呼び名
パウリナは夫婦の寝室で悩んでいた。昨夜に引き続き今日も不慣れな座学で少し眠い。それでも昨日よりましなのは仮眠を取ったからである。正直にリチャードが来る前に寝てしまったので対策をしたいとキアーラに相談したところ、適切な時間の仮眠を勧められたのだ。嫌々侍女を引き受けたと言っている割には世話をしてくれるので、パウリナはキアーラを信頼している。
一方アビゲイルやシエンナとの距離はまだ縮まっていない。リチャードがいつ来るかわからないので今夜はハーブティーの用意をしなかったのだが、アビゲイルはどこか不満そうな雰囲気がした。パウリナの思い違いかもしれないが、何がしたいのかと責められている気がしたのだ。勿論パウリナはリチャードと仲良くなりたいだけである。ただ悩んでいるのに解決策が閃かないだけなのだ。
身体を動かすのもいいとキアーラに助言を貰ったので、パウリナはソファーから立ち上がると思い切り腕を上げて全身を伸ばす。肩が凝り固まっている気もしたので両肩も回した。座って話を聞いているだけでこの状態なのに、仕事をしているリチャードの疲れはどれ程なのだろう。パウリナも徐々に公務をしなければならないのだが、果たして対応できるのか不安しかない。そもそも昨日今日と聞いた話をすべて覚えきれていないのだ。わからないレヴィ語はないものの、王家の歴史など半分以上右から左へと抜けていった。
閃かない以上聞くしかないかなと考えながらパウリナが再び両腕を上げると、扉が静かに開いた。部屋の様子を窺うように足を踏み入れたリチャードと目が合う。彼女は慌てて腕を下ろした。
「すまない。返事がなかったので寝ているかと思って開けてしまった」
「いえ、扉を叩く音を聞き逃して申し訳ありません」
昨夜よりも早い、一昨日と同じくらいの時間に来ると思っていなかったパウリナは完全に油断していた。彼女は自分の行動を誤魔化すように笑顔を浮かべると、ソファーへと腰掛ける。リチャードはそんな彼女の心境を理解したのか、何も聞かずに向かいのソファーに腰掛ける。そしてテーブルに茶器がないのに気付いた。
「今夜はないのだな」
「布では保温に限界がありますから。お気に召したのでしたら冷めても美味しいものを探しておきます」
キアーラは商人の伝手を今でも持っている。相談したらきっといいハーブティーを探してくれるとパウリナは思っている。しかし目の前に腰掛けているリチャードは微妙な顔をしていた。彼女は首を傾げ、ひとつの結論に辿り着く。
「もしかして不要な気遣いでしたか? それなら遠慮せずに教えて下さい。リチャード殿下に我慢を強いたいわけではありませんから」
パウリナはリチャードを優しい人だと思っている。彼の美味しいを言葉通りに受け取ってしまったが、断り切れずにそう言っただけの可能性を忘れていた。そして今の言い方では不要と言い難いと気付いたものの、彼の本音を引き出す言葉が彼女には見つからない。
「いや、美味しかった」
パウリナはリチャードの言葉から必要なのか不要なのかを判断出来ない。父親に愛されて育った彼女は、相手の言葉の裏を考える必要がなかった。相手の為に何かしようとする意識もなかった。しかし彼女は今、彼に負担を掛けずに彼の疲れを癒したい。ただその方法はすぐに思いつかなかった。彼女が必死に解決方法を探す為に黙ってしまったので、二人の間には沈黙が訪れる。
「眠たいのなら先に寝てくれて構わない。ここの生活に慣れるのには時間がかかるだろうから」
リチャードの言葉を考える為に視線を外していたパウリナは彼を見つめる。彼女はすっかり昨夜の失態を忘れていたのを思い出したのだ。
「昨夜は睡魔に負けてしまい申し訳ありませんでした」
「いや。ただ寝る時はベッドで横になった方が良い」
