝いや給仕など身の回りの仕事は全てアンが担当している。わたしの仕事は洗濯した着替えや用意された食事を病室まで運び、アンがギルバート様のお世話をしている様子を静かに見守ることである。アンドロイドである彼女が万が一にでもギルバート様を傷付けることがないように、常に一人は傍に控えていなければいけないのだという。見ているだけでいいというのは楽な仕事だが、何もせずただ見ているだけでお給料をもらうのには罪悪感があった。
「失礼致します。ギルバート様、お食事をお持ちしました」
夕食を手に、病室のドアをノックする。返事はないが、先輩によればいつもの事らしいので気にせずドアを開けて中へ入る。空はもう暗く、白いカーテンが引かれていた。ベッドの脇に控えるアンがこちらを振り返って会釈する。ギルバート様の声が響かない病室はやけに静かだ。わたしはアンに会釈を返し、足音を立てないように気を付けながらベッドへ近付いた。
ベッドの中のギルバート様は穏やかな寝息を立てていた。骨ばった左手がアンの右手を握っている。アンドロイドは体が疲れることもないので、一晩中手をつないでいても支障はないだろう。実際、こうして手をつなぎながら眠るギルバート様の姿をわたしは何度か目撃している。
夕食の盛られたトレイはサイドテーブルに置き、食事と一緒に持参した薬の容器を取り出す。そろそろ点滴している薬を交換する時間だ。ギルバート様はいつもアンに世話してもらいたいと主張するが、自分の体に直接触れない仕事はその限りではないらしい。点滴の交換は早いうちにわたしに許された作業の一つだ。それに今のアンはギルバート様の傍から離れることができない。
先輩メイドに教えてもらった手順の通りに薬の容器を取り外し、新しい容器に交換する。容器の中で揺れる薬は色のついていない透明な液体で、点滴台に吊り下げられていなければただの水にしか見えない。こんなもので本当に病気が治るのだろうか。ギルバート様の病気については、使用人たちに対しても詳しいことは明かされていないそうだ。ただ、日頃から見聞きする彼の病状から、いろいろと噂は流れている。最初の不調は胃腸に現れたそうだ。食欲がないと言って食べる量が減り、次には食べても吐いてしまうようになり、寝込むことが多くなった。ある日市長について出かけた先で突然意識を失って倒れ、高熱を出し三日間生死の境を彷徨ったという。どうにか一命を取りとめたが、目を覚ました彼の頭は狂ってしまっていた。心を持たないアンドロイドを常に傍へ置き、恋人ごっこを続けている。
病気になる前のギルバート様は、市民にも知られている通り聡明で優しい人物だったという。使用人相手にも威張ることはなく対等な人間として接する。病気になった今もその態度は変わらず、わたしも先輩メイドも、ギルバート様からぞんざいな扱いを受けることはほとんどなかった。ただ、誰が何と言っても、アンドロイドと戯れることを止めないことを除けば、彼は普通の人なのだ。
「う……」
ベッドの中でギルバート様が身じろぎをした。ぼんやりと目を開けた彼は、傍らに控えるアンを見つけて子供のようにあどけなく微笑む。
「おはよう」
『おはようございます』
アンは口を動かし、喉のところへ内蔵されているのだろうスピーカーからギルバート様に答えた。アンドロイドは心を持たないが、簡単な挨拶程度の会話であればこのように交わすこともできる。人の声を認識し、ふさわしい答えを選び出し、スピーカーに乗せて発音する。一体どういう仕組みでそんなことができるのかわたしには見当もつかない。人間に仕えるアンドロイドたち、機械仕掛けの街並み、街を乗せて空を飛ぶこの雲上都市全体が、現代では失われつつある旧暦時代の技術を結集して作られたものだ。アンは見た目こそ成人前の少女であるが、人類がまだ地上で暮らしていた頃、今からざっと二百年以上前に作られたはずだ。彼女のスピーカーから流れる声は、二百年前に生きていた誰かのものなのだろうか。
