夫婦で散歩
少しずつケイトとの距離を縮めようとしているサージは、大学での仕事を昼で切り上げて帰宅した。今日は夫婦二人で近所を歩くと約束をしていたのだ。ケイトは歩きやすい格好をホリーに用意してもらい、その姿で彼を玄関で迎えた。
「ただいま。俺はすぐに出発で問題ないけど、もう行く?」
「えぇ、明るいうちに出かけたいわ」
「わかった。手は繋ぐ? 繋がない方が歩きやすいかな」
「繋がない方が歩きやすいかも」
「了解」
二人のやり取りを無言で聞いていたトミーは扉を開けた。
「いってらっしゃいませ」
「あぁ」
トミーとホリーに見送られ、サージとケイトは屋敷の外に出た。いつもなら馬車が控えているが今日はいない。それがケイトには不思議な感じだった。
「よく考えると道を歩くのは初めてかも」
ケイトが普段外出する時は馬車移動である。前回スカーレットに会いに行った時もグレースに馬車で迎えに来てもらった。婚約時にサージと食事に出かけた事もあるが、店までは馬車移動だった。サージの案内で大学の敷地内を歩いた事はあるが、基本的に馬車の通行は禁止だったので歩くしか方法がなかっただけである。
「この辺りの道は舗装されているから大丈夫だと思うけど足元には気を付けて」
「わかっているわ」
馬車を降りて店まで少しは歩くのだから、初めてというのは違うかもしれないとケイトは思いながら頷いた。しかし目的もなく道を歩くのは初めてだ。
「どこを目指して歩くの?」
「あまり遠くに行くと戻ってこられない可能性があるから、近くの広場にしよう」
「広場?」
聞き馴染みのない単語だったのでケイトは聞き返した。サージは穏やかな表情をしている。
「王都は広い。馬車がない者が中央広場まで行くのは大変だから、いくつかの小さな広場がその役目を代わりに果たしてる」
サージの説明を聞いてもケイトはよくわからなかった。彼女の生家はレヴィ王宮に近い一等地にあるが、中央広場には足を運んだ事がない。グレースが楽しかったと語っていた記憶はあるものの、彼女はあまり興味を持てなかった。
「その目的の広場と中央広場はどれくらい距離があるの?」
「目的の広場までの距離を一とすると、中央広場までの距離は五くらいかな」
「ふーん、その一を歩いてみないとわからないわね」
「確かに。ちなみに大学までは三だよ」
ケイトが理解していないと悟ったサージは説明を付け加える。それを聞いて彼女はぼんやりしていた距離感が少しだけわかったような気になった。
「毎日サージさんが歩いている距離の半分以下なら私も歩けそう」
「広場に辿り着いたら果実水を飲んで休憩しよう。美味しいお店があるから」
サージの誘いにケイトは笑顔で頷く。彼女は普段紅茶かハーブティーしか飲まないが、果実水も好きだ。ただ歩くだけではつまらないが、果実水を飲む為に散歩をするなら悪くはないと思えた。
ケイトの歩く速度にサージは付き合った。彼なら倍以上の速度で歩けるが、彼女がついてこられないのは考えなくともわかる。そして実際会話をしながら歩いていた彼女は、歩くのが辛くなってきたのか今は無言だ。それでも帰ろうと言わないので、彼は広場への道を案内しながら付き合った。
「ねぇ、あとどれくらい?」
流石に辛くなってきたのかケイトはサージに尋ねた。彼は優しく微笑む。
「そこの角を曲がれば広場だよ」
「やっとなのね。長かった」
ケイトは安堵の表情を浮かべるとともに、普段サージが歩いている距離に恐怖さえ感じた。片道でこの三倍なら、往復は六倍である。それを毎日繰り返しているなど彼女には信じられない。しかも今日、彼は午前中に往復した後で今一緒に歩いてきたのである。
ケイトは恐怖を一旦封印して痛みを感じている足を動かした。二人が角を曲がると視界が開け、これが広場だと彼女にもすぐにわかった。
「目的の店はあそこだ。休憩にしよう」
サージが指した店は可愛い雰囲気の店だった。到底男性一人で入るような店ではなく、ケイトは訝しんだ。
「どうしてそのお店を知っているの?」
