散歩後の一時
ケイトの足の痛みが引くのを待ってから二人は自宅に戻り、彼女は玄関に置いてある時計を見て驚いた。想定していた時間より大幅に遅い。広場の店を色々見て回ろうとサージは考えていたかもしれないが、彼女の状態を考慮してまっすぐ帰宅を選択したのだろう。午後の仕事を休んでまで時間を作ってくれたのに申し訳ないと彼女は落胆をする。
「疲労を残さないように足を揉んだ方が良いと思うけど、俺は専門外だから出来ない。ホリーは出来るか?」
ケイトの落胆を疲労困憊と判断をしたサージが優しく問いかけた。彼女は笑顔を作って彼を見上げる。
「えぇ。夜会など疲れた時にしてくれるから頼むわ。サージさんはどうするの?」
「俺は庭の薬草を見てくる」
「あの薬草は研究に必要な物?」
「あぁ。だけど俺は薬学専門で植物の育成は苦手だからトミーに任せっぱなしだ」
「それなら私にも任せて欲しいの。母がハーブを育てているのを手伝っていたから」
ケイトは瞳を輝かせながらサージを見つめた。正直子爵夫人の仕事はあまりない。それに余程薬草を育てる方が、彼の役に立っている気がする。しかし彼はあまり乗り気ではない表情だ。
「土いじりは汚れるし体力も使うから、ケイトがやる仕事ではないと思う」
「歩く体力をつけるにはちょうどいい気がするわ。それにサージさんはトミーを酷使し過ぎよ」
ケイトはここぞとばかりに気になっていたトミーの仕事量について忠告をする。いくら本人が働くのが好きだとしても、働き過ぎて身体を壊しては意味がない。
「酷使し過ぎか?」
サージは玄関で立ち話をしている夫婦の様子を無言で伺っていたトミーに問いかける。
「結婚相手を探す暇はありましたから、ほどほどだと思います」
「私にはその暇がどこにあったのか疑問だわ」
昨夜、トミーは一人の女性を主達に紹介した。広場で働いているというその女性は普段貴族と関わらない生活をしているので非常に緊張していた。子爵家当主夫妻とはいえ元々の身分は更に上なので、纏っている雰囲気が違うのを感じ取ってしまったのだろう。
「時間は作るものですよ、奥様」
「もうその考え方が働き過ぎを疑いたくなるのよね」
トミーは自慢気だがケイトはそれが逆に不安になった。彼女は時間を作る必要がない。むしろ時間を持て余しているのだ。時間がない場合にしか時間を作るという発想にはならないはずである。
「しかし世の中には劣悪な労働環境が多いですから」
「そういう社会問題は兄に言って頂戴」
ケイトは政治に一切興味がない。父が国王の側近、兄が宰相補佐なので、その手の話をしてこようとする貴族も多く、それを理由に結婚を申し込んでくる家もあった。政治の世界の外にいられるというのもサージとの結婚を決めた理由のひとつだ。
「私は現状に概ね満足していますので大丈夫です」
「概ねという事は少し不満なのね?」
ケイトに問われ、トミーはちらりとサージを見た。サージはトミーの不満が何か思い当たらない様子である。
「その不満はサージ様の評価を落とすので心の内に秘めておきます」
「そう言われると聞きたいわ」
「奥様。もう足が限界でしょう? ホリーさんに足を揉んでもらった方が良いですよ」
トミーに言われてケイトは足の痛みを思い出した。自宅へ戻ってきてからずっと玄関で立ち話をしていたのである。正直立っているのは限界だった。
「それなら後で教えて。サージさんは私に隠す事なんて何もないものね?」
ケイトは笑顔でサージに問いかける。少女のような無邪気な笑顔を可愛いと思いながら彼は頷いた。その様子を見てトミーが少し呆れたような表情を浮かべる。
「サージ様が宜しいのでしたら構いませんけれど」
「約束よ」
ケイトはトミーに微笑むと自室へと歩いて行った。それを見送ってサージとトミーは庭へと出る。
「本当に宜しいのですか?」
トミーは歩きながらサージに問う。トミーの不満をサージは理解していないだろうと思って、わかりやすく評価を落とすと表現をしたのだ。しかしサージには伝わらなかったらしい。
「ケイトが聞いて嫌だと言ったら直せばいいだけだろう?」
「直す気があるのですか?」
「ケイトが嫌なら。トミーならどう思われても気にしないが」
「それをもっと早く知りたかったです。私の我慢は一体」
トミーはわざとらしく項垂れた。それを気にせずサージは庭の薬草に視線を向ける。