体を起こそうとするギルバート様をアンが支える。ちょうど点滴の交換が終わったわたしは、夕食を乗せたサイドテーブルをベッドに近付けながらさりげなく二人の様子をうかがった。アンの手つきは優しく丁寧で、万が一にもギルバート様を傷付けるようなことはないだろう。わたしが気にしているのは、ギルバート様の顔色が悪いことだ。ご病気なのだからある意味当たり前なのかもしれないが、それにしてもここ数日は特に具合が悪そうだ。
トレイに乗った夕食は、食が細くなったギルバート様向けに作られた病人食だ。シチューの具は細かく切られ、消化しやすいように柔らかく煮てある。パンも手でちぎって食べられるような柔らかい上等なものだ。アンがシチューの容器を手に取り、ギルバート様に差し出す。ギルバート様が容器に手を添えてもアンは手を離さなかった。筋肉の衰えた細い腕では、たっぷりと液体の入った容器を落としてしまいかねない。ギルバート様はスプーンを手に、少しずつシチューを口へ運んでいく。あまり、おいしそうな顔ではなかった。
食事が終わるまでには少し時間がかかる。その間に交換した点滴の容器を片付けてしまおうと退出しかけたわたしの耳に、苦しげな咳が聞こえた。慌てて振り返ると、ギルバート様がベッドの上で背を丸めてごほ、ごほと大きく肩を揺らしている。アンはシチューの容器をサイドテーブルに置き、ギルバート様の背中をさすった。わたしもすぐにベッドの傍へ駆けつけ、俯いているギルバート様の顔を覗き込んだ。シチューが気管に入ったのかもしれない。場合によってはお医者様を呼ばなければならないだろう。
「う、えっ」
びちゃ、と水音がして、俯いたギルバート様は今飲み込んだばかりのシチューを嘔吐した。口元を押さえる指の隙間から酸っぱい臭いの混じった吐瀉物がぱたぱたと漏れる。ギルバート様は涙の滲んだ目でわたしを見上げ、あっちに行って、というように手を振った。アンでなければ嫌だと言いたいのだろうか。しかし、さすがにこの非常時に手を出さずにはいられない。後で怒られようと決め、わたしはベッドの下から洗面器を取り出しギルバート様の膝の上に差し入れた。両手を口元から引きはがし、洗面器を持たせる。
「ギルバート様、もう少しだけ上を向いてください。喉に詰まってしまいます」
洗面器の上に覆いかぶさるような体勢を取らせると、ギルバート様はもう一度嘔吐した。アンはまだ背中を撫で続けている。わたしはそれ以上手出しをせず、洗面器を支えながらギルバート様の様子を見守ることにした。
洗面器の中の吐瀉物はほとんど胃液なのだろう、ひどく酸っぱい刺激臭がする。食べたばかりのシチューが少しだけ混じっていて、そして悪いことに、黒に近い茶色の液体がところどころ混じっていた。血だ。血を吐くのはこれが初めてではない。最初に見たときは驚いたが、悲しいことにもう慣れてしまった。同僚もお医者様も同じだろう。見た目以上に彼の病気は進行しているのだ。きっと、もう、長くはない。
しばらく経って吐き気が収まったのか、ギルバート様は涙と鼻水で濡れた顔をのろのろと持ち上げた。すかさずアンがタオルを差し出し、彼の顔を拭う。ふかふかしたタオルに顔をうずめ、ギルバート様は土気色の顔で笑った。目を覚ましたときと同じ、あどけない幸せそうな笑顔だ。
「ありがと」
苦しげな息の合間に零した言葉はひどくかすれている。それでも彼は嬉しそうだった。
アンの手でギルバート様をベッドに寝かせ、汚れてしまったシーツを取り替える。わたしは放り出していた点滴の容器と夕食のトレイを一つにまとめると、水差しとコップだけをサイドテーブルに残し、片付けのため一旦席を外すことにした。吐いてしまわないよう気を付けて、少しずつお水を飲ませて差し上げてください、とアンに伝える。
『わかりました』
