夫婦としての第一歩
エヴァレット子爵家の夕食はここ数日と変わらず、淡々としたものだった。しかしサージもケイトも何かを考えている様子で、目の前の人間の違いにお互い気付いていない。トミーとホリーは其々の主の様子が今までと違うのはわかっていたが、口を挟める雰囲気はなかったので黙々と給仕をした。そしていつものように食後、二人は居間へと移動をし、ホリーは二人にハーブティーを用意すると部屋を辞した。
「少し俺の話を聞いてくれるだろうか」
ケイトが何から切り出そうかと迷っていると、サージが彼女に声を掛けた。彼女は別段断る理由がないので頷く。
「ケイトはエミリーの長男が好みなのか?」
サージは真剣な眼差しをケイトに向けていた。彼女は何を言われたのかわからず、彼の言葉を反芻する。そしてエミリーの長男がグレンを指していると気付いたものの、何故急にその名前が出てきたのかまでは理解出来なかった。
「どうしてグレンが出てくるの?」
「好みというものは簡単に変えられるものではないから」
「そうではなくて。何故私達の会話にグレンが必要なの?」
ケイトは不機嫌そうな表情を隠しもしなかった。サージとグレンに接点はないはずである。ジェームズもアレクサンダーも、たとえ自分の気持ちに気付いていたとしても、それをサージに言うような性格ではない。グレンの母であるエミリーとも接点があるのは知っているが、見合いの場を整えた本人が余計な情報を伝えるはずがない。しかも結婚してから持ち出してくるのが彼女には面白くなかった。
「ケイトはあの男性が好きなのだろう?」
「誰がそのような事を言い出したの?」
ケイトの幼なじみの中に余計な告げ口をする人間はいないと、彼女は確信を持っている。彼女はグレンへの恋心を外に出さないように極力気を付けていたので、幼なじみ以外が彼女の気持ちを知っているとも思えない。誰がサージに余計な話をしたのかと、彼女は苛立った。しかしその苛立ちの表情を彼は違うように捉え、項垂れて視線を床に落とす。
「やはりそうなのか」
「誰から聞いたのかと質問をしているのだけれど」
「誰からも聞いてない。結婚式の日、ケイトのあの男性を見る表情が違うと感じただけだ」
サージは力なくそう言うと目を閉じる。想定以上に心が抉られていて、とてもではないがケイトを見る勇気が持てなかった。どうやら自分の方が繊細だったようだ。
「結婚式の日なら私の気持ちは完全に片付いていたわ。何かの間違いよ」
「間違いではない。男性と仲良く去っていくレティの後姿を、羨ましそうに見ていた」
サージにそう言われても、ケイトの中では終わった初恋である。グレンの横にいるスカーレットに嫌味を言う気持ちは既にない。ただ二人のように仲良くなりたいと思っていただけだ。
「俺が自分の気持ちを持て余し過ぎて、ケイトに負担を掛けていたと思う。申し訳ない。配慮が足りなかった」
サージは項垂れた状態から頭を下げる。ケイトは彼の話の流れについていけずに混乱した。
「負担とは何の話をしているの?」
「ケイトが心から笑えるように、いつか俺を愛してくれるように努力していく。研究ばかりで今後も色々と迷惑をかけるかもしれないが――っ」
ケイトは頭を下げたままのサージに苛立って、静かに立ち上がると彼の近くで膝をつき彼の両こめかみを挟んだ。本当は顔を上に向けさせたかったのだが、彼女の力では持ち上がらなかった。
「顔を上げて。私はサージさんの前で作り笑顔などしていないわ」
ケイトの声色は怒りが滲んでいる。サージは怖かったが、彼女の望みを叶えないのも違うような気がして、恐る恐る顔を上げた。そこには不機嫌そうな彼女の顔が思いの外近くにあって驚き、思わず後ろに身体を引こうとしたが、彼女がこめかみを両手で挟んだままなので上手く動けなかった。
「結婚式の途中からおかしくなったのは、その勘違いのせいね?」
「勘違いではないと思う」
「勘違いよ。私はグレンとレティのように、サージさんと仲良くなりたいと思って見つめていたのだから」
至近距離のままケイトは言葉を紡ぐ。サージに届くように目をまっすぐ見つめて。流石に彼も彼女の言葉を疑う余地はなかった。
