スミス卿の悪足掻き
「今日、リスター侯爵家から婚約の打診があったんだけど断っていいよね?」
夕食時、リアンから発せられた言葉にグレースは驚く。
「急がなくていいとジミーには伝えたのに、もう申し込みがあったの?」
グレースの返事にリアンは顔を顰める。常々エドワードとスティーヴンを親友扱いしている父が、ジェームズとの婚約に難色を示すのはグレースにとって意外だった。
「可愛いグレースは苦労しない人生を歩むべきだ」
「私の気持ちを尊重してくれないの?」
「ジミーが好きなのか? あのジミーを?」
リアンは怪訝そうな表情を浮かべている。ジェームズの仕事の評価は悪くない。もしかするとウォーレンの部下なのが気に入らないのだろうかとグレースは考える。
「よくわからないけれど、多分好きなのだと思う」
「よくわからないのなら断る。グレースが絶対に結婚したい人でなければ話にならない」
「結婚ではなくて婚約なのだから難しく考えなくてもいいと思うけれど」
「婚約を解消するのは簡単じゃない。結婚しても後悔しないと思えないのなら婚約などしてはいけないんだ」
リアンの声に珍しく怒気が混じっているので、グレースは考え込む。グレンとスカーレットは婚約期間を延ばし、結局その延長期間を無視して結婚している。だから婚約は口約束より少し制限があるだけで強制的なものではないと彼女は思っていた。しかしジェームズはやたらと婚約に積極的だったので、婚約さえしてしまえば結婚出来ると思っているのかもしれない。
「けれどジミーは婚約期間中に嫌になったら解消してもいいと言ってくれたの」
「口では何とでも言える」
「ジミーは嘘を吐かないわ」
グレースは真剣な眼差しをリアンに向けた。ジェームズは甘い言葉を囁いて女性を騙すような器用な男ではない。ましてや他の男性を愛している女性を無理矢理妻にするような性格でもない。リスター侯爵家は領地を持っていないので、ジェームズが一生独身でも両親は責めないだろう。
「とにかく駄目だ。許可しない」
「リアン様。流石に可哀想です。可愛いグレースが前向きに考えられる相手を見つけたのですよ?」
二人のやり取りを黙って聞いていたフローラが口を挟む。いつもなら妻の言葉で冷静さを取り戻すリアンだが、彼は強い視線を彼女に向けた。
「グレースは誰を選んでもいいんだ。ジミーで妥協する必要はない」
「妥協はしていないけれど」
「あんな面白味がない男と結婚しても息が詰まるだけだ。絶対に後悔する」
面白いかどうかと言われると確かに面白くはない。噛み合わない会話も多々ある。しかしグレースは婚約期間中にジェームズを愛おしく思うようになる予感を抱いていた。
「だから婚約期間を二年設けているの。私も今すぐ結婚したいとは思っていないわ」
「それなら結婚したいと思ってから行動すればいいよ。ジミーに結婚相手など絶対に現れないだろうから」
随分とジェームズに対して失礼だとグレースは思ったが、実際ジェームズは他の女性と結婚する気はなさそうなのでリアンの意見は間違っていない。それに彼女も婚約はどちらでもいいと思っている。婚約していない男女が二人で過ごすのは良く思われないが、二人は幼なじみと認識されており、今までも非難の声など聞いた記憶がない。結局彼女は父親を説得する熱量が足りず、リアンは当主権限で婚約を拒否した。
リアンが婚約の打診を拒否して三日後の夕刻。スミス家の客間にリスター侯爵家当主夫妻と嫡男ジェームズの姿があった。
「ちょっと! 勝手に押しかけてこないでよ」
「私はリアンと違って常識を持っているから言いがかりはやめて欲しい。奥方に招待されたのだ」
淡々と説明をするスティーヴンの言葉を聞いて、リアンはリスター侯爵家三人の向かいに腰掛けているフローラに視線を向ける。
「フローラが本当に招待したの?」
「えぇ。可愛いグレースの将来はグレースが決めるべきです。いくらリアン様でも勝手に断るのは良くないと思いました」
