小説のようではないけれど
グレースは手にしていた本を閉じると机の上に置いた。休みの日に読もうと楽しみにしていた恋愛小説なのに、一向に内容が入ってこない。彼女は椅子の背もたれに身体を預けて小さなため息を吐いた。
長兄の結婚式で発せられたジェームズの軽い言葉。あの時グレースは確かにあり得ないと思ったのだ。周囲にいた幼なじみも皆笑っていたので冗談として流されたはずなのに、彼は何故かその後結婚に前向きになった。突然の求婚に彼に会わないよう逃げた彼女であるが、今思えば自分らしくない態度である。断っても聞き入れてもらえなかったので仕方なかったとしても、毎回向き合って断るべきだった。それが出来なかったのは心の奥で彼を受け入れられるかもしれないと期待していたのだろう。
グレースは机の引き出しに視線を向けてすぐに伏せる。恋文と思えない便箋は保管中だ。捨てればいいと頭ではわかっているのに出来ていない。しかし保管したままでは前に進めない。そう思って手を伸ばそうとした時、扉を叩く音がした。
「お嬢様。リスター侯爵令息がいらっしゃいましたが、いかがなさいますか?」
何故今なのだろうと思いながらグレースは扉に向かって答える。
「約束をしていない人には会わないわ」
「私もそうお伝えしたのですが、お嬢様の誤解がわかったから説明するまで帰らないと仰せなのです」
グレースは部屋に一人なのを良い事に思い切りため息を吐いた。ジェームズには散々常識を身に付けろと言っていたはずなのに、一向に身につかないのが不思議でならない。しかし彼女は父親が何の連絡もなしにレスター公爵家に足を運んでいた話を聞いている。向こうが父を受け入れたのだから、こちらも受け入れなければ筋が通らないかもしれない。
「庭の四阿に案内して頂戴。そちらで会うわ」
「畏まりました」
執事の足音が遠ざかっていくのを確認してから、グレースは鏡台で自分の姿を見つめる。今日は一日中家で読書の予定だったので化粧をしておらず、ゆったりしたワンピースを身に纏っていた。恋心を自覚した相手の前に出る恰好ではないだろう。しかし常識のない相手に時間をかけるのは面倒に思えた。彼女が髪を櫛で梳いて整えていると扉を叩く音がした。
「お嬢様、化粧の用意をお持ち致しました」
「ジミー相手に要らないわ」
来客と聞いて準備をしてきた侍女は、あっさりとグレースに不要と言われて扉の前で立ち尽くす。グレースは櫛を鏡台に置くと扉を開けた。
「その格好でお会いになられるのですか?」
「何か問題があるかしら」
「いえ、お嬢様は魅力的ですから何も問題はありません」
侍女は笑顔ではっきりと答えた。彼女付きの侍女は家族同様、グレースを常に可愛いと言う。ジェームズが化粧をしていない事に対して何か言ってきたら言い返そうと思いながら彼女は庭へと向かった。
庭に出てグレースは四阿の方へ視線を向けて足を止める。ジェームズ一人だと思っていたのに、もう一人腰掛けていた。背中しか見えないが先日の女性に見える。見知らぬ女性を庭へ入れた執事が彼女には理解出来ない。
「あの、宜しければどうぞ」
ついてきていた侍女がグレースに扇を差し出す。グレースは礼を言って受け取った。幼なじみに素顔を見せるのは構わないが、見知らぬ人間に晒すのは抵抗があったのだ。グレースは扇を広げると目から下を隠すようにして四阿へと近付いた。
「用件は手短にお願いします」
グレースは四阿から少し離れた所でジェームズに声を掛けた。流石に四阿の中に入る勇気は持てなかったのだ。しかしそれをジェームズが察せるはずもない。
「他人行儀だな。グレースの家なのだから座ればいいだろう」
「勝手に尋ねてきた人に時間を費やす気はありません」
