混-2
黒須トオルが父親のことを思い返すとき、いつも頬や胸の痛みが蘇る。
トオルの父親は外では穏やかな人間として通っていたが、家の中では暴君そのものだった。
妻の料理が気に入らないからと食卓をひっくり返し、彼女を殴った。
トオルの目が気に入らないからと頬をはたき、蹴り転がした。
床に転がされ、腹や背中を蹴られるたびにトオルの心にはドロドロしたものが蟠った。
何でこんなことをされなくちゃならない? どうしてこいつはこんなことをする?
自分に原因があるのだろうか。生まれてきたのがよくなかったのか。
存在しては、いけなかったのか。
自己嫌悪のようなそれは、トオルの足を取った。殴られて悔しいとか、蹴られて辛いとか、そういう気持ちを折っていくようだった。
だが、母親に対する暴力は別だ。
何故なら、トオルから見て母親には何一つ間違いはなかったから。
こんなもの食べたくない? 朝は食べたいと言っていたじゃないか。
こんな風に物を置くな? 自分が三日前にそうしろ言ったじゃないか。
自分は存在が間違っているのかもしれない。だけど、母親は違うだろう。
トオルが小学五年生になったある日、ついにその時はやってきた。
その日も、帰ってきた父親は母親を詰った。
父親には酒が入っていて、いつもよりも強い調子であった。
母を引き倒し、馬乗りになって殴りつけるさまを見て、トオルの中で何かが弾けた。
夢中で母親の頬を張る父親に忍び寄り、その後頭部を殴りつけた。
父親が倒れた隙にトオルは母親の手を取ると、そのまま家を出て警察へ駆け込んだ。
体の傷から家庭内暴力の事実は認定され、父親は傷害の容疑で逮捕された。
夫婦は離婚し、トオルは母親と一緒に今の街へと引っ越してきたのだった。
トオル、ありがとう――。
母親はいつだったかそう我が子に語り掛けた。
トオルはお母さんを救ってくれたのよ。とっても、いい子――。
そう頭を撫でられた時、トオルは自分が生まれてきた意味を悟った気がした。
生まれてきてよかったのだ、と初めて言ってもらえた気がした。
もっと、同じようなことをしなければ。
そうしなければ、生きている意味がない。
胸をすくようなこの感覚を、もう一度味わいたい。生きている意味を感じたい。
だが、もうあの悪辣な父親は近くにいない。何度だって殴ってやりたいのに。
似たような感覚を求めて、トオルは色々なことに手を出した。
母親を助けたのは善い行いだった。だったら善い行いをもっとすればいいのか。
そう考えてボランティア団体に所属したが、どうも勝手が違った。
父親を殴ったからすっとしたのか。だったら人をもっと殴ればいいのか。
そう考えて格闘技を習い始めたが、それもしっくりこずに辞めてしまった。
どれも長続きしなかった。その中で、唯一残ったのがケンカだった。
小学六年の時、他校の児童に絡まれる同級生を助けたのがきっかけだった。
殴り殴られ、蹴り蹴られ。掴みかかられ引っ掻かれ、引き倒しては組み伏して。
ケンカの中のひりついたやり取りは、トオルの心を熱くした。
あの時、父親の後頭部をかっ飛ばした一撃を思い起こさせるものだった。
元々運動神経はいい方だ。習っていた格闘技でも「筋がいい」と言われていた。
それ以上に、父親の暴力の下で培われてしまった「痛みを恐れない心」が、ケンカとはすこぶる相性が良かった。
小学六年生で中学生数人を相手に立ち回り、中学に上がってからは高校生を相手にした。
中学二年生になる頃には、誰もトオルにケンカを売ってくるものはいなくなった。
学校ではトオルに声をかける生徒はいなくなった。皆遠巻きに、恐れと少しの蔑みのこもった目でこちらを見ては、逃げるように離れて行く。
そうなると、寂しさだけが残った。相手を探して、街を彷徨うことも多くなった。
「あの日」も、学校の校舎裏を歩いていたのは、ケンカ相手を探してのことだった。
かつては不良とされる生徒がたむろしている場所であったが、トオルの台頭によって彼らは学校では集まらなくなっていた。それは分かっていたのだが、どうも足が向いてしまった。
校舎の裏には昔使われていた焼却炉があった。ぶらぶらと歩いてその辺りに差し掛かった時、
甲高い少年のような声が聞こえてきた。
何だ、とトオルは反射的に焼却炉の陰に身を隠した。
声のする方をうかがうと、積まれた角材の上に女子生徒が腰かけている。その眼前に、奇妙なものが浮かんでいた。
バレーボールぐらいの大きさの、真っ白い毛玉だった。
垂れた犬のような耳はあるものの、手足の類は見当たらない。代わりに、ネコの前足を大きくしたようなものがくっついた、黒く細長い尻尾が生えていた。
ちょうど体の中央付近にはオレンジ色の首輪のようなものが巻かれていて、その表面には図形を組み合わせたような複雑な文様が浮かび上がっているらしかった。
何だありゃ……?