「アレックスに教えてもらったんだ。あの見かけで甘党なんだよ、アレックス」
アレクサンダーの名前を出されるとケイトは納得するしかない。本当にアレクサンダーは色々な事を知っているし、甘党なのも幼なじみなので知っている。
「俺は研究ばかりで王都に詳しくない。今まで連れて行った店も全てアレックスが情報源だ」
「そうなの?」
「歩くのは好きだから王都の地理は把握しているけれど、店は知らないと入り難いんだ」
サージは隠すつもりはなかったけど、がっかりさせたならごめんと謝る。しかしケイトは別段落胆などしなかった。出身国ではないのだから詳しくないのは仕方がない。むしろアレクサンダーが詳しすぎるのであり、頼りたくなる気持ちは彼女にもわかる。
サージは扉を開けてケイトを店内へと誘う。彼女に続いて彼も店内に入り、店員に案内されて席に腰掛けた。本来貴族が来るような店ではないので個室はない。話し声が聞こえる店内が彼女には新鮮だった。
二人はそれぞれ果実水を注文し、店員はすぐに運んできた。ケイトは喉が渇いていたので一度に半分ほど飲んだ。そして一息を入れてサージを見つめる。
「もっと大学の近くに暮らせばよかったのではないの?」
「希望の条件で大学に一番近かったのが今の所だ」
「希望の条件?」
「ある程度広さは必要だと思ったんだ。それに馬車が通れる幅のある道に面している必要もあったから」
「私のせいでサージさんは毎日歩いているの?」
「ケイトはここまで歩くのが大変だったかもしれないけれど、俺には苦じゃない。歩いている間に思考が整理できるから必要な時間なんだ」
サージは嘘を言っているようにも、ケイトを慮って言っているようにも見えなかった。しかし彼も公爵家で育った人間なので本心を隠す事も出来るだろう。それでも彼女は彼の優しさに甘える事にした。
「そう。ちなみにこの前話していた外で食べる話はこの広場にあるお店よね?」
「あぁ。食べた後に家まで歩くのは辛くない? 夕食だと帰り道は暗いし」
「確かに辛いかも」
ケイトは徒歩を誤解していた。王宮内や王宮の庭など、王都とは比べられないくらい狭いはずだ。王都の大抵の場所を徒歩で歩けるサージとは歩く速度も違うだろう。
「ねぇ、サージさんはいつもどれくらいの速さで歩いているの?」
「俺? 多分ケイトの三倍近い速さはあると思う」
「それはもう走っているのでなくて?」
「呼吸が乱れないから徒歩だ」
サージは平然と言った。ケイトは納得いかなかったが、どちらにせよ彼女には到底同じ速度は出せないので受け入れる事にする。
「私ももう少し歩けるように鍛えようかな」
「ケイトがやりたいと思ったのなら協力する。歩きやすい靴を買ってもいい」
「靴は悪くないと思う。私の考えが甘かっただけ」
「そう? 足の痛みが引くまでこの店でゆっくりしていこう。小腹が空いているなら何か頼む?」
「お腹は空いていないけれど、足が痛いって気付いていたの?」
ケイトが歩きたいと言った手前、弱音は吐けないと隠したつもりだった。しかしサージにはお見通しだったのが、彼女は恥ずかしかった。
「歩く速度が徐々に落ちていったからね。こればかりは慣れの問題だから気にしなくていい」
「サージさんも最初は足が痛かった?」
「俺は幼い頃からよく歩いてたんだよ。自由な家だったから」
サージは柔らかく微笑んでいる。ケイトはこの結婚をする際にガレス王国には行っていない。縁は切っていないが他国の人間になっているから挨拶はしなくていいと言われたのだ。仕事が忙しいので時間が惜しいのかと深く追求しなかったが、本当は帰りたかったのかもしれないと彼女は感じた。
「機会があったらサージさんの実家に行ってみたいわ」
「俺の家はガレス王都だから遠いよ。往復に二週間くらいかかる」
「新婚旅行になると思うわ」
「レヴィと比べるとガレスは見劣りするからなぁ。一応考えておく」
サージの返事にケイトは頷いた。そして残っていた果実水を飲むと、もう一杯頼んだ。




