グランヴィル王太子アーサー 1
箸休め。
スカーレット――レティと初めて会ったのは、確か七つの頃だ。それから程なくして、婚約者に選ばれた。情が深く、俺のことが大好きなレティ。彼女を愛するようになったのが何時からだったのかは、よく覚えていない。美しい紅玉の瞳を煌めかせて微笑む彼女は、いつまでも俺の隣で微笑んでいるのだと、そう疑いもしていなかった。
そんな思いに翳りが生じたのは、いつからだったのか。好意を隠そうともしない癖に、レティが俺との未来を微塵も思い描いていないと気づいた時か。
「ふふっ、素敵な思い出になりましたわ」
思い出――。ただの言葉の綾かもしれない。そんな希望は少しずつ打ち砕かれていった。
友好国シルフェリアの王弟妃が第二子を妊娠した時、レティは俺と結婚する気はないのだとはっきりと理解った。王弟の第一子は一年ほど前に生まれたばかりだ。仲睦まじいのですねと微笑う侯爵夫人や母と、お茶会をしていた時のこと――。
「レティは子ども、何人ほしい?」
侯爵夫人や母はお喋りに夢中になっていたので、俺とレティの会話は聞こえていないと思う。だから彼女の残酷な返事を聞いたのは俺だけだった。
「うーん、わかりません。その時の結婚相手によると思います」
婚約者から聞かれたら普通、俺を結婚相手として仮想するのではないのか。
それからも、レティがいつか店を開きたいと考えていることを知って、どんな店にするのか聞けば「アーサー様が聞いても、つまらないと思います」と誤魔化されたし、挙句の果てには国内の修道院について調べていることもわかった。
自惚れでなければレティも俺を好いてくれているのだと思っていたのか違ったのか――。
だがそれにしては、レティは厳しいと噂の王妃教育も、泣き言ひとつ言わず真面目に受けていた。初めて会った時から変わらず、俺のことを慕ってくれた。
レティは何らかの事情で、俺と結ばれることをあきらめているのではないか――その結論に達するのに、大して時間は要らなかった。
思えば、レティは元々『かりそめの』婚約者である。『グランヴィルの盾』ノーサンバランドの令嬢として、本来の王太子の婚約者の『盾』となるお役目だ。時が来れば、俺は他の女性を妃に娶り、レティも当然他の男と結婚する。
だがそのようなこと受け入れられようもない。レティ以外を妃と呼ぶなど、考えられなかった。もうその頃には、愛情深く頑張り屋の彼女を、深く愛していたのだから。――第一、レティが他の男に体を預け、微笑みかけるところなど想像したくもなかった。
「外堀を埋めりゃあいいんですよ」
「外堀……?」
「そうですよ。スカーレットが逃げようがないほどガッチガチに」
誰もがレティを王太子妃として認めざるを得ない状況。――ちょうど良い『何か』はないか苦慮していた折、レティが『灰色の悪夢』について関心を持っていることを知った。
『灰色の悪夢』は治療しなければ死に至る病だ。もし治っても、後遺症が残る恐れがあるという。もしレティが感染し、完治しなければ――妃として子をなすことは難しい。
レティが子をなすことができようができまいが、俺の気持ちには微塵の揺らぎもないが、レティに口さがない言葉を聞かせるものは出てくるだろう。少々威圧感のある容姿の所為で誤解されがちだが、本来の気質はむしろ繊細な方であることを、俺はよく知っている。
「ジョージ。レティがバル草を取り寄せたがっていたら後押ししろ」
「はあっ!?」
王太子に対し不遜な口を平気できくこの男はジョージ・オズボーン。レティの従僕だ。声をかけた当初は俺にさんざん怯えていたくせに、今ではこの変わりようである。
「バル草!? 何考えてるんですか!」
「黙秘だ」
「ちょ……ふがっ!! ふがふがっ! 何するんですか、ハンティンドン公子!」
「主人の後押しをするのは従僕としての役割ですよね、ジョージ君?」
ウィリアム・オブ・ハンティンドン――グランヴィル指折りの名家・ハンティンドン公爵家の嫡男だ。俺の従兄でもある。抑、ハンティンドン公爵家は国王の弟が臣籍降下してできた家。王太子である俺、父公爵に続き第三位の継承権を持つが、本人に野心はない。
「仕方ありませんねっ! この貸しは大きいですよ!」
「巫山戯るな。俺の貸しの方が遥かに大きい」
三股がバレて血みどろの修羅場だったところを何とかしてやったのは誰だと思っている。女の一人は刃物を持っていたし、目は本気だった。あのままでは、奴はほぼ間違いなくあの世の住人となっていただろう。本人もさすがに懲りて、あれ以来恋人は一人に絞っているようだが。
「ウィル。いつもすまないな」
「ふふっ、ご心配なさらずに。殿下がスカーレットと恙なく婚姻を結べなければ困るのはぼくも一緒ですから」
「……?」
彼の真意は不明だったが、レティは本当にバル草を取り寄せた。本人に報告されたわけではないが、ジョージのおかげで情報は筒抜けである。
「殿下、ストーカーって知ってますか? ウィリアム様が教えてくれたんですよね。特定の人に付きまとう人のことらしいですよ」
「知らん」
「殿下、スカーレットが来てますよ」
ジョージと繋がっているのは秘密なので、慌てて隣室に追い出す。侍女に伴われて現れたレティは、何時もの如くウィルと口喧嘩を始めた。面倒なので適当なところで仲裁に入ることにした。
「アーサー様、植物に詳しい方にお知り合いはいますか? バル草を栽培したいのですが、わたくし植物に関しては門外漢でして」
レティが俺を頼ってくれたことに昏い喜びが沸き起こる。尤も、そうするようにジョージを通して促したのは俺だが。
国内外の有能な植物学者をはじめとした、植物に造詣の深いものは既にリストアップしてある。
「ああ。知己の者に聞いてみよう。だが、バル草の大量生産には少し時間がかかるかもしれないな」
数十年前『灰色の悪夢』が猛威を振るった折も、当然バル草の人工栽培法を編み出すためシルフェリアでは試行錯誤されたと聞いている。だが結局その方法は暗雲の中であり、絶大な被害者を出して病は収束し、何時しかバル草と『灰色の悪夢』は人々の記憶から姿を消した。喉元過ぎれば熱さ忘れるとはこのことか。因みにこれはウィルに教えてもらった言葉だ。苦しいことや辛いことも、時がたてば忘れてしまうことの喩えらしい。ウィルは妙な言葉を知っている。
「あら、それなら大丈夫ですわ!」
「……?」
「バル草を手に入れる時に世話になった商人に栽培法を教えてもらったんですの」




