不自然の理由
サージは研究室で臨床試験の途中経過を纏めていた。現状特に問題はなく、このまま商品化できそうである。最初は大学病院のみで処方される予定だ。意図とは違う使用方法で苦情が出るのを防ぐ為である。現状でも傷痕ではなくシミやそばかすが消えないという文句が出ていた。何故火傷痕を持つ人という条件で臨床試験を受ける者を募集したのに、火傷痕以外の場所に塗って文句を言えるのか、彼には理解不能だった。
「旦那様、結婚後の意味不明な態度の理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「旦那様と呼ぶな。寒気がする」
「御主人様の方が宜しかったでしょうか」
「どちらもわざとらしくて嫌だ」
サージは手元の資料から近くに控えているトミーに視線を向ける。トミーは首を傾げていた。
「サージ様は子爵家当主になられたのですから、私がサージ様と呼ぶのはおかしくありませんか?」
「別に構わないと思うが」
「しかし私はエヴァレット子爵家の執事ですから立場に相応しい振舞を心掛ける必要があります」
トミーは真剣な表情をしている。それに対しサージは冷めた視線を返した。
「執事を雇う程子爵家としての仕事がないから兼業させただけだ。トミーの本業はあくまでも俺の従者だからな」
「新しい従者を雇う予定はないのですか?」
「ない」
サージはきっぱりと言い切った。彼は炊事や洗濯は出来ないが、身の回りの事は出来るし外食も厭わない。新しく人を雇う必要性を感じていなかった。
「雇いましょうよ」
「上司になりたいのならガレスに帰れ。母に手紙なら書いてやる」
「レヴィに馴染んでしまったのでガレスには帰れませんよ。私に冷たすぎませんか?」
元々同じ国で言葉が同じとは言え、生活水準はレヴィ王国の方が上だ。レヴィ王国での当たり前がガレス王国では望めない事柄もある。
「それなら今まで通り働け。給金は上げただろうが」
「いつ取り上げられるか冷や冷やしながら奥様と対峙している私の気持ちを慮って頂きたいものですね」
トミーは不満を顕わに訴えた。サージは視線を手元の資料へと戻す。
「子爵家の仕事はないに等しい。説明は一日で事足りただろう?」
「それは終わりましたが、執事と当主夫人が会話しない訳にはいきませんからね。そもそも執事を雇わなかったのも私が一番安全だと思ったからでしょう?」
サージはトミーの話を聞いてはいるが、返事をせずに資料に取り掛かる。しかしトミーもサージとの付き合いは長い。話を聞きながら手を動かせると知っている。
「最初の質問に答えてもらっても宜しいでしょうか」
「意味不明な行動などしていない」
「明らかに不自然ですよ。結婚してから遠慮をするのはおかしいでしょう?」
「別におかしくない」
サージは資料を見比べながら返事をする。薬の成分を少しずつ変えて臨床試験をしており、どれが一番効果を望めるかを見極めなければいけない。いつもならトミーの言葉を聞きながら出来るのだが、サージはどうにも上手く集中出来ずに視線をトミーに向ける。トミーは呆れた表情を浮かべていた。
「叙爵動機が不純過ぎるのですよ」
「ケイトを平民にしたくなかったという理由が?」
「それは表向きですよね。本当は貴族なら離婚が難しいと聞いたからでしょう?」
サージは最初の叙爵打診を酒の席でアレクサンダーから聞いた。アレクサンダーは近衛兵であり、国王エドワードの甥でもあるので意向調査だったのだろう。サージは公爵家当主になる将来を憂いて大学教授になったので、最初は乗り気にならなかった。しかしアレクサンダーの方が上手であったのでサージが叙爵に傾く言葉を並べ立てたのだ。そのひとつが貴族の場合は離婚時に国王の承認が必要になるである。悔しかったサージは子爵なら話を受けると答えて現在に至る。
「離婚が難しい状況に囲い込んで、さぞかし前のめりに接するかと思えば妙な距離。何でしょうか、あの態度」
「煩いな。少し時間が必要なだけだ」
「現状の収入で奥様が満足な暮らしが出来るという確認は取れました。他に何の時間が必要なのですか」
「それはトミーが口を挟む事ではない」