「俺の勘違い?」
「グレンに片思いをしていた時期があるのは認めるわ。叶わなかった初恋。それはサージさんと婚約する前に終わっているの」
「だが、私だけを愛してくれますかという言葉は、あの男性への想いがあっての言葉だろう?」
サージは探るような眼差しをケイトに向けている。彼女は勘がいいのか悪いのかよくわからない夫にため息を吐きたかったが、誤解を招きかねないので必死に我慢した。
「私が恋愛小説好きなのは知っているわよね」
「あぁ、勿論。幸せな結末になる作品が特に好きだろう?」
「そうよ。一途に愛されたいの。浮気なんてされたくないわ」
「浮気は絶対にしない。それは約束する」
サージの言葉に力がこもった。それを聞いてケイトは微笑みを浮かべる。彼女が婚約を決めたのは、彼のこの言葉の力の強さが大きい。絶対に一途に愛してくれるだろうと思わせてくれたのだ。
「浮気をしないだけでは満足出来ないわ。私だけを愛してくれないと」
「勿論、一生ケイトを愛し続ける」
「結婚してから私はその愛を感じられなかったの。本当にそう思っている?」
ケイトは微笑みを消して真剣な表情をサージに向ける。彼はそれを受け止め、現状をやっと理解した。ソファーに座った彼のこめかみを挟んでいる彼女は床に膝をついている。彼は彼女の手首を其々掴むと、彼女をソファーに座るように誘導した。彼女は大人しく誘導に従って彼の隣に腰掛ける。腰掛けたのを確認し、彼は彼女の両手を自分の両手で包んだ。
「俺が間違ってた。謝るべきは結婚後の態度だ。申し訳ない」
「何の為に結婚したのか本当に悩んだのよ」
「悪かった。これからは二人が幸せに生きていくことを第一に考えていく」
「それなら今夜から一緒に寝る?」
「寝ない」
ケイトはなるべく自然を装って、それでもかなりの勇気をもって問いかけた。しかしサージに即答で否定され、彼女は表情を歪める。
「夫婦は一緒に寝るものではないの?」
「それは夫婦によると思う。俺は一緒に寝ないと結婚前から決めてた」
「結婚前から?」
ケイトは思わず聞き返した。てっきりサージの勘違いで初夜がなくなったのだと思っていたのに、彼はそもそもそのつもりはなかったらしい。彼女が困惑していると彼は手を離した。
「ケイトの気持ちが俺に向くまでは安易に触れないと婚約した時に決めたんだ」
「もう結婚したのに、その拘りは必要なの?」
「ケイトには健やかに暮らして欲しい。我慢を強いる気はない」
「触れ合う事で芽生える感情があると私は思っているのだけれど」
「その感情が必ず正とは限らない。負の場合は最悪取り返しがつかなくなる」
サージはケイトを大切に思っているからこそ、そう判断しているのだと彼女もわかる。わかりはするのだが、その判断が正しいのかはわからなかった。
「恋愛小説を読んでいると口付けに憧れるのに、それさえもしてくれないの?」
「憧れでするものではない」
サージは力強く否定した。恋愛小説が好きなケイトより、余程彼の方が恋愛に夢を見ているようだ。学者という職業から現実的な人だと思っていた彼女は、彼を可愛いと思った。彼女は元の位置に戻るような素振りで立ち上がると、彼の不意を突いて唇を重ねる。彼は驚いて目を見開き、彼女は悪戯が成功した子供のように微笑んだ。
「いや、だから」
「触れるくらいでは良くわからないわ。サージさんからして」
ケイトは再びソファーに腰掛けた。サージは困惑している。
「今までの態度が悪いと思っているなら、口付けをして」
「それは謝罪にならない」
「私が望んでいるのに?」
ケイトは首を傾げ上目遣いでサージを見つめた。彼は心の中で葛藤をしている。彼女は急かすように身体を彼に寄せた。彼は観念したように彼女の頬に手を添える。彼女は微笑みながら目を閉じ、彼は触れるだけの口付けをした。彼女は少し物足りなくて目を開けると、目の前の彼は顔を真っ赤にさせていた。
「ふふ。サージさん顔が赤いわ」
「初めてなんだ、勘弁して」
サージは本当に恥ずかしくて両手で顔を覆った。その態度が可愛くて仕方がないケイトは上機嫌に微笑んだ。
 




