混-4
白いまぶしい光に目を覚ますと、黒須トオルは自室のベッドの上にいた。
枕元に置いたデジタル時計を確認する。日付の表示が、あの白い毛玉と出会った放課後から一日経っていた。
あの時。のっそりとベッドの上で起き上がりながら、トオルは思い出す。
月本マシロが望みを口にした後の記憶がない。白い光が見えて、次の瞬間にはこのベッドの中にいた。
アレは夢だったのか……?
ベッドサイドを見やると、見覚えのない古めかしい鍵が置かれていた。持ち手部分に黒い宝石がはまっており、羽箒のようなものがついている。
「ホーキー」だ。知らないはずなのに、その名前がトオルの脳裏に浮かび上がってきた。
あの毛玉が、ケセラが寄越したものだ。これを体に浮かぶ鍵穴――「コーザリティ・サークル」だったか――に差し込むと、「ディストキーパー」になれる、と。
じゃあ、現実か。
「ホーキー」を取ろうと手を伸ばすと、体に何か違和感があった。身体的なバランスが変わっているような……。
ぱさり、と視界に何か黒いものがかかる。反射的に手で払いのける。
髪の毛だった。長く、束になって目にかかってくる。
やたら伸びてんな。トオルはずっと短髪だった。髪が長いと、昔は父親に掴まれるし、今だとケンカの時に不利だからだ。
それが、今朝は頭が重いぐらいに長い。
どうなってる?
顔を上げると、ベッドのちょうど向かいに姿見が置かれていた。
こんなもんあったか? 不思議に思いながらそれを覗き込む。
映し出されたその姿に、トオルは思わず大きな声を上げそうになった。
「お……」
腰まで届く長い黒髪。記憶よりも白くきめの細かい肌。10センチばかり低くなった身長。そして何よりも、パジャマ代わりのTシャツとショートパンツの下から、控えめな胸と主張する尻……。
思わずトオルの手は、その少し膨らんだ胸に伸びていた。
「女に、なってる……!?」
わしっ、と掴んだそれは大きさの割にはやわらかかった。
『驚いているようだね』
姿見をのぞくトオルの背後から、少年のような声がした。
振り返ると、ケセラがふわりと浮かんでいた。
ちょうどいい、とトオルは毛玉の頭をむんずと掴んだ。
「おい、どうなってる……? テメェの仕業だろ……!」
『昨日説明したじゃないか。「ディストキーパー」の資格について』
資格? とトオルは眉を寄せる。
一つは過剰に不幸であること。もう一つは――。
『肉体が女であること、だ』
「ディストキーパー」になるには、どうしても女の体が必要だった。だから、ケセラは「インガの改変」を行い、トオルを女にしてから「ディストキーパー」に変えたのだという。
「ンなことまでできんのかよ!?」
『大がかりな改変になるから普段はしないがね』
マジかよ……、とトオルはケセラを払いのけるように手放し、床に座り込んだ。
『そんなに落胆するとはね。君が望んだことじゃないか』
「いや、オレが望んだのは『ディストキーパー』になることで、女になることじゃないんだがな……」
『その二つは不可分だ。どちらか一方を叶えることはできない』
説明しろや、とため息混じりに言ってトオルは立ち上がった。
「まあ、なっちまったもんは仕方ねぇ。女として生きるか」
『物事を深く考えすぎない前向きさ、助かるよ』
姿見に向き直ると、これからどうしたらいいのかが何となく頭に浮かんでくる。
朝起きたら、いつも髪をとかしてくくっていたな、とか。化粧水やハンドクリームを使っていたな、とか。存在しないはずの、女として生きてきた記憶が蘇ってくるのだ。
とりあえず、とトオルはブラシで髪をとかし、「ホーキー」の隣に置かれていた二本のヘアゴムで髪をまとめた。自分でも驚くぐらい、何年もそうしてきたかのようにすんなりできた。
「とは言え、これちょっとよぉ……」
左右のこめかみの辺りで二つくくりにした自分の姿を見て、トオルは少し赤くなる。
