公爵令嬢 女官見習いになる
レヴィ王宮内にある王妃専用執務室は、国王の執務室とは場所が離れている。王妃は政治に関わるような案件を取り扱わないので、基本的に行き来をする必要がないからだ。しかし王妃として国内外の付き合いは当然あるので、完全に政治と切り離されている訳ではない。それでも王妃ナタリーは国王エドワードの政治に口を挟まないと決めており、彼女を支えている女官達もそれを承知して働いていた。
ナタリーは隣国シェッド帝国より嫁いできたのだが、母国は民達の暴動をきっかけに帝国から連邦制へと移行している。それ故に彼女には後ろ盾がないように見えるが、政略結婚にもかかわらず国王である夫エドワードからの寵愛を一身に受けているので立場は盤石だ。しかも彼女はその愛情を全身で受け止め、愛されて幸せだという雰囲気を隠さない。彼女は性格も穏やかなので、王妃専用執務室の空気は常に柔らかかった。
その王妃専用執務室の扉の前で、一人の女性が深呼吸をする。彼女は今日から女官見習いとして配属されたのだ。働きやすい環境で欠員が出難く女官の募集は滅多にない。しかし彼女はナタリーに直談判をして女官見習いの座を手に入れた。彼女の生家は裕福で、働かずとも生きていける。だがこのままではいけないと彼女は思い立ち行動に移したのだ。
王妃には護衛騎士がいないので扉の前には誰もいない。女性は自ら扉を二度叩いて名を告げる。部屋の向こうより許可の声が届くと、ゆっくり扉が開いた。女性は一礼をしてから王妃専用執務室へと足を踏み入れる。
「グレース・スミスです。本日から宜しくお願い致します」
グレースと名乗った女性は再度一礼をした。彼女はスミス公爵家の長女で十八歳。名前を名乗らずともここにいる全員が彼女を知っている。彼女は社交好きであり、交流関係も年代を問わず幅広い。
「グレース、それ程畏まらなくていいわ。気楽にしていいのよ」
部屋の奥にある椅子に腰掛けたままナタリーが微笑む。しかしグレースは真剣な表情を崩さない。
「いいえ、私は父とは違いますから公私は分別致します」
グレースの言葉をナタリーは笑顔で受け止める。グレースの父はスミス公爵家当主であり、国王の側近でもあるリアンだ。議会などでは真面目に振舞うものの、基本的には貴族と思えない気軽さがある。国王の執務室でいかにリアンが砕けた態度で仕事をしているのか、ナタリーも話には聞いていた。
「そう。振舞いはグレースに任せるわ。こちらこそ宜しくね」
ナタリーはそう言うと、女官達の紹介を始めた。現在ナタリーの女官は未亡人四人だ。世代もナタリーとほぼ同じなので、グレースの母フローラと同世代になる。スミス公爵夫人フローラの評判はあまり良くないが、ここにいる女官達は笑顔でグレースを迎えた。フローラは全女性を敵対視するのに対し、グレースは悪口を一切言わない。家族全員に愛され甘やかされて育ったグレースではあるが、彼女は生まれ持った賢さと社交性の高さを存分に発揮して貴族社会を上手く立ち回っていた。
「最初に確認をしておくけれど、グレースは王太子妃の女官になる為に志願をした、で間違いないわね?」
「はい、間違いありません」
エドワードとナタリーの長男である王太子リチャードはメイネス王国のパウリナ王女と婚約中である。レヴィ王国はこの大陸一の大国であり、レヴィ国民達は他国語をまず勉強しない。国内だけで十分に経済が回っているので他国に頼る必要がないのだ。今回のリチャードとパウリナの婚約も決して政略結婚ではなく、リチャードが選んだ女性がたまたま隣国の王女だっただけの話である。
「二年もあると思うか、二年しかないと思うかは難しい所だけれど、パウリナ殿下を王太子妃として万全の状態で迎える為に一緒に頑張りましょうね」
「はい」
王太子の婚約について、まだ納得がいっていない貴族は多い。しかし十五歳で成人してから、国内の独身貴族女性と数えきれない程リチャードは顔合わせをしている。王太子妃に選ばれる機会は平等に与えられたのに、国内貴族女性の誰も王太子の心を掴めなかっただけ。メイネス王国が取るに足らない小国とはいえ、パウリナに難癖をつけるのは間違っている。グレースはそんなパウリナを支えたいと思ったのだ。現在レヴィ王国に公爵家は五家あるものの未婚女性は二人だけ。そのうち一人は未成年の為、グレースの発言力は強い。同世代の王太子妃に選ばれなかった貴族女性を黙らせるのにこれ程強い味方もいないので、ナタリーも女官見習いになるのを心から受け入れていた。ちなみにグレースとリチャードは幼なじみであるが、お互い幼なじみ以上の感情が一切ない関係である。
