無理難題
ケイトは自室のベッドに腰掛けていた。鍵は昨夜から開けたままだ。そもそも鍵の存在に気付いていなかったので、出入り自由だと思っていた。だからあえて施錠する必要性は感じない。ただサージがどう思っているかわからなかったので、開けておくと伝えたに過ぎない。
ケイトは気持ちがそわそわするのを押さえるのに必死だった。入浴すると気持ちは落ち着いたものの、思いついた解決策が果たして最善なのか判断しかねたのだ。しかし今のままでは何も解決しない。相手に察してもらうのではなく、嫌なものは嫌だと伝えるべきなのだ。
ケイトが色々と悩んでいると扉を叩く音がした。昨夜と同じやり取りの後、サージは寝室に入ってきて彼女の横に腰掛ける。彼女は意を決して彼を見つめた。
「サージさん。グレースが魅力的なのは間違いないのだけれど、私と二人きりの時に褒めないで欲しい」
サージはケイトの言葉が意外だったので一瞬驚いたものの、すぐに微笑みを浮かべた。
「わかった。俺にも思い当たる事があるから気を付ける」
「サージさんはアレックスの名前を出しても平気そうだったわ」
「アレックスは平気だよ。俺と同じ性分だからね。だけどトミーは面白くない」
そう言われてケイトは今までの会話を思い出す。確かにトミーの名前を知っていた時から彼の態度はどこかおかしかった。今まであまり気にしていなかったが、毎回トミーに関しての話はすぐに終わらせていた気がする。
「トミーには結婚相手がいるわ」
「多分トミーは危険を感じて結婚を急いだんだろう」
危険は言い過ぎだとケイトは思ったが、トミーに生活が懸かっているから絶対に触れないで欲しいと以前言われた事を思い出した。サージとの付き合いが長い有能な従者がわざわざ言うのだから、本当に無給で働かされると思っていたに違いない。業務上触れたくらいで無給は流石にやり過ぎだが、不要な接触を避けて欲しいのは自分も同じだと彼女は思う。
「サージさんがホリーを抱きしめたら面白くないかもしれない」
「理由もなくそのような状況にはならないと思う」
「私もトミーと触れ合うような状況にならないわ」
「トミーは人の懐に入るのが上手い。気持ちが揺らぐ可能性は完全に否定できない」
サージは真剣な顔つきである。ケイトは彼の言葉が面白くなかった。
「私を不誠実な人間だと思っているの?」
「それは一切思ってない。それでも人の気持ちは移ろいやすいものだし、本人の理性で抑え込んでいても、どうにもならない時はある」
不機嫌さを隠しもしないケイトに対し、サージは真剣なまま対応する。それが余計に彼女には面白くない。
「私の気持ちがどこに向かうかがわからないと思っているの?」
「俺に向いてくれるよう常時努力する。でもケイトを縛りたいわけではない。相思相愛になれない場合は身を引く事も考えないといけないとは思ってる」
「離婚する準備があると言いたいの?」
「ケイトが俺と一緒だと辛くて死にたいようなら考える。流石に命は奪いたくない」
「そこまで思いつめる自分が想像出来ないわ」
「俺もそんな未来は来ないで欲しいと思ってるよ」
サージの表情は変わらない。ケイトの面白くない気持ちはかなり積み重なっていた。そもそも辛くて死にたいと思いそうな相手と結婚などしない。幸せになれると思って彼女は結婚したのだ。彼は最悪を想定する癖があるのだろうが、彼女はそのような未来など想像したくなかった。
「今夜は私が眠るまで添い寝してくれる?」
「それは構わないけれど、昨日の今日で落ち着く?」
「それは試してみないとわからない」
そう言いながらケイトはベッドへと横たわる。サージはやや困惑したものの昨夜と同じくゆっくりと掛布を持ってベッドへと上がり、二人に掛かるように掛布をかけて彼女の横へと寝転んだ。彼女は仰向けで視線を天井に向けているが、彼はそんな彼女を横向きで眺める。
「考えないで行動するのは私には難しいかもしれない。サージさんも本当は考えているのでしょう?」
「考えるの意味が違うかもしれない。勝手に想像するのを辞めて、目の前のケイトの望みを叶えようと振舞いたい感じかな」
サージの言葉を聞いてケイトは苛立ちを覚えた。彼女の望みを叶えようと振舞ったのなら、最悪の未来など想定するはずがない。彼女がどうにかしたいのは今なのである。
「それなら私がこれから何を言っても叶えてくれるの?」
「無理をしてない本心なら叶えるよ」
サージの声色は昨夜のように優しかった。ケイトはゆっくりと視線を彼の方へ向ける。
「このまま抱いて欲しい」
ケイトは真剣な表情で告げた。彼女の雰囲気が今までとは違ったのでサージは思わず息をのむ。
「私の気持ちはサージさんに傾いていると思うの。ただ今まで感じた事のない感情だから持て余していて、それをどうにかしたいの」
「急ぐ必要はないと思うけど」
「私はそもそも離婚なんて考えもしていないのよ。だから後回しにする必要もない。それとも私を抱けない理由でもあるの?」
ケイトは疑いの眼差しをサージを見つめた。ここまで避けられると相手の為と言いながら実は自分に不都合があるのではと勘ぐってしまったのだ。彼は彼女の疑いに気付いて少し焦る。
「俺側には何の問題もない。強いて言うならケイトを傷付けて取り返しがつかなくなるのが怖いだけ」
「私が望んでいるのに傷付けるってどういう状況なの? 暴力?」
「まさか。暴力は絶対に振るわない。心の問題」
「私が望んでいるのだから、私が傷付いてもサージさんの責任にはならないわ」
「責任にならなくても傷付いたケイトなんて見たくない」
ぐだぐだと逃げようとするサージにケイトは苛立った。彼女は起き上がり彼の肩を押して仰向けにすると彼に跨った。そして彼の頭を挟むように両手をつく。
「私は簡単に傷付かないわよ。考えるのを辞めて私の望みを叶えて。ここから甘い雰囲気に持っていって」
「この状況から無理難題を言うなぁ」
そう言いながらもサージは降参したのか笑顔を浮かべている。その表情を見てケイトも顔を綻ばせた。彼が彼女の背に腕を回したので、彼女は身体を支えていた両腕の力を抜いて彼に身を任せる。彼は彼女を強く抱きしめると、彼女ごと身体を横に倒した。そして彼女の額に彼の額をつける。
「俺は今結構浮かれてる。ケイトも少しは浮かれてる?」
至近距離のサージは今まで見た事のないような楽しそうな表情だ。ケイトは予想以上に早く訪れた甘い雰囲気に、今まで経験したこともない程心臓が早鐘を打っている。彼女は少しの緊張と大きな期待、そして彼に抱きしめられている事の喜びを感じていた。
「胸が高鳴っているわ」
「それなら期待に応えないとね」
そう言ってサージは額を離すと嬉しそうに微笑んだ。ケイトも楽しそうに微笑むと瞳を閉じ、二人の唇が重なる。こうして二人は一夜を共にした。




