灰色の悪夢
「ここまでがわたくしの『前世』、そしてこれまで歩んできた『今世』ですわ」
「前世では叔母上は亡くなってしまっていたのか」
「ゲームでもそうでしたよ」
ベアトリクス・フォン・ラーヴェンスベルク。王弟・オスカー殿下の寵愛深き妃殿下。名門・ヴェルトハイム出身の、だれもが憧れ、うらやむ貴婦人――。
「それは……叔父上は悲嘆に暮れただろうな」
「……わたくしが前世でオスカー殿下にお会いしたのは、妃殿下が亡くなった後ですから変化まではわかりませんが。まるで生ける屍のようでしたわ」
「スカーレット様は、前世では陛下のそばにはヴェルトハイム侯はいなかったと……そうおっしゃいましたよね」
確か、ヴェルトハイム侯は国王派の中心人物であるはずなのに。
「ええ。妃殿下が亡くなられたことで、ヴェルトハイムとオスカー殿下のつながりが切れたのでしょう」
「事態の変化は妃殿下から、ですわね」
「妃殿下ももしかして『前世』を」
「いや、『前世』を覚えているのは叔母上本人ではないかもしれない」
どういうことだろうと振り返ると、殿下は苦笑を浮かべた。
「前に母から聞いたことがあるんだ。その時は特にどうとも思わなかったが……。叔母上の侍女にハンナという女性がいてね。バル草を大量生産する方法を確立したばかりか、『灰色の悪夢』を防ぐ術を知っていたのだと」
『灰色の悪夢』――。数十年前シルフェリアを襲った、死の病。今でこそ美しい王都ヴァルトシュタインだが、当時は腐臭と病人の臭気で満ち、陰惨な有様だったという。『灰色の悪夢』で親兄弟を喪って天涯孤独になり、さらに職にもあぶれた者たちが貧民街を形成した。先々代国王も死の床に伏したことから、内乱も激化。『災厄の年』と呼ばれた内乱期は、『灰色の悪夢』に端を発すると言われている。
「彼女に会うことはできないのですか?」
「叔母上に頼んでみよう」
◇
「お初に御目文字致します、王国の若き黒鷲、王太子殿下。レルヒェンフェルト公爵令嬢」
殿下はハンナさんの挨拶に鷹揚に頷いた。ちなみに、クリストハルトとスカーレット様は立場上同席するのが難しいので後で話を伝える約束をした。
「単刀直入に聞く。ラング嬢、『灰色の悪夢』の予防策をどうやって知り得た? 君の知識が現状の医学を越えている」
「……知識、ですか。予防策なんて御大層なものではありません。不浄には病の素があることはご存じでしょう。事実、清潔な環境で暮らす上流階級に比べて、下層階級では病の流行が速い」
ハンナさんの言葉は紛れもない事実。数十年前、『灰色の悪夢』の副産物として、王都ヴァルトシュタインの端にできた貧民街。陛下たちの尽力によって少しずつ縮小してきてはいるものの、貧民街は依然として病巣――同じ平民ですら近寄らない、正真正銘の魔窟。
「そうか。『手洗い』の件はそれで納得できなくもない。では『生食を避ける』というのはどうやって知った?」
不信、警戒、疑惑――形容し難い感情に彩られたハンナさんの瞳を、殿下は真っ直ぐに見返す。
「君はここではないどこかの記憶があるのではないか」
意図をはかり損ねたのか、ハンナさんの表情が猜疑で染められた。……きっとそれだけじゃ、何を言っているのかわからない。
「ハンナさん。貴女、以前はお医者さまだったんじゃありませんか」
「何を……。十の時ヴェルトハイムにお仕えし始めてから、変わったことといえばメイドの仕事を免除され、妃殿下付きの侍女になったことぐらいです」
「貴女がお医者さまだったのはここではないどこか――黒死病やチフス、マラリアにスペイン風邪、結核、破傷風、赤痢、麻疹……。これらのことも、知っていたのではありませんか」
