公爵ギルベルト 1
リーゼロッテ。王太子派の筆頭格・アスマン卿の愛娘。そして俺――ギルベルト・フォン・ヴァイセンベルガーは王太子一派に敵対する宰相の陣営にいる。
我がヴァイセンベルガー家は、シルフェリア建国以前より続く名家だ。俺もその嫡子として、何不自由なく育てられた。とはいえ、それは八歳までの話だが。両親が不幸な事故で亡くなり、俺はたったの八歳でヴァイセンベルガー家の当主になってしまった。無論そんな子供に当主など務まるはずもなく、代理として宰相の手の者がヴァイセンベルガーを治め、俺は宰相の保護の元育てられた。……十六歳になり、成人するころにはヴァイセンベルガーは宰相の支配下に落ちていた。
最初は、感謝していた。寄る辺ない俺を保護し、育ててくれたのだから。宰相がいなければ、がめつい親戚に財産すべてむし取られていたことだろう、と。十七歳の時、宰相がヴァイセンベルガーを手に入れるため両親を事故死に見せかけて殺したことを知るまでは。
殺してやりたかった。だが、相手はシルフェリアの最高権力者。王は宰相の傀儡。王太子の一派は宰相に抵抗すべく派閥を築いているが、正直宰相派のほうが勢力は上だ。それに俺は、ヴァイセンベルガーの当主。ヴァイセンベルガーを守らなければ。
ヴァイセンベルガーから宰相の手の者を少しずつ追い出すことには成功したが、その代わりとして宰相のため働くことを求められた。人より出来が良かったので、文官として地道に地位を築いていったが――親の仇のために働く自分が、嫌いで嫌いで仕方がなかった。
◇
妻に――リーゼロッテに初めて出会ったのは、王太子殿下――現国王陛下――の結婚式でのことである。
王妃様をシルフェリアの薔薇とするならば、リーゼロッテは白百合だ。清らかな目をした、どこまでも清廉で可憐な人。王太子殿下の第一の側近・アスマン卿の息女。
艶やかなクリーム色の髪。神秘的なエメラルドの瞳。抜けるように白い肌。
笑顔で王太子夫妻を祝福する可憐な少女に、俺は完全に心奪われてしまった。……だが、王太子一派の筆頭格である彼女に、俺は近づくことすら許されない。完全に、許されない恋だった。いや、それすらおこがましい。俺の恋は、始まってすらいなかったのだ。リーゼロッテの視界に、俺は存在さえしていない。存在していたとしても、憎々しい敵としてだ。そのころには、宰相の「四天王」と呼ばれていたのだから。
何度もあきらめようとした。だが、夜会で彼女を見かけるたびに胸は高鳴り、視線は彼女にくぎ付けだった。……その恋心を、宰相に悟られていたのだろう。
「ギルベルト。お前とリーゼロッテ嬢の縁談を調えた。結婚式は一年後だ」
「……え?」
最初は意味が分からなかった。分からなかったが、結婚式が近づいてくるたびに自覚した。これは王太子たちへの嫌がらせであり、俺への脅迫なのだ、と。
アスマン卿は、中立派を取り込むためリーゼロッテをそのどれかに嫁がせる目論見だったはずだ。その目論見が、今崩れた。王太子は彼女のことを、実の妹のように思っているという話も聞く。リーゼロッテに望まぬ結婚を強いることで王太子に精神的打撃を与えたいのだろう。
そして――俺が宰相を裏切れないよう、リーゼロッテを宰相派に置き、いつでも殺せるようにしたのだ。これは、もし宰相を裏切ることあれば「いつでもリーゼロッテを殺す」という脅し。
俺なんかに好かれてしまったせいで、こんな結婚をすることになった。――だがたった一つだけ、この婚姻を回避する方法があった。結婚前に他の女性と既成事実を作ってしまうことだ。そうすれば、アスマン卿は俺の不実を責めてこの婚姻を拒否することができる。リーゼロッテの名誉は多少傷つくだろうが、いつ殺されるかもわからない状況に身を置くよりは何倍もマシだろう。リーゼロッテのためを思うのなら、そうするべきだった。
だけど、できなかった。リーゼロッテ以外の女性に興味がなかったこともあるが、俺は愚かしいことに彼女を手に入れられる唯一の機会を逃したくなかったのだ。自分はここまで利己的な人間だったのか、ともう何度目かもわからない己への絶望に苛まれても、リーゼロッテとどうしても結ばれたかった。
◇
顔合わせの時、アスマン卿は必死に怒りを抑え込んでいるようだったが、リーゼロッテは困ったように微笑むだけだった。
「ふつつか者ですがよろしくお願い致します、公爵閣下」
「……ギルベルトでいい」
鈴のような声音で、俺の名を呼んで欲しかった。
彼女に望まぬ結婚を強いているのは、自分だ。リーゼロッテは清らかな心を持つ、優しい女性だ。たとえ敵派閥の男であろうとも、夫婦になるならば親愛を向けてくれるだろう。
