宰相ダミアン
ルッツ家には数十年に一度、『異能』を持った子が生まれる。
ダミアンもその例に漏れず、記憶を操る『異能』を持って生まれた。
◇
ルッツ家の『異能』は門外不出。その力は誰にも知られてはいけない。秘密を知ってしまった人間の記憶を消すのがダミアンの仕事だった。
精神操作系の『異能』を持つ者にはよくあることらしいが、ダミアンはだんだんと冷たい人間になっていった。
記憶はその人の魂そのもの。それを奪うということは、その人の命を奪うも同然だ。
好んでやっているわけではない。それでも、逃げることなど許されない。ダミアンの心は、次第に冷たい氷で覆われていった。
その氷を溶かしてくれたのは、アンネリースだった。
最初は打算だらけの結婚だった。おとなしく控えめで、己を煩わせない存在。分家の出身だからルッツの事情についても分かっている。
本当に、打算だけだったのに。
「旦那さま」
冷たかった屋敷を花々で飾り、使用人たちは明るく笑うようになった。彼女のくれる押しつけがましくない優しさが、何より愛おしくなった。
子どもが生まれるころには、ダミアンは妻のことを何にも代え難い存在だと思うようになっていた。――だが、神はダミアンにあまりにも残酷だった。
ルッツ家の『異能』は門外不出だが、例外はある。王家の人間だけは、その存在を知っていた。当代だと、国王と王太子だけに知らされていた。
そこまではいい。問題は、そこからだった。
ダミアンの妻を、色狂いの王太子が見初め――妻は王太子に脅され凌辱され、心も体もボロボロにされた。
「奥様は……従わなければルッツ家の秘密をバラすと脅されていたそうです。そうなれば困るのはご主人様だと」
『異能』のことが漏れればルッツ家は後ろ指を指されることになるだろう。――それでも、アンネリースが微笑んでくれるならそれでよかったのに。
飽き性の王太子はすぐにアンネリースを解放したが、彼女の心の傷はあまりに深かった。王太子に凌辱された記憶は薄まるばかりか、日毎その濃度を増していく。
――今こそ『異能』を使うべきではないのか。
彼女が苦しんでいるのは、ダミアンへの愛ゆえだ。その気持ちを、消してしまえば……。
――この世で一番大事な女の、一番大事な記憶をこの手で消すことになるなんて……。
今まで消してきた記憶の、今まで消してきた魂の報いなのかもしれない。
それでも踏み切れず、迷っていたことが仇となった。ついに心を壊したアンネリースは、みるみるうちに体を弱らせこの世を去った。
「アンネ……アンネ……」
もう笑いかけてくれることはない。「旦那さま」と囁いてくれることもない。物言わぬ骸となったアンネリースに縋りつき、何日も子どものように泣き続けた。泣き止んだ時も、涙が止まったというよりは、体中の水分がなくなってしまったような心地だった。
それから数年後、王が病床に伏した。問題行動の多い王太子に人望は無いが、他の王子たちもどっこいどっこいのため内乱が起き――ダミアンは力なき末の王子の後見となった。妻を死に追いやった王太子を王と仰ぐなど絶対に御免だし、また王家の人間に家族を踏みにじられるのも嫌だった。あの王子なら、ダミアンが完璧にコントロールできる。
『異能』を使えば資金を集めるのは簡単だった。己に惚れていた女も利用し、ダミアンは王子を即位させ、彼を裏から操り――王太子を処刑した。
それでも、この国への――王室への憎悪は止まらなかった。末の王子――今は国王――は奴の弟にあたるわけだし、王太子は甥っ子なのだから。
――呪われた血筋に報いを……!
王家の連中を一生飼い殺しにすることが、ダミアンなりの復讐だった。手を貸されてはたまらないので、『シルフェリアの四強』四大公爵家の力も削いだ。ヴァイセンベルガー公爵夫妻を殺してその息子を支配下に置き、ギルベルトの妻に王太子の側近・アスマン侯爵の娘リーゼロッテを据えた。レルヒェンフェルト公爵夫妻も事故に見せかけて暗殺した。
そうこうしているうちに、再び悲劇がダミアンを襲った。
「何!? もう一度申せ!」
「若旦那様と若奥様が……崖から落ちて亡くなられたそうです」
王妃テレジア――かつて捨てた女――が裏で手を引いていると知るのに時間はかからなかった。
妻の存命時から色目を使ってきたテレジアを、ダミアンは内心ひどく嫌悪していた。しかもあの女は妻に取り入り、ダミアンが彼女を遠ざけないように手を回していた。ダミアンが彼女の想いに反するようなことだけはしないとわかったうえで。妻も精神的に弱り判断力が鈍っていた。だから復讐に利用したのだ。アンネリースを利用した罪は重い。
あの女はダミアンの大切なものを奪った。アンネリースが残してくれた一人息子のことは妻の次に愛していたし、息子の幼馴染でもあるその妻はアンネリースと実の親子のように仲が良かった。
それから、ダミアンの心は王家への憎しみで支配されるようになった。
「おじいさま!」
「リナ。今日は体の調子がいいのかい?」
「うん! お庭でシロツメクサの冠を作ったのよ。おじいさまにあげる!」
日増しに亡き妻に似てくる孫娘と、妻を奪ったこの国への復讐だけがダミアンの生きる拠り所。たとえ人ならざる者に取り憑かれようと、必ず復讐を完遂してみせる。
歯車が狂ったのはいつからだろうか。
王弟と名門侯爵家の令嬢が結婚した時か?
王妹の息子と新興貴族の娘が婚約し、新興貴族の一部が国王派へ流れた時か?
現王太子と『シルフェリアの四強』レルヒェンフェルト公爵家の姫君が婚約した時か――
いやそもそも、あの意志が強そうなかつての王太子――現国王が即位した時点でダミアンの敗北は決まっていたのかもしれない。ダミアンの邪魔を振り切り、国内外に影響力が大きい侯爵家の令嬢を妃に迎え、妹姫を『四強』バルシュミーデ公爵家に嫁がせたのだから。
社交界のこともある。社交界の頂点に君臨するのは『シルフェリアの薔薇』と名高き現王妃。その他だと結婚前も社交界の華だった王弟妃、名門侯爵家の出で華やかな美女・レルヒェンフェルト公爵夫人(彼女は若くして亡くなったが)、中立派貴族の要石・シャウムブルク公爵夫人。ダミアンの派閥にも『四強』はいるが、当のヴァイセンベルガー公爵夫人は元々国王派の人間だ。操り人形にすることも考えたが、公爵が彼女を外に出さないようにしてしまった。しまい込まれてしまっては手の出しようがない、恐らくギルベルトはダミアンが両親を殺したことに気付いているのだろう。
◇
ダミアンの企みは失敗に終わり、宰相派の面々は捕らえられた。――ギルベルトの離反によって。
カタリーナさえ助かるのなら、自分はどうなろうと構わない。ダミアンは王に、頭を垂れた。




