【IF】王弟オスカーの煩悶 2
彼女を花嫁にすることが出来て、幸福な筈だった。だがその幸福は砂上の楼閣のようだった。全ては、ベアトリクスがオスカーのことをどう思っているのかは分からないから。
かと言って、本人に確かめるのも憚られた。何とも思っていないだけならまだいい。無理やり結婚したことを、嫌悪されていたら……?
――勇猛な若き王子ですこと。
――だが、彼は下賤の女の産んだ子だというじゃないか。
――いくら優秀でも、御本人の出自があれではねぇ。
――ヴェルトハイム嬢も、他にもっと良い嫁ぎ先があったろうに。
――北国の王太子との縁談も、お釈迦になってしまったわね。
――貧乏くじを引かされたのね、御可哀想に。
有象無象の言葉など気にしない。生まれてからこの方、ずっと向けられてきた言葉だ。蔑みの視線も、陰での嘲笑も慣れている。
だが、ベアトリクスにどう思われているのか――それだけが恐ろしかった。
その恐れが決壊したのは、隣国の王太子が訪ねてきた日のことだった。
「トリス。君はこんな不当な扱いを受けていい人ではない。一緒に王都に帰ろう。そして今度こそ私の花嫁になっておくれ」
オスカーとは違う、れっきとした王族。自信に満ち溢れた、雄々しい美貌。オスカーの劣等感を否応なく刺激する王太子は、あろうことかオスカーが席を外している隙に離縁を勧めた。
「『人の屋敷で、人の妻と堂々と駆け落ちの相談ですか』か……。よくもそんなことが言えますね。都合がいい時にだけ妻扱いとは失笑せざるを得ませんよ、オスカー殿下。貴女はトリスを軽んじ、愛人までこさえている。従兄として、彼女の夫となるはずだった人間としても、トリスの不遇を見過ごすわけにはゆきません」
「妃は余程貴女を信頼しているようだ、そんな家庭の事情をベラベラと……。妃に何を吹き込まれたのか存じませんが、私には愛人などおりません」
それどころか、ベアトリクスと義姉、幼くして母親と別れることになった異父姉以外の女性とはまともに話した記憶すらない。一瞬ベアトリクスの表情が強張ったが、激情の炎に身を任せていたオスカーは気が付かなかった。
「これは私と妃の間の問題だ。お引き取り願おう」
尊大に言い放ったオスカーに、王太子の表情が怒りで染まる。今思えば、殴り合いにならなかったのは奇跡だった。ベアトリクスの言葉で王太子はこの場を去り、オスカーは彼に殴りかからずに済んだ――が、彼の苛立ちは鎮火してはいなかった。
「これはどういうことだ、我が妃。夫がある身で他の男にベタベタ触らせ、軽々しくも愛称で呼ばせるなど……! あなたは私の妻なんだぞ、王弟妃としての矜持はないのか」
怒りの衝動のままに何の罪もないベアトリクスを詰ると、彼女は菫色の瞳に絶望の涙を流した。
「も、申し訳ありません……。そこまで考えが及ばず……」
「ああ、そうだろうな。ヴェルトハイム侯爵令嬢として育った貴女が、俺のようなさもしい生まれの王子に嫁ぐなど、恥以外の何物でもない。矜持など持ちようがないだろう」
ヴェルトハイム侯爵は渋々縁談を認めてくれたが、きっと内心忸怩たる思いだろう。そしてそれは、ベアトリクスも同じのはずだ。冷たく嘲笑うと、ベアトリクスは何故か彼女が傷ついたような顔をした。今の言葉は、オスカーを嘲ったものだったのに。
「……違います」
今まで聞いたことがないほど強い口調に目を見張ると、ベアトリクスははらはらと涙をこぼしながらもこちらを睨みつけていた。
「私は、あなたに嫁げることを心底幸せだと……。望んで、嫁いだのです」
「……嘘はつかなくてもいい」
オスカーは彼女の真摯な告白を信じることはできなかった。膨れ上がった劣等感が邪魔をした。
「俺に嫁いだことが、貴女の輝かしい人生のたった一つの汚点でしかないことは分かっている」
◇
それから程なくして、第一子――レオンハルトが生まれた。子を授かった以上、ベアトリクスはもう何処にも行けない。あの北国の王太子も、国内の貴族の娘と結婚したと聞いた。ベアトリクスはもう、オスカーから逃げられない。昏い愉悦を感じる自分に吐き気を覚えたのは、ベアトリクスが息子を抱く姿を見てからだ。
「……レオン」
慈愛に満ちた笑みでレオンハルトを見つめる妻は、心の底まで汚れ切ったオスカーには直視出来ないほど眩しかった。
ベアトリクスと自分の間に横たわる問題については、理解していたつもりだった。だが何もわかっていなかったのだと思い知らされたのは息子が生まれてから数か月後――産後の肥立ちが悪く、ベッドから起き上がれなくなった妻を療養のために保養地にある別荘にやった時のことだった。
その知らせを受けたのは、日がもう沈もうという頃。ベアトリクスはとっくに別荘に着いているであろう時刻。
「……もう一度、申せ」
「……奥様を乗せた馬車が賊に襲われ、護衛隊は壊滅しました。一人逃げ出せた侍女が連れて来た近郊の村人が確認したところ、奥様の姿はなく……。賊に攫われたものと」
そんなはずはない。平和な公爵領でこれほどの量の護衛が必要かと思うほどの騎士たちを配備した。多いだけでない、精鋭揃いだ。伝達をしてきたこの従僕は何か思い違いをしているのだ。別荘まで駆け、オスカー自身で無事なベアトリクスを確認すればそんな世迷言は――。
オスカーのそんな浅はかな考えを打ち砕いたのは、幽鬼のような瞳で睨みつける侍女だった。