グレースの言葉を聞いて、ジェームズが連れてきた人物は立ち上がると振り返って彼女に微笑んだ。
「この度は私のせいで誤解をさせてしまい申し訳ございません」
全く悪びれない様子にグレースは扇で隠している口元を歪めた。一体どこの令嬢だろうと彼女はじっと目の前の人物を無言で見つめる。相手は一向に動じず微笑みを浮かべたままだ。彼女はその顔を見ながら既視感を覚えた。ジェームズが女性と話していないと言った事、スカーレットが素性を話していいか確認してくると言った事。執事が了承も得ずに庭に通した事。彼女はとある人物に辿り着くと扇を閉じて足を四阿へと進めた。
「アレックスなの?」
「えぇ、近衛兵の仕事でこのような格好を稀に致しますのよ」
グレースはまじまじとアレクサンダーを見つめる。彼を美形だとは思っていたが、男性としか認識していなかった。近くで見ると確かにアレクサンダーなのだが、遠目では完全に女性にしか見えなかった。
「自由人だとは思っていたけれど性別まで偽れるとは知らなかったわ」
「私のこの姿は内緒にして下さいませ」
「勿論。執事にも言っておくわ」
スカーレットが言えないと言っていたのだからアレクサンダーが女装をするのは秘密なのだろう。執事以外の使用人は気付いていないだろうが、執事はわかっていて通したはずだ。
「それでは誤解も解けたという事で私は先に帰らせて頂きますね。ジェームズ様、この借りは覚えておいて下さいませ」
「その話し方はやめろ」
「まぁ。用もないのに化粧をした私に何て酷い言葉なのでしょう。そう思いますわよね、グレース様」
アレクサンダーは元が整っているので、化粧にどれくらい時間がかかるかはわからない。しかし女装する用事もないのに、誤解を解く為だけに身なりを整えてくれたのなら申し訳ないとグレースは思った。
「えぇ、ジミーには私が強く言っておくわ」
「ありがとうございます。それでは失礼致しますね」
アレクサンダーは笑顔を浮かべて一礼をすると、四阿から出ていった。グレースは彼の後姿に視線を向ける。歩き方も女性にしか見えない。器用な男だとは思っていたが、むしろ何が出来ないのかを聞きたいくらいである。
「いつまでアレックスの後姿を見ているつもりだ」
ジェームズが不機嫌そうにグレースに問いかける。彼女は視線を彼の方へ向けた。
「貴方こそいつまで座っているおつもりでしょうか。用件はわかりましたので、どうぞお帰り下さい」
「何故他人行儀なのだ。とりあえず座って話そう」
「話す事はありません」
「あるだろう? 私は婚約の話を進めに来たのだから」
ジェームズの言葉にグレースは自分の耳を疑った。確かに誤解は解けたが、だからといって婚約をしようとはならないはずだ。しかし目の前の男は非常識であり、社交性も低い。
「ジミーとは結婚しないと何度も言ったわよね?」
「だからまずは婚約をして愛を深めよう」
「私達に深まる愛なんてあるかしら?」
「私にはある。グレースにもあるだろう?」
ジェームズは何故か自信に満ちている。グレースはその根拠がわからない。
「ないわ」
「嘘は良くない」
ジェームズは立ち上がるとグレースの手を引き、彼女を四阿にある腰掛けに座らせた。そしてその隣に自分も腰掛ける。
「近い」
「婚約者になるのだから問題ない」
「勝手に話を進めないで」
グレースはジェームズを睨むが、彼は微笑んでいる。誤解は解けたはずなのに話は噛み合わない。この嚙み合わない会話を一生続けるのは難しいかもしれないと彼女は思う。
「今日は化粧をしていないのだな。やはりグレースはありのままが一番可愛い」
「さらっと言わないで」
「肌も綺麗だな。触ってもいいか?」
「良くないわよ」
