侍女ハンナ・ラング
ハンナは自分が女でよかったと思っている。小さい時とは真逆だ。あの地獄にいた時は、男だったら少しはましなのかと思っていた。まあ、大して変わりはしないと今ならわかるが。
ハンナが前世の記憶を思い出したのはヴァルトハイム家に仕え始めてからしばらく経ってからのことだ。結果としてはそれでよかったと思う。最初から思い出していたら貧民街の生活に耐えられなかったと思うから。
人間には生まれつき「勝ち組」と「負け組」がいる。ハンナは後者だった。貧民街育ちの両親ですら、物心ついた時にはいなかった。死んだのか、捨てられたのすらわからない。でも、ベアトリクスに拾ってもらったという点では「勝ち組」かもしれない。彼女がいなければ、今もカビが生えたパンを食べ、半分腐った水をすすっていたことだろう。それでも贅沢な方だ。何にもありつけない日もあったのだから。
ベアトリクスの懇願で執事長のラングに養女にしてもらった。「ヴェルトハイムのために粉骨砕身お仕えするように」と言われた。ヴェルトハイムはどうでもいいが、ベアトリクスのためなら何をしてもかまわない、と思っていたので頷いた。
「執事長は昔、軍人だったのよ」
「大けがを負ったところを、先代に拾ってもらったらしいわね」
お喋りなメイドたちのおかげで執事長が異様にヴェルトハイムに対して忠義深いのはわかった。先代が溺愛していたらしいベアトリクスを可愛がっているのも。
最初はスカラリーメイドだった。鍋や皿を洗ったり、厨房の掃除が仕事だ。下っ端の中の下っ端で仕事もきつかったし、「給料が安い」と文句を言っている同僚もいたけど、三食寝床付きだ。貧民街とは比べ物にもならない。
何年かして、休憩の合間にベアトリクスの趣味に付き合うようになった。ベアトリクスはまだ乳飲み子のころ、母親を『灰色の悪夢』という病気で亡くしている。貧民街ができたのも『灰色の悪夢』のせいらしい。
ベアトリクスがバル草の栽培法を探るのは、死んでしまった母親の影を追っているのだ。もし方法があれば、心を慰めることができるから。ベアトリクスは「せっかくの休憩時間を使ってしまってもいいの?」と心配してくれたが、ハンナはベアトリクスが接点ができて嬉しかった。ただの下働きのメイドでは、お嬢様と話をする機会などほとんどない。
前世の記憶を思い出したのは、その途中のことだった。『灰色の悪夢』に最愛のお嬢様を奪われてはたまらない。ハンナは寝る時間も惜しみ、バル草と『灰色の悪夢』の研究に捧げた。その甲斐あって、バル草は大量生産できるようになったし、『灰色の悪夢』の予防法も見つけた。ベアトリクスは大喜びしてくれた。それだけで天にも昇る心地だった。だけど無理をしたことがバレてちょっと怒られた。そんなところも愛しかった。
ベアトリクスはハンナのすべてだった。
ベアトリクスは知らない間にご当主さまに掛け合って、ハンナを侍女にしてくれた。貴族でもないハンナが侍女になるなんて、大出世だ。周りからはやっかみを受けた。どうでもよかった。ハンナはただ、ベアトリクスのそばにいられることが嬉しかった。
ベアトリクスはいつの間にか十六歳になった。美しく成長したベアトリクスには、求婚者が引きも切らなかった。だけどベアトリクスには初心なところがあって、恋愛には興味がなさそうだった。ハンナは安心した。ベアトリクスは貴族だからいつかは結婚しないといけないけど、これならハンナがベアトリクスの一番で居られる。
そんな時、あの男が現れた。特大の虫だ。
オスカー・フォン・シュヴァルツェンベルク・シルフェリア。どことなく翳のある王子に、ベアトリクスは恋をしてしまった。王子の方もベアトリクスのことを愛しているのだと、ハンナには分かった。
あの男はダメだ。だってベアトリクスを取られてしまう。ベアトリクスの一番が、あの男になってしまう。
妨害してやりたかったが、ベアトリクスが悲しむところを想像するとできなかった。それに、ベアトリクスにはほかに縁談があった。北国の王妃になる話だ。
候補の一人にすぎないらしいが、王妃になるために嫁ぐのならハンナはついていけない。王妃の侍女なら、貴族でないといけないから。その点あの男はまだましである。
あの男は王子だが、母親は流浪の踊り子だ。側妃にも擁立できないほど、低い身分らしい。出自のことで卑屈になって、何度もベアトリクスと仲たがいしそうになっていた。そのままこじれればいいのにと思っていた。あの男も王族だけど、あの男の元ならベアトリクスもハンナのことを連れて行ってくれるかもしれない。
結果として、ベアトリクスとあの男は想いを通じ合わせた。娘を王妃にしたかったご当主は渋ったが、あの男の兄に説得され諦めた。そのあと、派閥のあれこれがあったらしいがどうでもよかった。
「ハンナ、私についてきてくれる?」
一も二もなく頷いた。これでハンナは人生に絶望せずに済む。
これからベアトリクスの中でハンナの優先順位は下がる。ベアトリクスの一番はあの男になってしまった。子どもが生まれればもっと下がる。だけど、そこはもうあきらめることにした。ベアトリクスのそばにいられるだけでいい。女でよかった。男だったら、引き離されてしまう。
あの男はハンナのことが嫌いなようだ。同族嫌悪か、ハンナもあの男が嫌いなのでおあいこである。ハンナを引き離せばベアトリクスに嫌われてしまうと恐れてか、手出しはしてこなかった。馴れ馴れしくもベアトリクスを「ビアーテ」などと呼ぶあの男に我慢してやっているのに、ベアトリクスと引き離すことを考えるだけで大罪だが。
「ヴィルヘルムとシャルロッテに会ってほしいの。『灰色の悪夢』について話を聞きたいらしいのよ」
七面倒くさいと思ったが、ベアトリクスの頼みなら断れない。断るという選択肢は、もとより存在していない。
二人――というよりヴィルヘルムに会った感想は、王族というのは一人の女に執着する性質でも持っているのか、というものだった。婚約者を深く愛しているらしいヴィルヘルムは、ハンナのライバルにはならない。その点だけが重要なので、ヴィルヘルムたちにさして興味は湧かなかった。そのことに気づいたのかすべては語らなかったように思う。どうでもいいが。
ヴィルヘルムとシャルロッテと食事をとって、ベアトリクスは楽しそうだった。ベアトリクスが楽しそうだとハンナも嬉しい。だから、ハンナとの時間を邪魔しない範囲でこれからも来ればいいと思った。