「だけどグレースも別に婚約はしなくてもいいって言ったよね?」
リアンはフローラの横に腰かけているグレースに視線を移す。グレースは父をまっすぐ見つめた。
「正直に言えばどちらでもいいと思っています」
グレースは三日間考えてみたものの、どうしても婚約をしたい理由が見つけられなかった。娘の言葉を受けてリアンはジェームズに厳しい視線を向ける。
「こういう訳だから帰って」
「せめて彼の口からグレースに婚約を打診した理由だけでも聞いてみましょうよ。ね」
フローラは自分の隣に腰掛けるようリアンに勧める。彼は渋々そこに腰掛けた。
フローラがリアンに意見をするのは珍しい。いつもは夫に言いくるめられてしまうのだ。しかしフローラも娘の幸せを願っている。嫁姑問題を考えるとミラが義母なら不幸にならないとフローラは判断していた。これは彼女自身が次男の嫁と折り合いが悪い故の考えである。
「グレースさんは賢くて努力家です。そしてそれを決してひけらかしません」
ジェームズはリアンの返事を聞かずにグレースについて語り出した。それをフローラは笑顔で受け止める。
「また誰に対しても優しく明るく接します。彼女の笑顔は癒しです」
フローラは笑みを深くする。リアンも娘が褒められるのは嬉しいが、相手が気に食わないので複雑な表情を浮かべている。
「スミス夫人に似せた化粧をした姿は美人ですが、私は素顔がとても可愛いと思っています」
流れるようなジェームズの言葉にグレースは恥ずかしくなって俯く。彼の言葉は貰った手紙の内容と重複している所もあるのだが、明らかに今聞いた言葉の方が愛情を感じられる。最初から手紙にもそう書いておいてくれれば、胡散臭いとは思わなかったかもしれないのにと彼女は恥ずかしさを誤魔化すように内心悪態を吐く。
「ジミーの癖に生意気だ」
「申し訳ありません。どのような意味でそう言われたのか説明をお願いします」
「ここは察して黙る所だから」
リアンの苛立ちの原因がジェームズにはわからず、納得は出来ないがとりあえず口を閉じた。その態度が余計にリアンを苛立たせる。
「俺はミラさんが苦労しているのを見てきたんだよ。グレースには苦労をしてほしくない」
「息子と夫は全く違います。夫と同類だと思わないで下さい」
リアンの言葉にミラが反応した。リアンからしてみればジェームズもスティーヴンも仕事第一の男にしか見えない。ミラは満足しているのかもしれないが、リアンにはジェームズがグレースを幸せにしてくれるとは思えなかった。
「同類でしょ。リチャード殿下とグレースが同時に倒れたら、ジミーはグレースを置いて王宮へ行くと思うな」
「それは当然だと思いますけれど」
グレースの言葉にリアンは驚きの表情を向ける。
「当然じゃない。妻を差し置いてはいけないよ」
「お父様は陛下とお母様が同時に倒れた場合、陛下を一切気にせずお母様の側にいますか?」
グレースの言葉をリアンはすぐに肯定が出来なかった。その二択を迫られた場合フローラを選ぶとは思うが、エドワードを気にしない自信がなかったのだ。
「私の側にいてくれるでしょうけれど、そわそわしているのは隠しきれないでしょうね」
フローラは穏やかな笑みを浮かべてリアンを見る。彼女は夫の事で誰彼構わず牽制をするわけではない。夫が大切に思っている人に対しては敵対心を抱くだけ無駄だとわかっている。そしてその最たる相手がエドワードだと理解していた。
「私もリアン様とグレースが同時に倒れたら迷います。ですから他の指摘でお願いします」
フローラの言葉にリアンは傷付いたが、自分も妻と娘の二択は確かに迷うのでこの指摘自体が無意味だったと気付く。しかしジェームズはウォーレンの下で働き続けているのだから執務能力に問題はない。散財も浮気もしそうにない。短所は社交性の低さと仕事人間過ぎるくらいだろう。
