混-3
放課後の校舎裏に漂っていたしゃべる毛玉と、その毛玉に何かを誘われていた少女。
「何か分かんねぇけどよ、戦うとか、そういう話してんのか?」
彼女らにトオルはゆっくりと近付いていく。
「俺も混ぜろよ」
『驚くべきことだ……』
毛玉――ケセラは体を揺らした。
『ここには人払いの結界が張ってあった。何なら、僕らを君たち「インガの表側」のものたちは、認識すらできないというのに』
「ワケ分かんねえ専門用語、並べ立ててんじゃねぇぞ」
威圧するようにトオルは毛玉を見下ろす。
「俺にも説明してみろ。その、『ディスト』とかいうのと戦う話だ」
ふむ、とケセラはしばしそのつぶらな目を閉じた。
トオルはマシロの方に視線を移す。マシロは目を丸くしてトオルを見つめている。
目が合うと、彼女はすっと表情を変えた。あの、笑顔のような笑顔になった。
そんな顔するな、とトオルが言いかけた時、ケセラが『分かった』と言った。
『君にも説明しよう。「ディスト」のこと、「ディストキーパー」のこと――』
この世の「インガ」がどのように回っているかを。
毛玉はふわりとトオルの目の高さまで浮かんだ。
ケセラが語ったのは、以下のような内容だった。
ケセラはこの世の「インガ」をコントロールしている「エクサラント」という場所から来た使者だということ。
この世の「インガ」を動かした際に「インガクズ」という廃棄物が生じ、それが裏世界とも呼ぶべき「インガの裏側」に堆積して「ディスト」という怪物になること。
「ディスト」が「インガの裏側」で暴れると、この世界に影響が出ること。
「インガの裏側」には「エクサラント」は直接できないこと。
『だから、「ディスト」を片付ける「ディストキーパー」が必要なんだ』
「エクサラント」が「ディストキーパー」に選ぶ人間は、過剰に不幸な人間だということ。
幸福の総量は定まっていて、それが均等に配分されていない人間を勧誘すること。
『「ディストキーパー」の仕事は危険だ。だけれども、それを補って余りある特典がある』
それが、「インガの改変」だということ。
『つまり、「ディストキーパー」になってくれるのなら、一つだけ思う通りにこの世界を変えていい、ってことなんだ』
なるほどな、とトオルはうなずいた。
「面白そうじゃねェか。俺も一口乗らせろよ」
『いいだろう……、と言いたいところなのだが……』
君は二つも資格に欠けている。ケセラは、人間で言えば首を横に振るような素振りを見せた。
「資格? 過剰に不幸な人間じゃない、ってことか?」
『ああ。以前の君ならばそうだったが、今は違う』
あの父親の元で暮らしている時ならば、その資格はあったということだろう。
そう理解して、ふとトオルはマシロの様子を見やる。
マシロは身じろぎもせず、角材の山の上に腰かけている。誰にも見られていないのに、まだ笑みを浮かべていた。
「それが一つだとしたら、もう一つは何だってんだよ?」
長い息をケセラは吐いた。それはそれは長い息で、それを吐ききる間に丸い体は20センチ近く沈み、吐き終わるとすぐにぷかりと元の高さへと浮かんできた。
『性別だね』
ケセラはまじまじとトオルの体を見回した。
学校指定の学ランを着崩した、同年代に比べると背の高い少年の体をつぶさに眺めた。
『体の性別が女でない限り、「ディストキーパー」にはなれないんだ』
「なんっだそりゃ……!」
今度はトオルが長いため息を吐く番だった。
生まれながらにして駄目なんだったら、説明せずに追い返せばいいものを。期待しちまったじゃねえか、と急激に気持ちがしぼんでいくのを感じた。
「しょーもねぇ。最初っから俺にゃ関係ない話じゃねぇか……」
『まあ、そうなるね……』
「帰るわ」
そう踵を返した時、不意にマシロが立ち上がったのが見えた。
「何だよ?」
