カザン王女ファティマ 2
前世との違いはそれだけではない。多くはグランヴィルに行った後に知ったことだが、特にシルフェリアの歴史が前世と大きく異なっていた。
王太子妃はアヴェルチェヴァの王女だったはずなのに、王太子殿下の婚約者は国内の貴族令嬢。
とっくの昔に『灰色の悪夢』で死んだはずの王弟妃とグランヴィル王妃は今なお健在。
『ベーレンドルフの災厄』の遠因とされる遊び人のベーレンドルフ侯爵(今はまだ跡取りだが)は真面目。
そのことが、ファティマには嬉しかった。異分子がいたのか、神の気まぐれによるものなのかはわからないが、前世と同じように歴史が歩むとは限らないということが。
◇
「媚薬ならぬ媚筆か。兄上も大変だな」
「名付けて『色欲の悪魔』だそうだ」
次期国王である兄の妃の座を狙う令嬢は多い。この万年筆はそんな令嬢の一人から贈られたものだとか。
「触るなよ。触れるだけで淫欲に塗れる」
「……兄上もそうだったのか?」
「ああ。が、ラシャドに殴られて正気を取り戻したので、そこまで効果はないものだったようだ」
『色欲の悪魔』だなんてふざけた名前からして効果はなさそうだ。『色欲の悪魔』はシルフェリアの建国王が祓ったとされる、伝説の世界の住人。ふざけすぎだ。
「とはいえ、王太子を狙った物をそのまま放置というわけにもいかない」
カザンの王族に伝わる掟では、『忌物』は遠地に封印することになっている。海に投げたり、地に埋めたり色々だが。
「お前はシルフェリアの王立学院に通っている。『色欲の悪魔』はシルフェリアのもの、そう考えてもシルフェリアに埋めるべきだろう」
◇
あの媚薬ならぬ媚筆が本物の『色欲の悪魔』だと知ったのは後日ヴィルヘルム殿下に説明されてからだった。『忌物』の封印使を立てる金と手間を面倒臭がった兄に感謝だ。
今思うと、いくら母の所業に衝撃を受けていたとはいえ、あの真面目な兄が酒色にふけるなどおかしな話だ。『色欲の悪魔」に憑かれていたのかもしれない。ヴィルヘルム殿下によれば、悪魔は人の心の隙に取りつくのだとか。兄弟を喪った心の隙に、悪魔が忍び込んだのか。
前世では優しいばかりだった兄だが、今世では若干皮肉屋な面もある。いや、前世もそうだったのだろう。ファティマが気付いていなかっただけで。甘やかすばかりだった、前世の兄が嫌いだったわけではない。だが、今の兄の方が好きなのも事実だった。
「おかえり、ファティマ」
夏季休暇を迎えカザン王宮に戻ると、ラシャドが優しく微笑んでいた。
「ラシャド兄様」
いつものように、二人で庭を散歩する。池のほとりに立つと、ラシャドがぽつりとつぶやいた。
「ファティマ、すまない」
「……ラシャド兄様?」
「俺と君の婚姻が決まった。陛下のご決定だ」
心の中で父親を呪う。今までさんざん「然るべき年齢になったら寺院に入る」「一生誰とも結婚しない」と主張していたというのに。
だけど、一つ分からないことがある。何故ラシャドが謝るのか。ラシャドはあの子煩悩に巻き込まれた被害者なのに。
ファティマの考えていることが分かったのか、ラシャドは悲しそうに笑った。こちらの胸まで痛くなってくるような、切ない微笑みだった。
もう彼がこんなに悲しそうに笑わなくてもいいように、ファティマはこれまで頑張ってきたのに。
ファティマが自殺しようとしたあの時と、どうして同じ顔になるのだろう。
「だって君は、俺が嫌いだろう?」
呼吸が止まる。何を言っているのかわからない。
「隠さなくてもいい。あの日から、君は俺を避け始めた」
あの日――。ファティマが前世を思い出した日。
避けたのは事実だ。いずれファティマを飲み込む不幸の渦に、ラシャドを巻き込みたくはなかった。もちろん全力で回避するつもりだが、何事にも絶対はない。
それに、ファティマが慕わなければ、ファティマよりずっと美しく優しく、ラシャドに相応しい女性と結婚できるはず。
だからあの日、ファティマは己の恋心に蓋をした。
「すまない、ファティマ。俺を嫌いなままでいい。俺の花嫁になってくれ」
「……厭だ」
「これは陛下の命令だ」
湖面のように凪いだ瞳には、かつては優しさしか見つけられなかった。だが今、ラシャドの瞳には情欲の焔が揺れている。
知らない。こんなラシャドは知らない。恋に恋していた前世のファティマは。
◇
数年前、ファティマは庭で蹲って泣いていた。
「ファティマ、なんで泣いているんだ?」
「泣いてない」
「口調をバカにされたんだろ」
「知ってるなら聞くな」
この時期のファティマは、口調を男らしいものに変えたばかりだった。父も母も兄も「元に戻せ」と言う中でラシャドだけは何も言わなかった。
「俺はいいと思う、そのままで」
ファティマの考えていることなんてラシャドにはお見通しなのだ。ポンポンと頭を撫でられ、反抗する気も無くなる。
「陛下たちもきみの口調が嫌なわけじゃない。きみの口調が苦しんでいるようだから嫌なんだ」
「……?」
「ファティマ、きみは何かに苦しんでいる。誰にも言えない苦しみを抱えている」
びくりと震えたファティマに、ラシャドは優しく笑った。焦がれるほどに愛している、優しい微笑みを向けた。
「無理に聞き出そうとしてるわけじゃない。話したくなったら話してくれ」
あの日、ファティマは前世のラシャドではなく――目の前にいるラシャドに、改めて恋をした。
◇
「バカバカバカバカ、ラシャド兄上の鈍感頓珍漢! 読心術でも持ってるのかってレベルで人の心を読むのに、そんな阿呆な勘違いを何故するんだ」
突然の罵倒にラシャドは目を剥く。
「私がラシャド兄上を嫌いになるわけないじゃないか!」
恥も外聞もかなぐり捨てて、鍛えられたその体に抱き着く。硬直したラシャドの瞳をまっすぐに見つめる。
ラシャドを不幸にしたくなかった。ラシャドに笑っていてほしかった。その末の行動が、ラシャドを悲しませるなんてあってはならない。
「話したくなったら話してくれ。あの言葉は、今でも有効か?」
「……もちろんだ」
全て話した。前世なんてトチ狂ったことを言うわけにはいかないので、夢で見たということにした。
「やっと苦しみを明かしてくれたな。一芝居打った甲斐があった」
「はあっ!?」
「いや、芝居というより賭けか。本当に嫌われている可能性もあったからな」
飄々とそう抜かすラシャドの腹を殴ったが、ファティマの力ではラシャドの逞しい腹筋に対してダメージは与えられなかったようだ。
◇
卒業後、ファティマとラシャドの結婚式が盛大に執り行われた。
親友でもある賢王ジャマールに重用されたラシャドには「妾でもいいから」と数多の貴族が娘を差し出そうとしたが、ラシャドはファティマ以外には見向きもしなかったという。
「あんな乱雑の口調の女性のどこが良いのですか!」
そう憤慨する貴族の男を、ラシャドは一笑に付した。
「凛々しい女神のようだろう? 俺はあの時から、一層彼女を好きになった」