だがジェームズと同じ短所を持つ夫を受け入れているミラは、多くの苦労をしたが決して不幸には見えない。グレースは自分が耐えれば丸く収まるとは考えず、ジェームズと話し合って最善の道を探すだろう。険しい道でも楽しそうに歩く娘を簡単に想像出来て、リアンは表情を歪めた。
何も言葉を発さずにいるリアンの前に、スティーヴンは封書とペーパーナイフを差し出した。
「何?」
「陛下からの預かりものだ」
リアンは封書を手に取ると、念の為封蝋を確認する。こういう時のエドワードは楽しんでいるに違いないので見たくないが、開封しない訳にもいかない。リアンはため息を零すとペーパーナイフを使った。
―― 娘の幸せを願うならば己の我儘を通すな ――
「エディに書かせたの?」
「陛下に笑顔で押し付けられた」
「あぁ、だろうね。自分の事を棚に上げて良く言うよ」
エドワードはスミス家からの婚約打診を断り続けていた。最終的にはアリスをエドガーに嫁がせてはいるが、結婚時のアリスの年齢は二十三である。グレースはまだ十八歳なのだから、あと五年は文句を言われる筋合いはないとリアンは思った。
「レヴィ王国では貴族の婚姻に国王が口を挟むのは良くない」
「それは国王からではなく、一個人としての封書だと思うが。親友はやめたのか」
スティーヴンにそう言われてリアンは再び書面に視線を戻す。確かに正式な文書ではなく、エドワードの走り書きだ。再び見た事で先程は気にも留めなかった署名がリアンの視界に入る。それはエドワードではなく、エディと書かれていた。
「ちなみに了承してくれるのなら、そのペーパーナイフを譲ると言っていた」
リアンは書面を畳んで一旦テーブルに置くとペーパーナイフを手にした。全く気付いていなかったが、持ち手の所にエドワードの封蠟と同じ鷲の紋章がある。王族のみが許される鷲の紋章は一人一人意匠が違い、勝手に真似るのは犯罪だ。手に入れるには下賜されるしかない。そしてリアンは下賜された事がないので何ひとつ持っていなかった。
リアンはペーパーナイフを見つめたまま動きを止める。いくら貴重品とはいえ物で娘の将来を売り渡してはならない。だが欲しい。そのような父の葛藤をグレースは的確に読み取った。
「お父様、遠慮なく頂戴すれば宜しいではありませんか」
「いや、グレースを不幸にしてまで欲しい訳じゃない」
「私は婚約をするもしないも、どちらでもいいと伝えましたよ」
グレースは笑顔をリアンに向けた。これはあくまでも婚約の話である。将来婚約を解消したとしても、ペーパーナイフを返せとエドワードは言わないだろう。娘の言葉を理解して、リアンはジェームズを見据える。
「グレースが望んだ場合は絶対に婚約を解消すると誓え」
「誓います」
「即答かよ!」
「そうならないと自信がありますので」
リアンは口の端を引きつらせながらジェームズを睨んだが、ジェームズはそれくらいでは動じない。
「まぁ、それが誓えるというのなら前向きに検討しよう」
「検討?」
スティーヴンが平坦な声でリアンに問う。リアンはスティーヴンに視線を移す。
「当たり前だ。大事な一人娘の婚約を一切思案せずに調える馬鹿な親がいるものか」
「リアンは私よりもジミーに詳しいと思うが」
「それは父親の発言として最低じゃない?」
「リアンが一般的な父親から外れているのだ」
リアンとスティーヴンがどうでもいい喧嘩を始めた所で、それを聞き流しながらフローラはミラに微笑みかける。
「可愛いグレースを宜しくお願いしますね」
「えぇ。こちらこそ末永く宜しくお願いします」
こうしてリアンの悪足掻きで更に時間はかかったものの、グレースとジェームズの婚約は無事に調ったのだった。
フローラが次男嫁と折り合いが悪いのは、似た者同士だからです。
どちらも夫が一番を譲りません。
リアンとスティーヴィーを含め周囲は流しています。
(スティーヴィーが領地スミスにいるのはこの諍いを避ける為)
ちなみにリアンと息子達の仲は良く、フローラと息子達の仲は普通です。




