『魔女』
妾はある高位の神の娘として生まれた。勿論、妾自身も神だ。
父は家庭を顧みない男だったが、神とは得てして自分勝手なものである。妾は大して気にしていなかった。それに妾には、クラウスがいた。
クラウスは妾専用の執事として宛がわれた妖精だった。妾の我儘にも嫌な顔をすることなく、いつも優しく、時に厳しく、いつも妾のそばにいてくれた。クラウスに『執事』以上の想いを向けるようになるのも、時間の問題だった。クラウスが想いを返してくれた時は、神界で一番の幸せ者だと、そう思った。
激怒したのは、父だった。
「この私の娘であるお前が、たかだか妖精と恋仲になるなど……! 恥を知れ!」
ずっと妾を放置してきたくせに、一番放置してほしい時は放置してくれなかった。
「お前はこのかたの妻となるのだ。光栄だと思え」
父は神帝の妻として、妾を差し出した。
もちろん抵抗した。けど父はクラウスを半殺しにして、「次はとどめをさす」と脅してきた。妾の選択肢は一つしかなかった。
「……さよなら、クラウス」
どうか、幸せに。妾じゃない他の誰かと、どうか穏やかな幸福を。
あの人と一緒に幸せになりたかった。あの人と添い遂げたかった。……夢だったんだ、あの人と過ごした甘い日々は。幸福で短い、うたかたの夢。
◇
妾はまだあの人を愛していた。それでも、神帝の妻になったのだから誠心誠意神帝にお仕えしようと心に決めていた。
そんな妾の想いは、やっぱり打ち砕かれた。
神帝は前妻を亡くしたばかりだった。その忘れ形見の娘ばかりを可愛がり、妾には見向きもしなかった。
次第に、父への、神帝への、継子――スノーホワイトへの怨みがたまっていった。
それが爆発したのは、スノーホワイトが妾の嫌がらせをものともせず、地上を繁栄させて神界に還ってきたとき。
なぜ妾はあの人と離れなければならなかったのに、あの女は愛する男と共にいられる?
なぜ妾は誰にも見向きもされないのに、あの女は皆に愛されている?
そんな時、スノーホワイトが神帝に即位する前に転生すれば妾はスノーホワイトと同等以上の力を保持できると知った。
あの女に復讐できるなら、神としての全てを手放そうが構わなかった。
わかっている。スノーホワイト自身には罪はない。自分勝手な娘ではあったが、妾は別に迷惑はかけられていない。スノーホワイトは己の想いに正直に生きているだけなのだと。
だが憎しみは止められなかった。……父は結局あの人を殺してしまった。あの人さえ生きてくれていれば、憎しみに囚われることもなかったのかもしれない。
あの女に復讐するために、なんでもやった。
元・女神でありながら『七つの大罪』と契約して、シルフェリアを中心とした――スノーホワイトが創った世界を破壊する。『大陸の帝王』・シルフェリアが混乱の渦に叩き込まれれば他の国々の秩序も破壊される。その国の秩序が壊れるということは、その国そのものが壊れるということだ。
ずっとずっと、機会が訪れるのを待っていた。
『異能』の存在に目を付けたのは、随分前からのことだ。
シルフェリアのルッツ家。
グランヴィルのハンティンドン家。
アヴェルチェヴァの王家と四大貴族――。
アヴェルチェヴァの五家以外は表沙汰にはされていないが、彼らは全員『異能』を持っている。アヴェルチェヴァの五家の力は精霊に愛された人間が授かった『祝福』だと呼ばれているようだが。
ルッツ家の異能者――ダミアン・フォン・ルッツは溶けない氷のなかに棲んでいた男だった。その氷が溶けたのは、妻を迎えて半年後――明るく朗らかな彼女にダミアンはどんどん惹かれていった。妻子に向ける優しい瞳には、『氷の伯爵』と呼ばれていたかつての面影は全くなかった。
だから壊すのも簡単だった。
女好きの王太子を唆してダミアンの最愛の妻を犯させ、妻ごとダミアンを壊した。
「ごめんなさい……ごめんなさい、あなた……」
「リース。君は何一つ悪くない。悪いのはすべて殿下だ。君の心は今も清らかなままであること、私はちゃんとわかっているから……」
ダミアンがどんな言葉をかけても、どれだけ優しく抱きしめても、彼女の傷が癒えることはなかった。心を弱らせ彼女が死んでしまった時――ダミアンの心は再び氷に覆われた。
