憤怒の悪魔、そして。
「ヴィルヘルム様。国家機密にするようなお話なのでしょうか?」
「……」
沈黙はこの場合どう見ても否定だ。
「アヒムはクリスティナ王女の屋敷でこれで四件目だと言っていましたわね。殿下も『嫉妬の悪魔』の件をあの後知らされたのですから、『嫉妬の悪魔』が令嬢たちに憑いていたことをあの時点でアヒムが知っていたとは考えにくいですわ。とすると、アヒムが知るところの封印された悪魔は『強欲』、『怠惰』、『悪食』――そして『憤怒』」
まああの時点では、『悪食の悪魔』は軽い封印しか施されていなかったわけだけど。
「ヴィルヘルム様がそう長いこと秘密にされるとも思えませんし、『憤怒の悪魔』が封印されたのはごく最近のことなのでしょうね。そういえば王妃様から妙なことを聞いたんですの。あの令嬢たちを絞首刑に処すべきだとヴィルヘルム様が主張したと」
その時は信じていなかった。王太子の婚約者を閉じ込めたぐらいで命を奪っては、恐怖政治の始まりだ。何事にも慎重な殿下がそのような真似をなさるはずがないのだから。
だけど『憤怒の悪魔』に憑かれて正気を失っていたのなら、怒りに我を忘れてもおかしくはない。
「……あの壷を叔父上の屋敷から回収した後、心の隙を突かれたのか取り憑かれた。父上に処刑を進言した後、魔術師長がすっ飛んできて嫉妬の悪魔より先にあの壷は封印されたんだ」
『嫉妬の悪魔』の対応を話し合っている最中だったとのことだが、王太子の体を損なってはいけないと『憤怒の悪魔』から先に封印されたらしい。
◇
ヴィルヘルム様ほど自制心が強い方でも、悪魔に憑かれるのだ。わたしも気を付けなければ。
「……ファティマ王女?」
なぜかファティマ王女が、学院の裏庭を掘っていた。声をかけるのも憚られるので、そっと物陰に隠れる。
「今度こそ帰ってくるな!」
「ファティマ王女、ポイ捨てはいけませんよ」
通りがかった真面目そうな教師に咎められていた。「ポイ捨てではない」と主張していたが、説得感はゼロだ。穏やかなファティマ王女らしくもなく揉めていたので、仲裁のために姿を見せることにした。
「ファティマ王女。こちらは万年筆ですか?」
「触るな!」
「え?」
ファティマ王女の制止も虚しく、わたしの指は『色欲の悪魔』に触れ――途端、制御しがたい感情が沸き起こった。
――だれでもいいから、いやらしいことがしたい。
なななななななな何を!
――あんなこともそんなこともしたい。
この場にいる唯一の男性である教師を捉えた『わたし』に、ファティマ王女は顔を青くした。
「行けっ!」
「え、でもレルヒェンフェルト公爵令嬢は……」
「今はそんなことを言っている場合じゃない! 王太子殿下に婚約者の危機だと伝えろ!」
不審そうな教師を「早くしろ!」と急かすと、ファティマ王女は申し訳なさそうな顔をした。
「すまない、信じてもらえないかもしれないがこれは『色欲の悪魔』といって」
「『凶后アイーシャの大獄』……」
目を剥くファティマ王女に事の顛末を説明すると、彼女は脱力した。
「父は寵愛深いルル妃が産んだ長兄が王位を継ぐことを望み、それを疎ましく思った母が父の死後にルル妃とアリを殺してしまうのだ。まったく、結局次兄が王になるのだから放っておけば良いのに」
「おふたりの死に心神喪失を起こし、その隙を『色欲の悪魔』に、うっ!」
「大丈夫か!? そう、二人の死に様はかくも無惨でな。心を壊した次兄は酒色に溺れ……。って、シャルロッテ嬢、目が怖いぞ? 私は女だからな?」
「わたしはこの時点でどちらもオーケーになりましたわ、どうか熱い口づけを!」
「そんなの殿下にしてもらえ!」
ファティマ王女はドン引きで逃亡した。追いかける。
「落ち着け!」
「だってヴィルヘルム様がいらっしゃらないんですもの!」
「シャル、僕ならここにいるよ。ファティマ王女、私の侍従に王宮からアヒムを呼ぶよう伝えてくれるか」
カクカクと頷いてファティマ王女が去ると、ヴィルヘルム様はにっこりと笑った。
「シャル、浮気をするなんていけない子だね?」
「ヴィルヘルムさまぁ……」
ヴィルヘルム様は困ったように笑うと、優しい口づけを落とした。普段はいっぱいいっぱいのそれが、今は物足りなく感じる。
「んっ……もっと……」
「……できれば、普段の君からその言葉を聞きたいんだけどね」
呼吸もできないほど深く口づけられ、喘ぎ声が漏れる。足の力が抜けた。
「はいはい、お楽しみのところ失礼しますよ~。ああこの万年筆が『色欲の悪魔』の『器』ですね。それでは失礼しました~」
「ちょっと待って! 『色欲の悪魔』を封印していって!」
「え、いいんですか? 悪魔は隙があるところにつくんですよ。つまりお嬢サマは殿下とえっちなことがしたかったってことですよね」
なんて直截な表現を! いや、婉曲的だったらいいわけじゃないけど!
「とにかく封印して、お願いだから!」
「仕方ないですね~」
アヒムはブツブツ言いつつも、『色欲の悪魔』に軽い封印を施してくれた。おかげで、胸中の抑えきれない衝動が止む。
アヒムが転移魔術で去った後、懐から鏡を取り出すと髪はぐちゃぐちゃ、口紅はすっかり取れていて目からは涙がにじんでいた。――明らかに事後だ。こんな顔で人前に出られない。
「もう少し時間が経てば生徒たちは殆ど帰る筈だ。その隙を狙って帰宅しようか」
「はい……」
「だから、それまでキスしてもいい……?」
縋るようなまなざしに、否と言う選択肢はなかった。……いつも恥ずかしくてたまらないけど、ヴィルヘルム様から与えられるそれが嫌いなわけではないのだから。
◇
それから半月後――王立学院は夏季休暇に入った。




