執務後の王太子
レヴィ王宮内にある王太子の執務室では王太子リチャードとその側近三人が執務に当たっている。しかし官吏がよく出入りするので決して静かな場所ではない。以前は四人の中で最年長であるエドガーが仕切っていたが、現在エドガーは側近を仕切る立場に変わっていた。これは念願の結婚をしたエドガーが私的時間を確保する為に、リチャードも結婚するのだから王太子としての自覚を持つべきだと言い出したからだ。リチャードはエドガーの態度の変わりように思う所はあったが、自分のせいで彼の結婚を遅らせた負い目もあったので素直に受け入れた。
夕方になり執務を終えるとエドガーはすぐに帰宅する。オースティンも比較的早く帰る。グレンは日によってまちまちだ。これはリチャードとグレンが幼なじみの中でも仲が良い方なので、執務が終わった後雑談が始まったりするからである。場合によってはアレクサンダーも加わるが、彼は別の任務中で今日は王宮内にいない。
「グレン、少し話せるか?」
「あぁ。長くなりそうなら何か飲み物でも持ってきてもらうけれど」
執務中は王太子と側近なので立場を弁えた話し方をするが、執務終了後のグレンは幼なじみとして対等な立場に切り替える。年齢はリチャードが三歳上であるが、グレンはあまり年上だと認識していない。流石にアレクサンダーのように弟とは思っていないが。
「いや、それほど長くはかからないと思う」
歯切れの悪い口調にすぐには終わらないと察したグレンは、部屋の片隅に置かれている冠水瓶へと近付く。本来なら従者が水を入れる所だが、グレンは身の回りの事は自らやる。公爵家次期当主としては珍しいのだが、彼の両親が元従者と侍女なのは有名なので周囲も誰も咎めない。
グレンは二人分の水を入れると、リチャードの机にふたつのグラスを置く。そして自分の椅子をリチャードの隣まで持ってきて腰掛ける。執務中は離れている机に着席したままでも会話が出来るが、流石にそういう話ではないことくらいグレンはわかっていた。
リチャードは礼を言うと水を一口飲む。
「レティから何か聞いていないか?」
要領を得ない質問ではあるが、グレンはリチャードが何について知りたいのか即座に理解した。リチャードが一番親しいのはジェームズにもかかわらず彼には相談しても意味がない件。そしてスカーレットが関係しているとなるとパウリナしか思い当たらない。
「公務については何も。ただ王太子妃殿下のレヴィ語がとても流暢ですごく努力されたのだろうとは聞いた。自分はメイネス語を上手く話せないのにと」
そう言われてリチャードは昨夜のパウリナを思い出す。眠そうにしていたのに言葉はレヴィ語だった。あの状況で母国語ではなくレヴィ語を使うのは確かに努力の賜物と言えるかもしれない。
「私は結局メイネス語を勉強出来なかった」
父は母の母国語を話せるとリチャードは知っている。しかし二人の会話は常にレヴィ語であるし、そもそも母がレヴィ語以外を話している姿を見た記憶がない。婚約当初は勉強しようと思っていたはずなのに、日々の忙しさと、パウリナがレヴィ語を完璧に覚えると言ってくれた事に甘えてしまったのだ。
「メイネス語を覚えても使用する場面はないので致し方ないと思うけど」
「だがグレンは覚えたのだろう?」
「私はシェッド南西語を覚えていて応用がきいただけ。そもそもシェッド南西語も普段何の役にも立たないから」
グレンの父親であるカイルは主が語学を苦手としていた為に、帝国語と公国語の通訳が出来るように習得していた。帝国語は以前貴族の教養のひとつだったので覚えている者もそれなりにいたが、公国語を扱える者は昔も今も少ない。それでグレンは両親から公国語を教えられたのだ。現在ローレンツ公国はシェッド連邦に吸収されてしまったので、シェッド南西語と呼び方を変えている。国でなくなってしまった以上、レヴィ国内でシェッド南西語を必要とする場面はないに等しい。
レヴィ王国の王太子がメイネス語を習得する必要性はないとリチャードもわかっている。父が帝国語を覚えたのは婚約の話が出る前なのだ。自分がやるべき仕事を犠牲にしてまで覚える事ではない。そもそもパウリナはレヴィ語を覚えてから嫁いでいるので、会話に不都合は一切ないのだ。
「そもそもリックに他国語は向いていないよ。レヴィ語でさえ自分の気持ちを表現出来ないだろう?」
「それは流石に言い過ぎではないか?」
「サリヴァン家でのやり取りを忘れたとは言わせない」
サリヴァン家でのやり取りとは、リチャードがパウリナに婚約の申し出をしに行った時を指す。この時リチャードは遠回しの言い方をしており、痺れを切らした通訳のアレクサンダーが意訳をして婚約が調った経緯がある。ちなみにこれは意訳ではなく誤訳であるが、リチャードは今でも意訳だと疑っていない。
「社交を苦手としているレティが友人だと思えるくらいだから、言葉の壁がない王太子妃殿下との会話は難しくない気がするけれど」
スカーレットはグレンと結婚して以降、第二王女ヨランダやグレースに助けられながら社交をしている。しかし友人が増えたとは聞いていない。表面上の付き合いだけで精一杯の様子だ。しかしパウリナとはリチャード婚約後から文通をして交流をしており、メイネス語を確認する為にグレンもその内容を見ていた。その時のスカーレットは楽しそうであり、リチャードと仲良くなれそうな女性なのだろうと判断をしていた。
「いや、私には結構難しい」
リチャードは視線を落とした。パウリナを前にして何を話していいのかわからない。彼女は自分の言いたい事を言っているとは思う。彼女の望みは出来る限り叶えたいので、そのように行動をしている。しかし現状、彼の予想していた結婚生活とは少し状況が違う。
「それはリックが勝手に難しくしているだけだと思う」
「勝手に?」
「私は王太子妃殿下との接点がないから実際の所はわからないけれど、人の話をきちんと聞く人だと思う。そして察するのは苦手なのではないだろうか」
「察するのは私も苦手だ」
「察するのが苦手同士なら、問題なんかない」
グレンにそう言われてもリチャードは意味がわからない。グレンは真面目な表情でリチャードを見据える。
「思っている事を言葉にする、それだけだ」
「それが出来たら苦労はしない」
「言わないと不要な苦労をする。年下の妻に甘えすぎるな」
グレンは強い口調でリチャードに告げた。グレンは人当たりの良い青年なので、言葉も比較的優しい。しかし目の前の幼なじみに優しさは不要だと判断をした。普段と違うグレンの態度にリチャードも危機感を抱く。
「結婚したのに何を一人で悩む? 甘えすぎるのは良くないが、遠慮しすぎも良くない」
「その加減がわかれば苦労はしない」
「結婚三日でわかるはずがない。結論を急ぐ必要もない。リックは一人で抱えすぎだよ」
一転してグレンは優しい口調でリチャードにそう言った。リチャードは不安そうにグレンを見る。
「どのような夫婦になりたいか話し合ってもいいと思う。早いうちに擦り合わせた方が今後の為だよ」
「擦り合わせ、か」
リチャードは視線を再び伏せる。何となく自分が思い描く夫婦像とパウリナが思い描く夫婦像に差がありそうで、踏み込むのは勇気がいる気がした。そんな彼の肩をグレンは優しく叩く。
「二年半前とは違って通訳不要で話せるのだから、正直に話すべきだ」
「あぁ、そうだな。ありがとう」
リチャードはグレンにそう言うと水を飲み干した。