「昨夜は運んで下さりありがとうございました」
パウリナは改めてリチャードに礼を言った。彼女は寝ぼけながらも発した言葉も、彼がベッドまで運んでくれたのも覚えている。一方彼女が覚えているとは思わず、彼は少し驚く。
「昨夜言おうと思っていた事を話してもいいですか?」
パウリナはリチャードが何に驚いているのかわからないが、睡魔に負ける前に考えていた件を思い出した。彼は頷いて彼女の言葉を待つ。
「結婚初夜に話していた交流の時間はいつ設ける予定ですか?」
「寝るまでの時間と思っていたが、眠いのに無理をさせるつもりはない」
「それなら一緒に朝食をとりませんか?」
パウリナはレヴィ王宮に来てからリチャードと食事をしたのは、結婚式の後の晩餐会だけだ。彼女が目覚めると彼の姿はない。彼女の眠りが深く、彼が起きても気付かないのに問題があるのかもしれないが、出来れば起こして欲しかったのだ。
「私は執務の都合上、朝食が早い。無理に合わせなくてもいい」
公務をしていないパウリナは早起きをする必要がない。その為彼女が目覚めるまで寝かせて貰っている。しかし彼女は睡眠が第一なのではない。それにリチャードの睡眠時間を削らないようにするには、彼が起きている時間に合わせた方がいい。
「眠かったら朝食後に仮眠します。現状では夫婦と言えません」
パウリナの言葉にリチャードは困ったような表情を浮かべた。彼女は何か困らせるような発言だっただろうかと考えたものの、一緒に食事をするのに問題があるとは思えない。目の前の彼は何か言おうとして悩んでいるように見えた。彼女はじっと彼の言葉を待つ。
「貴女の思う夫婦とはどういうものだろう」
待ちくたびれて何か言おうかと思った時にリチャードから発せられた言葉を、パウリナは受け止めたものの質問の意図がわからなかった。しかしそれを口実にして気になっていた事を問い質そうと思い至る。
「私の事は名前で呼んでください」
「え?」
「貴女は他人行儀です。夫婦なら名前で呼び合うべきです。ポリーでも構いません」
パウリナは笑顔を浮かべた。パウリナは母国語での発音であり、レヴィ語にするとポーリーンになるがあまり付けない名前だと聞いている。彼女はリチャードが貴女以外で呼びかけてくれるのなら、どこの国の呼び方や愛称でも構わない。
「ポリーは違和感がある」
「それならリチャード殿下が私の愛称を考えて欲しいです。貴女以外で」
笑顔のパウリナに対し、リチャードは困惑している。彼女はそれ程困らせるような要求だっただろうかと首を傾げた。
「私が呼べば貴女も変えてくれるのか?」
「ご希望があれば教えてください。すぐに変えます」
「私的な空間で殿下と呼ばれるのに抵抗がある。殿下以外なら何でもいい」
「それならリチャード様ですね」
パウリナは笑顔で即答した。リチャードが幼なじみ達からリックと呼ばれているのはスカーレット達から聞いて知っている。また家族は全員リチャードと呼ぶとも聞いている。パウリナは家族になりたいのでリックと呼ぶ選択肢は嫁ぐ前から捨てていた。
一方すぐに切り替えたパウリナにリチャードは驚くとともに感心していた。彼女のこういう所は好感が持てるので、自分も見習うべきだろうと彼女の愛称を考える。
「リーナ、でどうだろうか」
躊躇いがちなリチャードにパウリナは笑顔を返した。母国では呼ばれない愛称だが違和感はなく、彼が考えた愛称なので嬉しさの方が大きい。
「もう貴女はなしですよ」
「わかった」
そうは言ったもののリチャードの表情は硬いようにパウリナには感じられた。しかしその理由まで彼女にはわからない。時間が解決するものなのか、彼が何を思っているのか聞き出した方が良いのか、彼を見つめながら彼女は考えた。