ジェームズの自由な発言にグレースは苛立ちながらも、褒められているので悪い気はしなかった。しかし目の前の男を伴侶に選んで後悔しない自信もない。彼はこの会話も楽しいと思っているのだろうが、彼女は自分の感情をどう表現するのが正しいのか判断出来なかった。
「婚約期間を二年設けて、それでも私を受け入れられないのなら解消でどうだ」
「その婚約に何の意味があるの?」
「婚約期間中、堂々とグレースに愛を伝えられる」
ジェームズは真剣な、それでいて愛情を込めた眼差しをグレースに向けた。くすぐったいような何とも言えない感情を彼女は持て余す。即決は出来ないが、目の前の男と家庭を築いて笑顔を浮かべる自分が想像出来て、彼女は必死に言葉を探したが何も見つからない。
ジェームズは何も言わないグレースの手を取ると、恭しく手の甲に口付ける。彼女はまるで自分が恋愛小説の主人公になったような気分になった。ふわふわした感情が彼女の中で舞っている。
「ジ、ジミーらしくない」
「グレースの好みに合わせるのも悪くないだろう?」
ジェームズはグレースに微笑む。彼は妹に貸してもらった恋愛小説から引用したに過ぎないが、彼女がそれに気付くはずもない。彼女は完全に彼に翻弄されていた。
「婚約の話を進めてもいいだろうか」
「私が好きな人を見つけた場合はすぐに解消してくれるのよね?」
「そうならないよう努力をする」
ジェームズは相変わらず自信に満ちた笑顔を浮かべている。グレースは彼の勝算の理由を知りたかったが、婚約したからといって負ける訳ではないと気付く。彼と恋愛さえ出来れば彼女の夢は叶うのだ。
「その努力が叶うといいわね」
「恋愛結婚は一方通行では成り立たないのだから、グレースも努力が必要だ」
「そうね、ジミーが努力するに値するなら考えてあげるわ」
「何故上から目線なのだ」
「最初に上から目線で求婚したのはジミーよ」
グレースは未だに兄の結婚式での発言を忘れていない。自分が恋愛結婚に憧れていると知っているのなら、あの場での発言はあり得ない。今の婚約の打診も正直あり得ない。しかしジェームズに雰囲気を求めるのも間違っているような気がしてしまう。
「その態度も可愛いと思えるのだから、私は結構重症かもしれない」
笑顔でそう言うジェームズにグレースも自然と笑顔を浮かべる。このような恋愛小説は好みではないが、自分達二人の関係は悪くないような気がしてきた。
「可愛いな。口付けてもいいか」
「嫌」
「即答か」
「いいと言うと思ったの?」
グレースは不思議そうに尋ねた。どう考えても自分が首を縦に振る質問ではない。しかしジェームズは笑顔だ。
「半々。だが流される方に期待していた」
「残念だったわね」
グレースは楽しそうに微笑むと立ち上がった。
「今日は読みたい小説があるの。もう帰って貰ってもいいかしら?」
「婚約者に対して冷たいな」
「正式に婚約が成立してから出直して頂戴」
グレースの言葉にジェームズは一瞬動きを止めたものの、意味を理解して立ち上がった。
「わかった。最速で婚約が成立するよう今日は帰る」
「ジミーに任せるけれど、別に急がなくていいわよ」
「色々と準備は整えてある。あとはスミス家に申し込むだけの状態だ」
仕事は出来ると思っていたが、そのような事まで整えていたのかとグレースは呆れながら笑顔を零す。ジェームズは彼女に微笑むと、急ぎ足で庭を後にした。
翌日、リスター侯爵家からスミス公爵家に婚約の打診があった。意外にも当主リアンが難色を示し、想定以上に時間がかかったもののグレースとジェームズの婚約は無事に調う。婚約者になっても二人は相変わらず言い合いをするような関係ではあったが、お互いの笑顔は確実に増えたので周囲は温かく見守った。
ここで一旦、この二人の話は終わりです。読んで下さりありがとうございました。




