夫婦としての歩み寄り
サージとケイトが話し合った翌日、エヴァレット子爵夫妻の雰囲気が変わったのを使用人全員が感じ取った。いつも素っ気なかった朝食の時間に、和やかな空気が流れていたのだ。これにはトミーもホリーも胸を撫で下ろした。トミーはこの状況なら観劇を楽しめるだろうと手配を進める為に外出し、サージも足取り軽く大学へと出勤していった。
一方、サージを見送ったケイトは部屋の本棚の前で思考を巡らせていた。やっと夫婦として歩み出せたのは良かったものの、問題はこれからである。恋愛小説は基本的に二人が結ばれて終わっても問題はないが、現実の人生は続いていく。夫の浮気はしない宣言を一切疑っていない彼女ではあるが、現状が求めていた夫婦かと問われると違うと言わざるを得ない。彼女は昨夜楽しい気持ちになった。しかし彼女は恋愛をしたいのである。楽しいだけでは満足できない。
やはりスカーレットから色々と聞き出すべきだったとケイトは思う。しかしスカーレットがこの手の話が苦手なのを知っているので、あまりしつこくは出来なかった。グレースがもっと兄を好いてくれればとも思うが、あの兄を好意的に受け止めてくれるだけで感謝すべき所なのでこちらも期待できない。アリスの話は絶対参考にならないと確信出来る。そうなるとケイトが頼るべき人はいない。幼なじみ以外に親しい友人などいないのだ。
ケイトは親指を顎に添え、人差し指を唇に当てて考え込む。そしてふと昨夜の出来事を思い出す。結局顔を真っ赤にしたサージはおやすみと言って居間を出ていってしまった。それでも今朝は婚約していた頃の表情に戻っていたので、彼の中のわだかまりはなくなったのだろう。愛したいと思える状況にはなった。あとは自分の気持ちが彼に向けばいい。しかしそれがわからないから悩んでいるのである。
「気持ちを向ける努力」
ケイトはグレースに言われた言葉を声に出してみた。声に出して首を傾げる。そもそも恋愛は頭で考えたり、努力をしたりするようなものなのだろうか。もっと感情的な、理性ではどうにもならないような衝動があるのではないのだろうか。それともサージを受け入れる努力が必要なのだろうか。
ケイトは部屋にある鏡台の前に腰掛けた。顔立ちは整っている方だと思うが、一目惚れされる程かはわからない。しかし顔合わせの日、サージは最初から積極的だった。運命を感じたというのも本当だろうと思う態度である。一方、彼女は未だに自分を大切にしてくれそうな人、という枠から脱出できていなかった。
そもそも本当にグレンに恋をしていたのか、今となってはわからない。スカーレットを一途に思う彼を好きだったのかもしれない。ケイトは頭の中でわかっていたのだ。グレンが絶対にスカーレットを諦めないと。
ケイトはため息を零すと鏡台に伏せた。認めたくはないが、自分は恋愛に向いていないのかもしれない。両親も兄も恋愛に向いていないのは明らかである。彼女は自分に流れる血に悪態を吐いたが、勿論何の解決にもならない。
その日の夜、サージはいつもと同じ時間に帰宅をした。ケイトと二人で食事をした後、いつものように居間に移動をし、ホリーもいつものように二人にハーブティーを用意すると部屋を辞した。サージは扉が閉まるのを確認してから、ケイトの横に腰かけ直した。
「どうしたの?」
「少しずつ距離を近付けていこうと思って」
サージは笑顔である。昨日の赤面していた面影はない。ケイトは彼の中で何が変わったのかわからなかったが、断る理由もないので受け入れた。
「どのように近付けるの?」
「俺ばかり意識してるから、ケイトにも意識して欲しい。手を触れてもいい?」
「どうぞ」
ケイトは右横に腰掛けているサージに右手を差し出した。彼は笑顔で指を絡める。想定外の事に彼女は驚きを隠せなかった。
「安易には触れないのではなかったの?」
「だから許可を取っただろう? 許可なくは触れないよ」
「夫婦なのに?」
「まずはお互いの夫婦の認識から合わせていこう。俺はもうケイトに悩んでほしくない」