ぬいぐるみのようだが、ぬいぐるみではない。明らかに宙に浮かんでいるし、釣り糸もそれを垂らす天井も辺りには見当たらない。
トオルは珍しく息を呑み、そっと女子生徒と毛玉に近づいた。
何か見えない膜のようなものを感じながら、それを押しのけるようにして歩み寄ると、だんだんとしゃべっていることが聞こえてきた。
『……断の時だよ、月本マシロ』
甲高い少年のような声は、どうやらあの毛玉が発しているものらしい。
『何度も言うが、君は過剰に不幸な人間だ。だからこそ、この提案をしている。不幸を振り払うチャンスなんだ。君はこの現実を改変し、「ディストキーパー」となって「ディスト」と戦うのが最善なんだよ』
戦う、という言葉にトオルは興味を持った。
毛玉は何だかややこしい専門用語を言っているが、どうやら「ディスト」というのと戦わねばならない、とあの少女――月本マシロに説いていることは分かる。
あんな女が? トオルは毛玉から少女の方に視線を移した。
角材の上に腰かけた少女は、同年代の彼女らに比べても華奢に見えた。ニコニコと微笑みながら毛玉の話を聞いている。頭の形に添って丸く切り揃えられたショートカットも、上品な印象だ。身ぎれいで育ちのよさそうな感じだな、とトオルは思う。
月本、という姓にも聞き覚えがある。確か、街にポスターが貼ってある政治家か何かじゃなかっただろうか。ガッツポーズをした写真と一緒に太字で名前が書いてあった気がする。
そう言えば、この学校に議員の娘のお嬢様がいるというのも聞いたように思う。
それが過剰に不幸? 「ディスト」とかいうのと戦う?
バカげた話だ、とトオルは少し鼻白んだ。
「ケセラ……」
ぽつり、とマシロが口にしたのが聞こえた。『何だろうか』と毛玉が体を揺らしたので、アレの名前らしかった。
「わたしはね、不幸だなんて思ってないよ」
『本当に?』
本当だよ、とどこかのほほんとした調子でマシロはうなずいた。
「わたしなんかが不幸って言ったら、みんな怒っちゃうよ」
その時、トオルはマシロが浮かべているのが笑顔であって笑顔でないことに気が付いた。
表情がないのだ。形が、笑っているというだけで。
こんな顔をしている人間を、トオルは知っていた。
殴られている時の母は同じような印象の顔をしていた。彼女は決して笑っていなかったが、全部を諦めたような顔をしていた。
あるいは、殴っている父親もまた、似た顔をしていたかもしれない。どうにもならない感情に振り回されるばかりの、投げ出したみたいな顔を。
「――おい」
立ち上がり声をかけたのは、トオルの意志であって、そうでないような不思議な感覚がした。
『おや……』と振り向いた毛玉は、その落書きみたいな単純な顔からは読み取りづらいが、どうやら驚いたらしかった。
「何か分かんねぇけどよ、戦うとか、そういう話してんのか?」
俺も混ぜろよ、とトオルはゆっくりと近付いて行った。