「仕事は主にふたつ。ひとつはヨランダが担当している児童養護施設の公務をパウリナ殿下に滞りなく引き継ぐ準備。もうひとつはパウリナ殿下が王太子妃として皆に受け入れられるような下地作り」
ナタリーの言葉にグレースは頷いて応える。グレースは主に下地作りを担当する為に女官見習いになったのだが、公務の引継ぎに関しても特に問題はない。元々はナタリーの公務であり、それを第一王女アリスが引き継ぎ、アリスが降嫁した為に現在は第二王女ヨランダが引き継いでいる。そのヨランダへの引継ぎの際にグレースもその内容を聞いていた。ヨランダとグレースは幼なじみであり仲のいい友人である。
「下地作りは重要な仕事だと思っています。アリス様の力もお借りしながら対応させて頂きます」
「あら。アリスを姉とは呼んであげないの?」
グレースは三人きょうだいの末っ子だ。兄が二人おり、長兄エドガーの妻がアリスである。スミス公爵家の敷地内に別宅を建てて二人は仲睦まじく暮らしており、グレースもたまに顔を出していた。
「公私は分別致します」
「そう。一日の業務を終えて時間がある時はアリスの様子を教えてくれるかしら?」
「それならば問題ありません」
グレースはにこやかに答えた。親子ではあるが、公爵家に降嫁した娘に頻繁に会うのは憚られるナタリーの立場をグレースは理解している。ただでさえスミス家の当主が国王の側近、嫡男が王太子側近でかつ第一王女の伴侶。そこに長女までもが王太子妃の女官になると言い出したのだから、他の貴族からスミス家の贔屓が過ぎると言われても仕方がない。暫く距離を置くのが無難なのだ。
「ありがとう。では早速だけれど書類に目を通してくれる?」
ナタリーの言葉を受けて一人の女官がグレースを席に案内する。グレースが着席すると机の上には書類が置いてあった。表紙には王太子妃を迎える準備についてと書かれている。グレースは書類を手に取るとそれを読み始めた。パウリナ王女の年齢や生い立ち、メイネス王国がどのような国かの説明、王太子妃として迎える為に必要な準備の数々。そこまで読んでグレースは一点引っかかった。
「あの、質問をしても宜しいでしょうか」
「えぇ、どうぞ」
「こちらの予算については王太子殿下に近い担当と相談とありますけれど、担当はどの部署になるのでしょうか?」
グレースは国政に関わってきたわけではないので、予算の仕組みには詳しくない。王太子妃なのだから国家予算から出てもよさそうであるし、リチャードの個人予算からという可能性もある。
「リチャードが一番信頼している人が担当よ。グレースも面識があるから大丈夫」
ナタリーに笑顔で言われてグレースは嫌な予感しかしない。そもそも顔の広い彼女は国内の貴族はほぼ網羅している。だが、リチャードに近いとなれば限られており、その中で一番可能性の高い男性をグレースは最近避けていた。
「あえて名前が書かれていないのは、担当変更が可能という事でしょうか?」
「リチャードが迷っていたのよ。側近にこの仕事を振っていいのかを」
ナタリーの言葉をどう捉えるかグレースは迷った。リチャードの側近三人のうち二人は新婚である。残る一人は付き合いが浅く、リチャードをよく理解しているかは不明。そうなると側近には仕事を頼み難いような気がした。彼女が避けている男性の確率がぐっと上がる。
グレースが悩んでいると扉を叩く音がして、部屋の中に男性が入ってきた。彼女は扉の方に視線を向け、表情が崩れないよう必死に取り繕う。
「あぁ、良い所に来てくれたわね」
ナタリーは笑顔で入室した男性を受け入れる。男性もまたにこやかな表情を浮かべた。
「グレース、改めて紹介するまでもないけれど彼が担当よ」
「こうして顔を会わせるのは久しぶりだな、グレース」
「えぇ、そうですね。ジェームズ様」
グレースはわざと平坦な声色で告げた。入室した男性はジェームズ・リスター。国王の側近スティーヴン・レスターの嫡男であり、リチャードのはとこに当たる。二人は幼なじみであるが、彼女が必死に避けていたので顔を会わせるのは久しぶりだ。その彼女の態度に対しての嫌味だろうが、彼女はそれに付き合う気はなかった。
「将来の夫に対して随分と余所余所しいな」
「そのような根も葉もない話を勝手にしないで頂けますか?」
ジェームズは柔らかい空気を纏っているが、グレースは無表情で断固拒否という雰囲気を醸し出している。それを女官達ははらはらしながら見つめていたが、ナタリーは呑気に仲良しねと思いながら微笑を浮かべていた。
こうしてグレースの女官見習いは憂鬱な状況から始まったのである。




