所詮研究しか出来ない男
従者に説得されて帰宅したサージは、すぐに浴室へ押し込められた。研究室に籠りっぱなしで普段のように歩けない主にゆっくりでいいと伝えた従者は、一足先に家に戻ってお湯を沸かしていたのである。従者が主を置いて先に帰宅するのはおかしいのだが、主の時間を無駄にしないという従者の配慮なので彼は気にせず入浴した。久々に浸かる湯船は気持ちよく、彼はケイトへの手紙に書く内容を考える。
「溺死されたら困るのですけれど」
なかなか上がってこない従者が浴室を確認すると、サージは湯船で寝落ちしていた。睡眠時間を削って研究していたのは明らかだったので、従者は勿論寝落ちの可能性は考えていた。しかし流石に湯の中に顔を沈めた状態を見せられては気が気でなく、従者は慌てて引き上げたのだ。当の本人は寝ていて記憶がないらしく、髪の水滴を拭いながら首を傾げている。
「死ねないよ。研究も途中だし、ケイトとも結婚してないし」
「湯船で寝ないで下さい」
「それなら先に寝かせて風呂にすればよかったじゃないか」
「臭い身体を横たわらせる場所など、この家にはありません」
サージの家は集合住宅の一室だ。平民が借りるには広いが、公爵家出身者が選ぶには狭い。サージは住まいに拘りを持っていなかったので、従者が選んだ部屋だ。サージの部屋と従者の部屋と居間、そして水回り一式が室内にある。浴室や御手洗が共用しかない賃貸住宅は従者には許容範囲外だった。ちなみにサージ自身は共用でも気にしないので、大学の研究室で寝泊まりが出来るのだが。
「とりあえず綺麗になったから問題ない」
「本当に公爵家嫡男として育てられたのか疑問です」
「幼い頃から俺を見てきた癖に記憶障害か?」
「あの家は皆様綺麗好きでしたよ」
サージの育った屋敷には浴室がふたつあった。どちらも複数人で入れるほど広い。サージも屋敷にいた時は毎日入浴していたのだが、レヴィ王国に留学してから面倒くさがるようになった。元々好きではなかったのかもしれないが、医学を学んでいる以上衛生面には気を付けるべきであり、その辺りが従者は気になっていた。
「公爵家の人間なら身嗜みは大切だろうが、俺は今平民だからな」
「汚い教授の薬なんて効果がなさそうで嫌です」
「世の中に出回っている薬の調剤は俺がしてないから問題ない」
サージはきりりとした表情で告げているが、内容は一切格好良くない。調剤までしていては新しい研究が出来ないので、彼は信頼のおける人達に薬の調剤から販売まで任せていた。
「とにかく無駄話をしている時間はない。ケイトに手紙を書いて寝たら明日から研究を再開する」
「屋敷に関する資料は明日読みますか?」
「もう頭に入れた」
サージは従者と話しながら、机の上に置かれていた資料に目を通していた。そして彼は資料の中から目ぼしい物を取り出して従者に渡す。
「このふたつを押さえておいてくれ。どちらにするかはケイトと相談する」
「押さえるのにはお金がかかりますよ?」
「予算内なら構わない。今の研究がうまくいけば収入が増える。問題ない」
サージは闇雲に研究をしている訳ではない。世の中に必要な薬を見極め、その中で開発できなそうな薬の研究をしている。平民向けの薬がある程度流通した今、特殊な薬の研究に舵を切っていた。長年医者の中でも研究はされているが芳しい結果が出ていない麻酔である。局部麻酔はあるが、数時間で効果が切れてしまう。
レヴィ王国のモリス公爵領には大病院がある。モリス公爵家当主セオドアは外科医として有名であり、息子達も全て外科医という変わった一家である。しかし外科医として腕に自信があっても麻酔なしでは難しい。セオドアは長時間の大手術が出来る麻酔薬を欲していた。そしてその依頼がサージの所へも届いていたのである。サージも長時間効果のある麻酔があれば救える命が増えるのはわかっているので、長らく研究していたのだ。
「それは研究が成功する場合でしょう? 今回の薬は難しいですよね」
従者に冷静に指摘されサージは視線を外す。長らく暗闇の中にあった研究に一筋の光が差したのは間違いない。しかし完成の目途はまだ立っていなかった。一歩進んだだけである。
「現状でも子爵家相当の年収になるはずだ」
「相手は侯爵家令嬢です。子爵と侯爵ではかなり差があると思いますけれど」
「ケイトは散財に興味がなさそうな装いだった」
「食事に拘りがあるかもしれません。それに趣味にはいくらでも払う人間も多いですよ」
従者の指摘はもっともである。サージは研究以外に興味がないので、教授になってから稼いだ金は貯まっていた。彼も公爵家出身なので、使用人がそれなりに必要なのはわかる。いくら彼が従者一人いれば十分だとはいえ、侯爵家の令嬢の使用人が一人とは考えにくい。諸々の諸経費とケイトが何不自由なく暮らせる生活費を考えると、現状の収入では心許ない気がした。彼は研究ばかりしているが、現実的な計算も出来る男である。