サージは真剣な表情をしている。ケイトは内心どきりとした。彼の言う悩みは昨日までの不自然な態度を指しているのだろうが、彼女が彼を愛せない悩みを見透かされている気がしたのだ。しかし彼女も侯爵家で育っているので、そうそう顔に感情は出ない。
「一緒に寝るかどうかの話?」
「それよりも前に話し合う事が山のようにあると思う」
「例えば?」
「本当に俺と二人でこの家の近くを歩きたい?」
サージの質問にケイトは一瞬言葉に詰まった。彼は出不精と言っていたが、彼女もまた出不精である。家の中で恋愛小説を読むのが一番好きなのだ。
「正直に言って。ケイトが無理をするのは嫌だから」
サージは優しい表情を浮かべている。ケイトも小さな嘘が後で取り返しのつかない事になるのは嫌だった。
「あの時はこの家にいるのが息苦しくて、外の空気を吸いたかったの。だけどサージさんと私の歩けるという感覚の違いを知りたいとは思っているわ」
「確かに俺もケイトがどれくらい歩けるのかは把握しておきたいな。観劇の日とは別で歩くとしよう」
「別に同じ日でもいいわよ」
「観劇は夕方からだから、その前に歩き疲れてしまうと観劇を楽しめない。見たい作品なんだろう?」
「そうなの。王都一の劇団の新作を一度見てみたくて」
言いながらケイトは誤解を招かないだろうかと内心考える。彼女が見たいのはハリスン家当主が主催している劇団の作品である。勿論グレンは一切関与していない。
「王都一という事は王都内に複数劇団があるのか。流石レヴィだな」
サージは感心している様子だ。そういえば詳しくないと彼は言っていた。きっと劇団の名前も知らないだろう。そしてその劇団はハリスンの名前を冠していないので、知らなければわからないはずである。
「王都には三劇団あるのよ。毎年豊穣祭での演劇は持ち回りなの」
「豊穣祭という祭りがあるのは知ってるが、参加してないから詳細がわからない」
サージは本当に知らなさそうである。ケイトはそれが意外だった。豊穣祭は平民も貴族も皆で盛り上がる祭りで、知らない方が不自然だ。
「大学も休みよね?」
「休講ではあるが、興味がなかったから俺は研究室に籠ってた」
「次からは強制参加だけど、わかってる?」
「強制参加?」
「貴族が全員出席しなければならない王宮舞踏会の一回が豊穣祭の夜なの」
ケイトの言葉を聞いて、サージはわかっているという雰囲気を出したが明らかに嘘である。それを感じて彼女は呆れたように微笑む。
「王宮舞踏会への参加は了承したのでしょう?」
「したけど日程までは把握してない。トミーも疎いだろうから教えてくれると助かる」
「そうね。レヴィ貴族に関しては私の方が詳しいから任せて」
言いながらケイトはこういう時間は夫婦らしいなと感じた。お互いが足りない部分を補うのは悪くない。
「どうかした? 何が楽しいの?」
「サージさんに頼られるのは悪くないと思ったの」
「それは俺が不甲斐ないって事? 本気になれば俺は公爵家出身だから覚えられるはず」
「サージさんは興味のない事は覚えなさそうな印象があるのだけれど」
「あー、それはそう」
サージはあっさりと認めた。あまりの潔さにケイトの笑みが深くなる。それを見てサージも笑う。
「つまりケイトに関しては覚えるし忘れない。もっと色々と知りたい」
サージは笑顔だが眼差しは真剣だった。軽く話していたケイトだったが、その視線に射られたような気分になる。
「手を離してくれる? 喉が渇いたからハーブティーを飲みたいわ」
「片手では飲み難いね。気付かなくてごめん」
サージはすぐに手を離した。ケイトは身体を正面に向けてゆっくりとカップを持ち上げてハーブティーを口に運ぶ。その様子を彼はじっと見つめていた。
「何?」
「いや、ケイトが愛おしいなぁと思っただけ」
視線が気になって問いかけるケイトに、サージは照れもせずにそう言い放った。昨日赤面していた男は本当に何処へ行ったのだろうと彼女は思いながら、もう一口ハーブティーを飲んだ。