アンが頷いたのを確認して、足早に病室を出る。ドアを閉める直前、ギルバート様が小さく声をかけてきた。
「メリーも、ありがとう」
わたしは何も答えられず、ただぺこりと頭を下げた。足音を立てぬように廊下を走りながら、我慢していた涙が頬を濡らしていくのを感じる。わたしはギルバート様の笑顔が好きだ。大好きだ。それをこんなに間近に見られて、あまつさえ名前を呼んで微笑みかけてもらっているというのに、少しも嬉しくなんかない。
腕の中に抱えたシーツの酸っぱい臭いが鼻につく。これは、死臭だ。
今日は、ギルバート様の十八歳の誕生日だ。
いつもは三人しかいない、白く静かな病室も、今日ばかりは訪問客で賑わっている。かわるがわるお祝いの品を運んでくる人々を、わたしはアンと一緒に病室の隅から眺めていた。一番最初に病室を訪れたのはわたしの上司でもあるメイド長だ。初老にさしかかったメイド長は、きつい皺が刻まれた顔を心なしか緩めていた。持参した色とりどりの花束をギルバート様に手渡し、定規ではかったように綺麗な角度のついたお辞儀をして退出した。
次に訪れたのは奥様とお嬢様、つまりギルバート様のお母様と妹様だ。まだ七歳のお嬢様は久し振りに兄に会って照れくさくなったのか、最初は奥様にぺたりと貼りついていた。贈り物は星を閉じ込めたような瓶入りのキャンディと、拙い字が綴られた似顔絵つきのバースデーカードだ。奥様からは、淡いブラウンの温かそうなショールが贈られた。ショールを肩にかけられ、キャンディとカードを受け取ったギルバート様に親愛のキスをして、お二人も退出していった。
最後の訪問客だけは大所帯だった。訪れた人は全員が中年の男性で、でっぷりと太ったおなかを黒いスーツで包んでいる。人数は全員で十人ぐらいだろうか、よく似た風貌で見分けがつかない。見分けがついたのは一人だけ、最初に部屋に入ってきた男性だけだ。以前に演説台に立ったところを見たことがある。ギルバート様のお父様、ギブソン市長だ。恐らくこの男性たちは、この雲上都市を治めるえらい人なのだろう。ギブソン市長はギルバート様のベッドの傍に立ち男たちの方に向き直った。
「皆さまご存知の通り、今日は我が息子ギルバートの十八歳の誕生日です」
少し芝居がかった口調と身振りで、市長は短い演説を始めた。家族の誕生日を祝っているとはとても思えない、誰かが書いた台本を演じているようなお祝いの言葉が並べられる。他人事のような「おめでとう」に続けて、ギルバート様が感謝の言葉を述べる。
「本日は、私のためにお集まりいただき、ありがとうございます」
品行方正な好青年は爽やかな笑みを浮かべた。ベッドに横になったままの体勢だが、しっかりした声と大人びた口調で立派に挨拶をする。わたしは感心しつつも、笑顔のギルバート様からそっと目を逸らした。今の笑顔はわたしの好きな笑顔ではない。わたしが好きなのは、もっと優しくて温かくて泣きたくなるくらい幸せそうな顔だ。
ギルバート様を見ていたくなくて、なんとなくアンの方へ視線を向ける。見上げたお人形の顔は微笑をたたえていた。これこそ作り物の笑顔というやつだ。寒々しいお祝いの席を前にして、彼女だけは何も感じていないのだ。わたしのこのやるせない思いも、男の人たちの腹の中のいろいろな思惑も彼女には関係ない。
二百年前、アンドロイドは人間の脳を材料に作られた。生きた人間の体から脳みそだけを取り出し、自ら考え行動することのできる人工知能が開発されたのだ。彼らは機械の体とヒトの感情を同時に手に入れた。機械化されたメモリーには何百冊、何千冊分の辞書に匹敵するほどの知識が保存されている。その豊富な知識とヒトの思考能力が合わされば、機械の体に不具合が起きたとしても、自らメンテナンスを行うことも可能だ。古今東西人類が求めてやまなかった永遠の生が現実のものとなった。当時の人々はそう思っていたことだろう。