己の罪を忘れるな。俺は大罪人なのだから。愛されるなどと、そんな幻想を見るな。
婚姻を控え、使用人たちに女主人の部屋を整えさせた。リーゼロッテの友人たちは、もちろん全員王太子派だ。好みなど聞けるはずもない。だから、それと悟られないようアスマン家の使用人から好みを聞き出した。
婚姻も一ヶ月後に迫り、最愛の人と結婚できる高揚と罪悪感に揺れていた、ある日のこと。王宮に用事があり、中庭を通ると聞き覚えのある男女の声がした。
「リゼ、辛い目に遭ったらいつでも逃げ出しておいで。理由なんてこじつけられるのだから」
「お兄さま。――いえ、もう王太子殿下とお呼びすべきなのでしょうか?」
「何言ってるんだ、君はいつまでも私の可愛い妹のようなものだよ」
怜悧な美貌を持つ王太子は、夜会で見かける時はいつも厳しげな表情を崩さない。だが、リーゼロッテに向ける声は穏やかで、優しかった。
「ヴァイセンベルガー卿は宰相の腹心のひとり。どんな嫌がらせが待っているか……」
「そんなに悪い人には見えませんでしたが」
「……リゼ。人を信じたいと思う、君のそういうところは美点だ。でも、世の中にはその優しさに応えようともしない人間だっているんだよ。やっぱり心配だ。もうまともな婚姻を結ばせてあげるのは無理だけれど、ツォレルンにでも」
「お兄さま」
王家縁のエポナ神殿は、北の山・ツォレルン山に聳える格式高い神殿だ。今は寡婦となった先王の妹が、院長を務めていらっしゃる。俗世とは関わりを絶ち、中立を守るエポナ神殿に逃げ込めば、還俗が難しい代わりに安全の保証はされるだろう。
「実を申しますと、宰相さまより縁談の話をいただいた後、アンナさまよりお手紙を貰ったのです」
「大叔母上から?」
「はい。『ツォレルンにおいでなさい、悪いようにはしません。あなたが望むなら、外国の貴族との縁談も結んであげます。外国に逃げれば、宰相だって手出しはできない』と」
「どうして受けなかったんだ? 大叔母上に任せれば、悪いようには」
「悪いようにならないのはわたしの人生だけでしょう?」
いつも優しく穏やかなリーゼロッテの真剣な声に、さすがの王太子も息を呑んだ。
「わたし一人が勝手をし、お兄さまがそれを許せば、心離れをする人も出てきます。ただでさえ宰相一派に遅れを取っている現状では、致命的な傷になりかねません」
「……リゼ」
「お兄さま。誇り高きアスマンの娘として、この婚姻を成し遂げてみせます。わたしは絶対に、逃げません」
凛とした声は、一点の曇りもなかった。その反面、俺は汚泥に沈み込むような心持ちだった。
あれほど焦がれた微笑みを向けてくれたのも王家のため。俺個人の誠意が伝わったわけではない。……何を今更被害者ぶっている。
◇
それから一ヶ月後、リーゼロッテとの結婚式が盛大に執り行われた。王太子一派には、射殺すかのような目で見られた。魔王に攫われた悲劇の姫君。この一件を通して、王太子一派の結束は強まるだろう。リーゼロッテに憧れ、あわよくば、と考えていた者も多いのだから。
リーゼロッテは公爵夫人として、申し分ない働きをしてくれた。毎日執拗に求めても、ただの一度も拒絶されたことはなかった。子どもが生まれて、最初に感じたのは嬉しさよりも安堵だった。これでリーゼロッテを永遠に縛り付けることができる。歪み切った己の思考に、何度目かもわからないおぞましさを感じた。
「見ろよ。公爵夫人だ」
「『シルフェリアの白百合』か。王太子一派は歯噛みしてるだろうな」
「そりゃそうだよ。あの美貌だぜ? オレだってお相手願いたいね」
下品な噂だとわかっている。だが、リーゼロッテを誰にも会わせたくなかった。
傍にいれば、守ってやることができる。だが、宰相派の貴婦人たちは俺が離れたとたんに一斉に猛攻撃を仕掛けるだろう。事実、何度かの夜会を経てリーゼロッテは疲れをにじませていた。決して、俺に言ってはくれないけれど。
「夜会に出るなとは、どういう……?」
「言葉通りの意味だ。あなたは何もしなくていい」
リーゼロッテの顔色がみるみるうちに変わっていく。それが、高位貴族の娘として育てられた彼女へのこれ以上ないほどの侮辱だとはわかっていた。だが、どんな悪意にもさらされてほしくない。屋敷内のことすら掌握できないほど無能ではない。屋敷の中にいれば、リーゼロッテの心を曇らせるものなど存在しない。
そばにいてほしい。笑ってくれればそれでいい。望まぬ結婚を、少しでも幸福だと思ってほしい。この想いの百万分の一でもいいから、返してほしい。ただ、それだけだったのに。
リーゼロッテの笑顔は、だんだんと消えていった。