サージはトミーを睨む。しかしそれで怯むトミーではない。
「私は心配しているのですよ」
「お前に心配される俺ではない」
ケイトは兄ジェームズから鬱陶しいほどの愛情を注がれていた。両親からの愛情もあっただろうと思われる。しかし彼女はサージに『本当に私だけを愛してくれますか?』と問いかけた。それを強く肯定したので彼女は結婚を前向きに考え始めたと彼は思っている。しかし家族から愛されていた彼女が愛情を問うのは不自然だ。それでもその不自然に気付かぬふりをして、彼女の気持ちが変わらないうちに話をまとめた。結婚後に彼女と共に時間を重ねれば愛情は育つと疑わなかったのだ。
だがサージは追及しなかった事を結婚式当日に悔いた。何故と問われてもわからないが気付いてしまったのだ。ケイトの心に別の男性がいると。それが従妹スカーレットの夫だと。気付いた瞬間今まで聞き流していたアレクサンダーとジェームズの話を思い出し、その気付きは確信に変わった。叶わぬ片思いから救い出す相手として選ばれただけで、別に自分でなくても良かったのだと。
一生に一度の結婚式だったにもかかわらず、気付いた後のサージの記憶は曖昧である。ケイトに触れるのが怖くなったので、とりあえず距離を置くと決めた。彼女は侯爵令嬢として大切に育てられている。表情を取り繕うのは問題ないはずだ。今まで自分に向けられていた表情が全て作り物だったとしたらと考えると、彼はもう恐怖しか感じなかった。彼もまた公爵令息として育てられているので表面上の付き合いくらい造作もない。しかし運命の女性だと浮かれていた彼は、彼女の本質を見抜けていたとは思えなかった。楽しそうに結婚準備をしているように見えて、実は無理に楽しく振舞わせていたかと思うと彼女の前に立つ事さえ怖かった。
「サージ様は考えすぎる所があるので私は心配です」
「前のめりの俺を止めていたのはトミーだったと思うが」
「そうですね。態度が急変し過ぎです。奥様もきっと不思議に思っていらっしゃいますよ」
トミーの言葉を受けてサージは小さく息を吐く。上手く取り繕えていると思っていたのだが、ケイトには見抜かれていると昨夜確信した。今まで聞いてこなかった研究の話を尋ねられ、一緒に出掛けたいと言い出すなんておかしい。しかし彼はまだ彼女とどう向き合うべきなのかの答えが出せていなかった。彼女の初恋の相手は自分とは違い過ぎるのだ。
「観劇の手配の件は私に任せてもらいました。日程を先送りにしますか?」
「いや、観に行きたい作品があるのだろうから彼女の希望通りでいい」
夫婦で観劇をするのはよくある趣味だ。特に貴族の場合は夫婦仲が良いと周囲に見せる意味もある。社交をしないとはいえ貴族である以上妙な噂が立っては困るので、夫婦で一度は出掛けておくべきだとサージは判断していた。
「御主人様がそう仰せなら従いますけれども」
「俺の呼び方を決めろよ。気持ち悪い」
「呼びかけ方で従者の立場と執事の立場を切り替える事にしました」
トミーは柔らかい表情を浮かべている。友人の少ないサージにとってトミーは従者であり友人でもある。多分煮詰まる前に話を聞いてもいいという彼なりの思いやりだろう。
「俺が独身のトミーに相談するはずがない」
「私も給金が上がりましたので近日中に結婚を考えています」
「は?」
予想外の発言にサージは訝しげな表情を浮かべた。トミーは笑顔である。
「近々紹介します。使用人として雇う気があればそれでもいいと彼女は言ってくれています」
「勝手に話を進めるな」
「いいではありませんか。女手はあって困るものではありません」
サージの実家でも使用人は家族で暮らしていたが、その家族も使用人になるかは各々に任されていた。今暮らしている屋敷は決して広くないが、数人の使用人なら問題なく住めるだろう。
「それは執事であるトミーに任せる。私は基本ここに籠っているからな」
「畏まりました。それでは私は観劇の手配に行ってきます。失礼致します」
トミーは一礼をすると研究所から出ていった。サージはその扉を見つめながらため息を零すと、再び資料へと視線を戻した。