永遠の命など、やはり現実には存在しなかった。人工知能を搭載したアンドロイドたちは、時が経つにつれて一人また一人と心を失っていったのだ。開発された当初は人間だったときと同じように感情を現し、人間と一緒に泣いたり笑ったりして暮らしていたのだという。彼らが心を失った理由は今となっては推測するしかできない。機械化された脳に不具合がありうまく動かなくなったのか、ヒトの心が長すぎる時間に耐えられなかったのか、いずれにしてもわたしたちの住むこの雲上都市に現存するアンドロイドは、ほとんどが既に心を失ったただのロボットになってしまっている。アンもそのうちの一人だ。
もしも彼女にまだ心があったなら、今日のこの日にギルバート様へ何と言葉をかけるのだろうか。
ギルバート様の体調が芳しくないことを考慮してか、見舞いの訪問客も午後には途絶えた。話し疲れたギルバート様がわたしに人払いを命じたので、わたしは退出せず入口近くに控えることにした。
白いカーテン越しに午後の温かな日差しがちらちらと光る。ギルバート様はいつものようにベッドの脇にアンを座らせて、うとうととまどろんでいた。意識は半分夢の中へ旅立っているのか、聞こえてくる囁き声はぼんやりとして眠たげだ。
「アン、いつもありがとう」
わたしの座っている位置からはギルバート様のお顔が見えない。見えるのはアンとつないだ手だけだ。初めてお会いした時から更に肉が落ち薄くなってしまった手は、初めてお会いした時と同じようにアンの手を優しく撫でている。
「今年も誕生日を迎えることができたね。アンのおかげだ」
アンはこくりと頷いた。いや、頭を下げたのかもしれない。
「来年の誕生日は、もう、来ないだろうな。でも、アンは、俺がいなくなっても、ずっと生き続けるんだ。俺の十八年の人生なんて、アンの長い人生に比べたら、あっという間の出来事だ」
ギルバート様の言葉が途切れ、小さい欠伸が聞こえる。
「だから、残りの人生は、全部君に使うって、決めたんだ……君の記憶に、少しでも、俺が残る、ように」
そこまで話し終えると、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。とうとう睡魔に負けたらしい。見えなくても、ギルバート様の寝顔は目に浮かぶ。愛する人に見守られ、手を握り合って眠りにつくのだ。それが幸せでないわけがない。
市長邸にお仕えするメイドたち、つまりわたしの同僚先輩がたの間では、ギルバート様のこの「奇行」は病気のせいで子供に戻ってしまった彼のお人形遊びだと解されている。わたしもアンを初めて見たときは自分の目を疑ったし、気味が悪い、狂気の沙汰だという人の気持ちが分からないわけではない。彼女に愛を囁くのは、お皿やフォークに愛を囁くのと同じことなのだ。
それでも、こうしてギルバート様のお傍に仕えていると、ただのお人形遊びだとは思えなくなる。ギルバート様は本当にこのアンドロイドを愛しているのだ。アンを見つめる目はいつも優しい。愛しげに手を握り、片時も離れずに傍に置き、あの笑顔で笑いかける。心から愛していなければ、あんな笑顔にはなれないだろう。心から愛していなければ、あのお顔を見るたびに、涙が出そうなほど胸が痛くなったりしないだろう。
ギルバート様の病状は日に日に悪化していった。誕生日から半月もしないうちに、体が食べ物を全く受け付けなくなってしまったのだ。口にすることができるのは水と具のないスープだけで、不足する栄養分は点滴で無理矢理体の中へ流し込んでいる。食べられなくなったことで嘔吐することがほとんどなくなったのだが、その代わり、少しずつ血を吐く量が増えてきた。それも以前のような黒っぽい色ではなく、赤に近い色をしている。診察に訪れたお医者様へそう報告すると、お医者様はひどく難しい顔をした。
「連続で血を吐くようなことがあれば、もう持たないかもしれません」