「ケイトの実家は温室があった。温室でしか育たない薬草もあるよな?」
「それは大学に掛け合って下さい。温室の維持費を考えるだけで頭痛がします」
トミーは明らかに拒絶している。ガラス張りの温室も十分高価だが、温度を一定に維持するのも大変だ。貴族邸宅の庭でも四阿は珍しくないが、温室は珍しい。元々公爵家だったからこそケイトの実家にはあるのだろう。
「アレックス経由で何とかなるだろうか」
「あの方は近衛兵ですから大学施設に関係ないと思うのですが」
「だが陛下の甥だ。陛下の声さえあれば国立大学の施設なら――」
「そこまでにして下さい。あの方は善意でサージ様と付き合っていらっしゃるのですよ。利用しようとするのは最低です」
「善意とは何だ。俺達は従兄弟だろうが」
「レヴィに来るまで一切面識のなかった従弟で、しかもあの方が会いに来るのも最初は邪険にしていたではありませんか」
トミーの指摘にサージは視線をそらした。伯母ライラの構い方が鬱陶しかったので邪険に扱った記憶がある。息子も同じだろうと思って最初は同じ態度を取っていたのだが、彼は機微に聡いと自己評価するだけはあった。すぐにサージとの接し方を変えたのだ。研究に支障が出ないように配慮をして会いに来る従弟を受け入れるのに、時間はさほどかからなかった。
「私以上に時間を作っていますよ、絶対に」
「だがアレックスは要領の良さも飛び抜けていると思う」
「それでも時間は皆平等です。そして近衛兵は陛下の命令に従うのであって、陛下に物を言う立場ではありません」
「やけにアレックスの肩を持つな。何かあったのか?」
「国王の甥という立場なのに毎日飛び回っていて、烏滸がましいと思いつつも同情してしまうのです」
トミーは心からアレクサンダーを心配していた。先日もサージに助言をしに来たと聞いて、自分の不甲斐なさ以上にアレクサンダーに負担をかけてしまった事を悔いていた。王弟の息子なら苦労せずに生きる道もありそうなのに、平民の自分以上に忙しくしているのを少しでも支えたいとトミーは勝手に思っているのだ。
「うちとレヴィ王家の血が流れているから、国の為に働く事こそ人生だと思っている可能性はあるな」
「何もしない貴族もいるというのに」
「それは俺に対する悪口か?」
サージは厳しい視線をトミーに向けた。公爵家嫡男であるにもかかわらず弟に継承権を押し付け、他国で教授をやっているサージは貴族の義務を放棄している。しかも弟は別段公爵家当主は望んでいなかった。それでも今は前向きに励んでいると聞いてサージはほっとしている。
「まさか。私はアレックス様に負担をかけて欲しくないだけです。それと奥様に手伝ってもらうのはいいと思いますよ」
「土いじりを?」
サージは怪訝そうな表情を浮かべた。貴族女性が土いじりをするのを好むとは彼には思えなかった。伯母と従妹は自分の馬の世話をするという話は聞いているが、それさえも常識では考えられない。しかしそれは自分と同じ血が流れているので理解出来なくもない。だがケイトは一般的な貴族女性であり、交友関係を考えても理解不能である。
「以前手伝いたいと言われた事があります。本当にやりたくなければ二回は言いません」
トミーの言葉にサージは納得せざるを得ない。ケイトの性格からして、わざわざやりたくない事をやりたいとは言わないだろう。
「一度手伝ってもらってから考えるか」
「ちなみに私と奥様が一緒に作業をしても文句は言わないで下さいね」
「俺はそこまで狭量ではない。そもそもトミーはケイトの好みじゃないから心配してない」
サージはしゃがんで薬草の育ち具合を見ながら言った。トミーは不満そうな視線を主の背中に向ける。
「嫌な言い方をしますね」
「トミーも結婚するんだから、そっちが気を付けろ」
「私達は問題ありません。本当の夫婦とはどういうものか見せつけてあげますよ」
トミーはサージの隣にしゃがむと笑顔を向けた。サージはつまらなさそうな表情を返す。
「特に参考になりそうもないから要らん」
「遠慮は不要ですよ」
「本気で要らん。真面目に仕事をしろ」
サージとトミーの会話の内容まではわからないが、自室でホリーに足を揉んでもらっているケイトの所まで声は届いていた。普段なら窓を閉めているが、歩き疲れていたので風を感じたかったのだ。ケイトは二人の関係を羨ましく思いながら、睡魔に抗えずそのまま眠りに落ちていった。