クズの王太子に人望があるはずもなく、国王が『灰色の悪夢』に侵されると王位継承を巡って争いが起きた。妾が意図したとおり、あの男は王太子を殺害するため無力な末の王子の後ろ盾となり、内乱を鎮圧して国の覇権を握った。
ダミアンが妻との間にもうけた一人息子を殺すよう仕向ければ、ダミアンの王妃テレジア――そしてシルフェリア王家への憎しみは極限まで膨れ上がった。そこまでいけば、『傲慢の悪魔』を取り憑かせるのは簡単だった。
残る狙いは六人。異母兄に激しい劣等感を感じていた王弟オスカー・フォン・シュヴァルツェンベルク・シルフェリアに『憤怒の悪魔』を、侯爵夫人に『嫉妬の悪魔』を、姉を貴族に殺され王侯貴族を憎んでいたアヴェルチェヴァの豪商ピョートル・オストログラキーに『強欲の悪魔』を、アヴェルチェヴァの英明で人望厚い王太子を殺し右も左もわからないその息子に『悪食の悪魔』を、カザンの王に『色欲の悪魔』を、闇社会の王アーネスト・ロスチャイルドに『怠惰の悪魔』を――。だが計画は、ほとんどうまくいかなかった。
抑、『傲慢の悪魔』はダミアンではなくグランヴィル王に憑かせる予定だった。『灰色の悪夢』で最愛の王妃を喪った国王の心の隙に、手駒だったラナを利用して『傲慢の悪魔』を憑かせる予定だったのに、『灰色の悪夢』に王妃は罹らなかった。
王弟オスカー・フォン・シュヴァルツェンベルク・シルフェリアに『憤怒の悪魔』を憑かせる上で、邪魔だったのが王弟妃。オスカーが異母兄に抱えていた劣等感を、優しく癒したのがベアトリクスだった。わざと『灰色の悪夢』に罹らせてオスカーが王家を憎むよう仕向ける予定だったのに、ベアトリクスはあっさり回復してしまった。
『嫉妬の悪魔』を憑かせる予定の侯爵夫人は未だ結婚前――伯爵令嬢の身分だが、婚約者と仲睦まじく『嫉妬の悪魔』を憑かせるのは難しいだろう。マルティナの婚約者――ファインハルス侯爵令息の祖父は名うての遊び人だったらしいので、期待していたのだけれど。
オストログラキーに『強欲の悪魔』を取り憑かせるのには成功したものの、シルフェリアの貴族のひとつを陥れる直前に王太子に逮捕されてしまった。
妾が操ったアヴェルチェヴァの佞臣は尽く王太子の娘に排除され、王太子の息子に『悪食の悪魔』を憑かせるどころか王太子も殺せなかった。
カザン王は不摂生な生活を送っていたから、妾の予想ではあと数年で死ぬはずだった。子飼いの者に「軟弱な王太子に代わり庶長子に王位を継がせるべき」と吹き込ませ王妃アイーシャと寵妃ルルの間に諍いの種をつくれば、嫉妬深いアイーシャが王の死後ルル妃とアリ王子を殺し――兄弟の死に心を痛めた新王の心の隙に『色欲の悪魔』を忍び込ませ、更にアヴェルチェヴァを内乱の渦に叩き込める。だが王は健康体のままだったし、王妃とルル妃の関係も比較的穏やかだった。
アーネスト・ロスチャイルドに至っては、完全に妾が描いたストーリーから逸脱していた。あの男には父親の前妻が産んだ異母兄がいた。アーネストが相続争いに勝てたのは、地元の有力者の娘――キャサリンと婚約し、彼女の父の後援を得ることが出来たからだ。それを周りに揶揄させれば、アーネストとキャサリンの関係も拗れる筈だった。それなのに、アーネストは周りの声は気にせずキャサリンを慈しんでいるという。
◇
「クラウス……」
「ごめん、マルグリット。君を救い出すことが出来なかった」
王太子に大事そうに守られているあの小娘が呼び出したのだろうか。もうずっと昔に離れ離れになったはずのクラウスが手を差し出している。
「妾はもう、女神じゃない。怨みと憎しみに堕ちた『魔女』なのよ」
「構わないさ」
クラウスは笑った。世界で一番愛しているあの笑顔で。
「君さえ隣にいてくれるなら、僕は地獄の業火に焼かれても構わない」
「クラウスっ……」
妾は無慈悲な女神だ。そして今は残酷な『魔女』だ。それでも、唯一愛した人をそんな目に遭わせたくない。
何か、何か方法はないのだろうか。必死に考えていると、体が光で包まれた。