「かわいすぎね?」
『ツインテールというのだっけ。よく似合っていると思うよ』
褒められて悪い気がしないのが、少し腹立たしかった。
「というかよ」
トオルは姿見に映った胸の膨らみを右手で撫でた。
「ここ、もうちょっと盛ってくれてもよかったんじゃね?」
『そこまでは注文に応じられないね。君には巨乳の才能はなかったから』
どんな才能だよ、とトオルは苦笑った。
制服に袖を通し、トオルは登校のために家を出た。
トオルの母親は、息子が娘になっていることに違和感を覚えた様子もなく、むしろずっと娘だったかのように接してきた。
セーラー服もスカートも抵抗なく着れてしまったことなどからも考えると、ケセラの「インガの改変」は、「トオルを突然女にした」のではなく「最初から女として生まれてきた」ようにしたのだろう。
ただし、これまでやってきたことは変わっていないらしい。ケンカの戦歴も、相手が女に変わったということはなく、男に勝ってきたことになっているようで、登校中にすれ違う学友たちのビクついたような態度は、男であったとき以上になっているようであった。
まあ大して変わんねぇか。女になっても、オレはオレってことだな。
避けられるのには慣れている。あまり深く考えることなく、トオルは歩みを進める。
中学へ続く坂道を足早に登っていくと、目の前に五、六人の女子生徒のグループが歩道いっぱいに広がって歩いていた。
トロくせぇ、と少し顔をしかめたトオルの目に、見覚えのある背中が飛び込んでくる。
グループの最後尾を歩く、切り揃えたショートカットの少女。昨日会っただけだが、その佇まいは強く印象に残っていた。
「よう!」
その背中にトオルは声をかけ、肩を叩いた。周囲の生徒がざわついたのが分かった。
「あ!」
振り向いた月本マシロは、にっこりとトオルに笑いかける。
「おはよう! 何か、その、今日は……かわいいね!」
その反応で、昨日までの記憶を残していることをトオルは悟った。
「だろ? 朝起きた時はさすがにビビったが、ちょっと気に入ってんだよ」
ツインテールの片方を撫で、冗談めかして応じる。
「うれしいよ、何か、すごく、うん……!」
その笑顔からは、昨日まであった色はなくなっていた。心から言葉通りの気持ちを表しているようだった。
「よかったな、お前も」
「ありがとう、本当に」
顔を上げると、前を歩いていた女子生徒たちが立ち止まり、呆気にとられたような様子でこちらを見ていた。
それを見て、マシロはトオルの右腕に抱きついた。
「お、おい……!」
女同士ならスキンシップだろうが、体に反してトオルの精神は男のままだ。さすがに少しドキッとした。
「この人ね、わたしの友達なの!」
その宣言に、女子生徒たちの間に困惑と焦りが広がっているのが分かる。面白い程だな、とトオルは何も言わずにそれを見つめていた。
「そ、そう、だったんだ……」
「じゃあ、その、先、行くね……」
「う、うん。そうしよう」
女子生徒らは言い訳のようなものを口にし、こちらに背を向けて歩き出した。
「ゆ、ユッキー、行こう……?」
一人だけ、こちらをじっと見ていた女子生徒も、促されて踵を返した。
「やった……!」
マシロはぐっと拳を握った。
「あいつら、別に仲良しってわけでもないみたいだな」
「うん。ぜーんぜん!」
あっけらかんと、前を行く女子生徒たちに聞こえるような大きな声で肯定した。
昨日とはまるで様子が違う。体の性別が変わったトオル以上に変化が大きい。
そのことが、トオルには心地よく感じられていた。
「ねね、トオルって呼んでいい?」
「好きに呼べ。ならオレも下の名前で呼ぶぜ」
そう言ってから、女になったのに名前変わってないな、と今更ながらに気付く。
「いいんじゃない? シゲルって名前の女の子もいるし。トオルもいると思うよ」
「そういうもんか?」
そういうもん、とマシロは歌うように応じた。