マシロは口を開きかけ、だが何も言わず俯いてしまった。
下を向く少女の姿を見るトオルの脳裏に、ケセラの言葉が反響してきた。
(過剰に不幸な人間を選ぶんだ……、以前の君ならば資格はあっただろうがね――)
そして、マシロの浮かべた笑みとは言えない笑みが蘇ってくる。
「……おい」
トオルはケセラに向き直った。
「こいつは資格があるんだよな、二つとも」
トオルがマシロを指すと、ケセラは体を上下させた。肯定ということらしい。
「だったら、こいつの資格を使って俺を『ディストキーパー』とかいうのにしろ」
『……何だって?』
ケセラの少年のようでどこか事務的な口調に、初めて感情のようなものが混じった。
『どういう意味だい、それは……?』
「鈍い野郎だな。過剰に不幸なこいつの言う通りに世界を変えて、俺を『ディストキーパー』にしろって言ってんの」
それは、と言いかけてケセラは口をつぐんだ。体が左右に揺れる。その未知の体の奥で、何か検討しているのかもしれない。
「お前、月本だったか、それでいいだろ?」
マシロは顔を上げた。
笑ってはいなかった。目を見開いて、ジッとトオルを見ている。
「わたしは――」
少し目を伏せてマシロは続ける。
「不幸、なんかじゃないよ……」
「なワケあるかよ」
即座にトオルは否定した。
「そこの毛玉が、お前には資格があるって言ったじゃねぇか。資格があるヤツの前に現れるんだろ、こういうのってよ」
性別の方はともかく、以前の自分には「資格があった」という。それを思い返せば、マシロの作る表情の理由も何となくは想像がついてしまう。
「つまりお前は、ボロボロに不幸せなんだろ?」
突きつけられた人差し指に、マシロはかぶりを振った。激しく、何度も振った。
「違う、違うの……。不幸なんかじゃないの……。家の中で寝られるんだもの。ご飯に困ってないんだもの。着るものもあるし、学校にも通えているんだもの……。そんなの、みんな不幸だなんて思わないでしょ? みんなはわたしを、幸福だって思うに――」
「『みんな』の話はしてねぇよ。お前がどうか、って話をしてんだよ」
トオルの口調は決して強いものではなかった。だが、鋭く突き刺されたように、マシロは口をつぐんだ。口元に手をやり、それ以上は言葉が継げない様子だった。
『――今、「エクサラント」は結論を出した』
体の揺れを止めて、ケセラがゆっくりと目を開いた。
『「ディストキーパー」になる際に「インガの改変」の権利を与えるのは、世界の行く末をコントロールしていることで幸福の偏りが生じてしまっていることに対する、償いの意味合いがある。よって、「エクサラント」としては月本マシロにその権利を受け取ってほしい』
しかし、とケセラは続ける。
『「ディスト」と戦うことに対して忌避感を覚えるというのならば強制はできないというのもまた事実だ。前述のとおり、「ディストキーパー」になることは権利だからね、行使しないことも自由だ』
だがここに、とケセラはトオルに向き直る。
『君の代わりに戦うというものがいる。それも望んで戦おうとしている。はっきり言って、ある種の狂人だが――』
うるせぇ、とトオルは悪態をついた。
『これ以上のチャンスは、二度とめぐってこないと断言できる』
マシロはゆっくりと手を下ろした。
「わたしは――」
紅潮した頬を伝う雫をぬぐって、トオルを見やる。
「自分を幸福だって言い聞かせてた。お父さんは、わたしのことを『恵まれてる、幸せだ』って言っていて、それをまるっと飲み込んでいた……。辛いとか苦しいとか、そんなこと絶対に言っちゃいけなかったから……」
どんなに不満があっても、そうと感じていないかのように笑顔を貼り付けて。
「だからね、狂人さん。あなたがわたしの代わりに戦ってくれて、それでわたしがこの世界を望むように変えられるとするなら……」
わたしが望むことは――。