血を吐かなくても、もういつその時が来てもおかしくない、とわたしは思った。このところギルバート様の睡眠時間がどんどん増えている。朝はお昼前になるまで目覚めることはなく、日中はまどろみの中、日が落ちる頃には眠りについてしまう。起きている時間の方が短いぐらいだ。体が死に至るための準備をしているのだと思えた。
ついにその日が来た。
わたしがギルバート様に初めてお会いした日と同じ、晴れ渡った青空のきれいな日だった。白い壁と白いカーテン、白いシーツの中で、ギルバート様はベッドの上が真っ赤に染まるほど大量の血を吐いた。目がくらむほど濃く鮮やかなその色は、まるでギルバート様の命がそのまま溢れ出したかのようだ。わたしは大変なことになったと焦る一方、心のどこかでああとうとう来てしまったかという諦めにも似た気持ちをも抱いていた。だから、お医者様を呼ぼうとしたわたしをギルバート様が「待って」と止めた時も、わたしはかなり悩んだのだけれど、結局は素直に彼の命令に従ったのだ。
吐いた血が気管に引っかかってしまっているのか、ギルバート様は横になったまま弱々しく咳き込んでいる。蝋のように白くなった手はアンの右手を握りしめていた。アンは自由な方の左手でギルバート様の背中を撫でていたが、ふいに身じろぎしたギルバート様に遮られて動きを止めた。
ギルバート様の容体はこうして見ている間にも悪化しているのが分かる。呼吸はおぼつかない状態で、アンの方を見上げる目は焦点が合っていない。ぼんやりとした目つきで、それでもギルバート様はアンに手を伸ばした。震えて力の抜けた手をアンが受け止める。
「アン」
わたしの耳には、空気の漏れるかすかな音しか聞こえなかった。ギルバート様の口は確かに、飽きるほど呼び続けてきた彼女の名を呼んでいた。じっとギルバート様を見つめていたアンが、目線を二人の重なった手に移す。よく見ればギルバート様の手はゆるく握りこぶしを作っていた。下向きに差し出された手を上に向け、アンの手の上でギルバート様の手のひらを開かせる。
彼の手が握っていたのは、銀色の指輪だった。
『ギル』
指輪を認識したアンの声色が変わる。今までに聞いたことのないような親しげな声が、腹の底から絞り出したような激情をはらんだ声が彼女のスピーカーから流れだす。
『愛しています。私も、永遠に』
指輪を受け取ったアンは、しかしそれを自分の機械の指に嵌めようとはしなかった。作り物の左手の指を右手で握りしめると、勢いをつけて根元からもぎ取ったのだ。ばきり、と固いものの壊れる音がした。いくら機械だと分かっていても、人間の形をしたアンが自ら指を折る光景はなんとも心臓に悪いものだ。わたしは反射的に目を背けたが、ギルバート様は動じることなく彼女を見つめ続けていた。手のひらの上には指輪の代わりにアンの指が一本乗せられた。それが左手の薬指だと気付いたのは、ギルバート様があの笑顔を浮かべ、機械でできた指を握りしめたときだった。
『これから何千年生きたとしても、あなた以外のものにはならないわ』
頷いたギルバート様の額にキスを落とす。ギルバート様は目を細め、眩しそうにアンを見上げながら、もう一度口の動きだけで彼女の名前を呼んだ。その口が閉じる間もなく、ごぼりと水音を立ててまた新たな血が吐き出される。ギルバート様の目から急速に光が失われていくのに気付き、わたしは慌ててきびすを返し病室を飛び出した。ご主人様の命令でも、これ以上放ってはおけない。もう手遅れかもしれないが、今更お医者様を呼んだって無駄かもしれないが、万に一つでも持ち直す可能性があるかもしれない。あってほしい。