「領地がないのは辛いな。リデルの一部を割譲してもらうか」
「レヴィに暮らしながらガレスの領地を治めるなんてやめて下さい。そもそも領地経営している余裕はあるのですか?」
リデルはサージの実家の領地なので当然ガレス王国にある。研究をする為には国立大学の設備が必要なので、領地へ定期的に赴く時間は惜しい。それに彼は嫡男だったので領地経営については学んでいるものの、別段面白いとは思えなかった。
「いや、領地経営するより長時間用麻酔を完成させた方が儲かる」
「言い方に気を付けて下さい。昔は気品がありましたよね」
「気品なんか研究に不要だ」
「女性と接する時に必要です」
サージはじっと従者を見つめる。従者は真面目な表情でそれを受け止めた。
「なんだかんだ言って俺に結婚してほしいんだな」
「結婚して欲しいから正しく接して欲しいのですよ。とにかく失礼のない手紙を書いて下さい。私が明日の朝届けますから」
「わかった」
サージは微笑を浮かべると椅子から立ち上がって自室へと向かった。机の上には従者が用意した便箋が置かれている。それを見てサージは口元を緩めた。主がその辺にある適当な紙で手紙を書きかねないと思っているのは失礼極まりないが、実際そのつもりだったのでこの気遣いを有難く受け入れる。彼は椅子に腰掛けると、手紙の内容について考え始めた。
サージは嘘を吐く事に対して、それ程抵抗はない。しかしケイト相手に嘘を吐くのは愚策に思えた。一生を共にするなら自分を守る為の嘘は吐かない方が良い。そもそも寝不足の状態で書くのさえ良くない気がした。そう判断した彼はベッドに横たわり、熟睡してから手紙を書く事にした。
翌朝。熟睡して頭がすっきりしたサージはケイト宛の手紙を書きあげ、それを従者に渡した。従者は手紙の配達に向かい、サージは再び研究室に籠りきりの生活に戻った。
「手紙の返事が来ないのですが大丈夫ですか」
再び研究室に籠って五日後、従者は心配してサージに話しかけた。確かに自分でリスター侯爵家へ配達したのだから、ケイトの手元に手紙は渡ったはずである。返事がいつ来てもいいように従者はサージの部屋で待機していた。しかし五日過ぎた今も返事は届かず、従者はサージの研究室を訪れていた。
「問題ない。数ヶ月待って欲しいと書いておいた」
サージはなんて事のないように言いながら、仮説を書いた紙に打消し線を引く。思いついた仮説が全て間違っていた場合、また考え直しだと彼は憂鬱な表情を浮かべる。一方従者は主の言葉を受け止めて、困惑の表情になった。
「数ヶ月? 何故ですか」
「この研究の目途が立たないと満足な生活が用意出来ない。だから邪魔をするな」
「いやいやいやいや。どこに興味のない男を数ヶ月待つ女性がいるのですか。縁は切れましたよ」
「は?」
サージは苛立った表情を従者に向ける。しかし従者は自分が正しいと思うので怯まない。
「は? ではありません。サージ様はケイト様を待てるでしょうが、逆はあり得ません。何をしているのですか」
従者は盛大なため息を吐いた。女性の扱いに長けていないとは思っていたが、まさかここまで酷いとは従者も流石に思っていなかったのだ。封蝋する前に手紙の内容を確認しておくべきだったと後悔しても遅い。寝る前ではなく熟睡後に書くよう伝えるべきだったとも従者は後悔したが、そもそもサージは寝た後に書いているので、その後悔には何の意味もない。
「折角のご縁が切れてしまったではありませんか」
「切れたと決めつけるのは時期尚早だろう」
「切れていますよ。礼儀を弁えている貴族女性が返信を書かないのは、関係を終わらせたいと思っているからです」
従者の言葉は気に入らなかったが、サージは納得するしかない。待つ気があるなら待ちますという返信があるはずなのだ。現状の身分はケイトが上であり、手紙を無視されてもサージは何も出来ない。
「そもそも数日待たせた手紙に数ヶ月待てとか、サージ様はケイト様をどう思っていらっしゃるのですか。サージ様は現在公爵家嫡男ではないのですよ。態度が肩書と釣り合っていません」
従者は常識をサージに語る。流石のサージも自分の行動が間違っていたと認めざるを得ない。しかしケイトを諦められるはずもなかった。
「俺は諦めないぞ。この麻酔を完成させて彼女に結婚を申し込む」
「完成する前に彼女が別の人と結婚しそうですね」
従者は冷たく言い放った。確かにサージの研究はいつ終わるかわからない。貴族女性が長らく独身でいるとも思えない。ジェームズかエミリーから話を通してもらう手もあるが、今の状況で裏から手を回すのは悪手としか思えなかった。
「あのジェームズが許す男などそうそういないはずだ。とにかく集中するから邪魔をするな」
サージはそう言い放つと研究に戻る。従者はもう一度大きなため息を吐くと、床に転がっている実験道具を拾い集めて洗いながら、新居候補を押さえ続けるか悩み始めた。