病室へ駆けつけたお医者様は、ギルバート様を一目見て首を横に振った。一緒に駆け戻ってきた素人のわたしの目から見ても、ギルバート様が既に亡くなっていることは明らかだった。青い空の下、壁もシーツも白い部屋の中で、真っ赤な命を散らしている。こういう時、眠っているみたいだと表現する人もいるが、本当に眠っているならば呼吸に合わせて体が動くものだ。微動だにせず白い顔で横たわる姿は、どちらかといえば蝋人形にでもなったかのようだ。つい先程まで動いていたのに、もう二度と動くことはないのだ。もう二度とあの笑顔を見ることはできないのだ。わたしは喉になにかが詰まったような息苦しさを覚えた。
わたしがすぐにお医者様を呼ばなかったせいだ。そんな考えが頭の中に浮かんできて、その考えのあまりの恐ろしさにわたしの足はすくんだ。ギルバート様の命令を聞かずに、すぐにお医者様を呼んでいれば、もしかしたら助かったのではないだろうか。いや、どちらにしてももう長くないと言われていたのだ。本人が望んだ通りの最期を迎えることができたことを良しとするべきじゃないだろうか。だが、それはわたしが自分の過ちを認めたくなくてそう思っているだけではないのか。
あれこれと考えてしまい動けずにいるうち、病室はまるでギルバート様の誕生日の時のように大賑わいになっていた。お医者様と看護師さんたち、彼らのお手伝いをするメイドの先輩がたが代わる代わる部屋を出入りしている。わたしはまだ衝撃から立ち直れないまま、部屋の隅に追いやられて床に座り込んでいた。今のわたしは何の役にも立てないだろうし、むしろここにいては邪魔になるだけだろう。だが、立ち上がって部屋を出ていくだけの気力も湧いてこないのだ。
そんなわたしに声をかけてくれたのは、スピーカーから響くアンドロイドの機械音声だった。
『大丈夫ですか』
あの告白は夢だったのかと思うほど、感情のこもらない無機質な声でそう問いかけられる。ギルバート様の血でところどころ汚れたアンがわたしを見下ろしていた。大丈夫なわけないじゃない、と答えそうになり、アンドロイドを相手にむきになっている自分の滑稽さを思い浮かべて口をつぐむ。心のないアンドロイドに感情を訴えたところで意味はない。本当に心がないのであれば。
「あなた、本当は、心があるのね」
呻くように漏らした自分の声が驚くほど低い。わたしは今ひどい顔をしているのだろう。対してアンの方は憎くなるほど無表情だ。
現代に残るアンドロイドは既に心を失った存在だ。人間の脳を使って作られた人工知能は人間と同じ、いやそれ以上の思考能力を有するが、心を失い感情を失った後はただの高性能なロボットと成り果てる。何か話しかけられれば適切な答えを導き出し返答することができるし、手を差し出されたら握手する、というように適切な動作をとることもできる。だが心を失ったロボットは自分から行動することをしない。あらかじめ決められた条件に従って動くだけだ。
本当に心がないのならば、本当にただのアンドロイドならば、あんな告白などできるはずがないのだ。
わたしの目線が無意識に、もぎとられた左手の薬指のあったところへ向かう。アンは細いコードが飛び出した断面を右手の指でなぞりながら、わたしの半ば独り言のような問いかけに答えた。
『ギルバート様がそれを望まれたので』
ギルバート様の葬儀が執り行われたのは二日後のことだった。
市民からも慕われていた市長の一人息子が若くして病死した、ということで、盛大に行われた葬儀には多くの人々が参列した。ご家族やご親戚の方々、お仕えする使用人たちはもちろん、生前に直接会ったことがないような市民までもが葬儀に訪れ涙した。
大勢の人に手向けられた花で大きな祭壇が作られ、花の中に埋もれるように棺が安置された。押し寄せた参列者たちによく見えるように、まだ元気だった頃に撮られた遺影が大きく貼り出されていた。わたしは先輩方と一緒に葬儀の準備や参列者の応対で忙しく動き回っていたが、おかげで遺影だけは祭壇から離れていてもよく見えた。
そこに貼り出された、温もりの感じられない作り笑顔を見た時、わたしはわたしの恋が終わったことを知った。