半分賭けだった。――「はるか」は医師でも何でもない、普通の女子高生だった。当然病気の知識なんてない。だけど、昔読んだ歴史小説には、題材としてある流行り病が使われていた。病の名前が何だったのかも、もう覚えていない。だけどその病が夏に流行るもので、生食や生水を避ければ病魔に侵されることはない、と書かれていたのは覚えている。黒死病を出したのは単に、「灰色の悪夢」の「灰色」は「黒」と近い色だから。後は本当にただ言ってみただけだ。
揺さぶりは、効いた。ハンナさんの瞳が、驚愕に彩られる。
「なぜそれを……」
『この世界』には存在しない病気だ。いや、似たようなものはあるのかもしれない。だけど、名称は違うはず。
「わたしが貴女と同じ場所の記憶があるからです」
◇
「ラング嬢はノーサンバランド嬢とは真逆だったね」
「そうでしたね」
逆行前の知識はあるけれど、前世もこの世界の人だったスカーレット様。そしてハンナさんは、前世は異世界の人だけれど――『スノーホワイト』の知識はないらしい。『灰色の悪夢』を食い止められたのはあくまで偶然の産物だとか。
――最初は唯、妃殿下の心をお慰めしたかった。それだけでした。
母親を『灰色の悪夢』で喪っているベアトリクス様は、かねてよりかの病に深い関心を寄せていたという。ベアトリクス様に付き合って、バル草の栽培方法を模索していくうち、前世の記憶を思い出したらしい。
――病気の流行には周期があります。再び『灰色の悪夢』が襲来しない保証なんてどこにもありません。もし『灰色の悪夢』に妃殿下を奪われたら、と考えるだけで腸が煮えくり返るようでした。
ある意味怒りをバネに、バル草の栽培法と病気の予防法を研究し、『灰色の悪夢』の病状が黒死病とチフスに似ていることを突き止めたらしい。
「ところで殿下、どちらに向かっているのですか?」
「温室だよ。さっき執事に聞いたらこの時間は薔薇を眺めながらお茶をしているんだってさ」
ガラス張りの可愛らしい温室には、ハンナさんと会わせてくれた張本人であるベアトリクス様がおっとりと微笑んでいた。
結婚前、『菫の姫君』と称えられた美貌は、三人の子を産んでも全く衰えていない。ヴェルトハイム家に生まれた者に特有の琥珀の瞳は、知性の輝きを宿して煌いている。
「ラング嬢と引見する機会を与えてくださり感謝します、叔母上」
「あら、いいのよ? 『灰色の悪夢』について話を聞きたいと言われたらね。この国の膿はあれから始まっているのだし」
王都の端に存在する貧民街。そして国王派と宰相派の争い。この二つは数十年前流行した『灰色の悪夢』に端を発する。貧民街は『灰色の悪夢』によって親兄弟ばかりか職までも失った人々が形成したものだし、宰相が権力を握ったのは『灰色の悪夢』に侵された先々代国王が倒れたことが原因で起こった内乱を実質的に鎮圧したからだもんね。
「そういえば、今エリーザベトさんの教育係をしているの」
「そうなのですか?」
「ええ。うちは上二人は男の子だし、娘はまだ小さいからマナーを教えるのは先のことだし、手は空いていたの。なんだか彼女、少し変わったみたいね」
いいことみたいね、と嬉しそうに微笑うベアトリクス様に、ほおが緩んだ。……エリーザベト様は建国祭での宣言を実行に移しているんだな。
「楽しそうですね」
「ええ。そうだわ、晩餐を食べていきなさい。……ハンナ、料理長に二人分追加するように伝えて頂戴」
「……妃殿下、私の記憶が正しければ、お二人を晩餐にお呼びするのは以前から決まっていたことかと」
え、そうだったの? そしてハンナさん、いつの間に。気配がなかったんですけど……。
「まあ、ハンナったら。晩餐の時に種明かしをしようと思っていたのに」
「そうでしたか」
「序にオスカー様も驚かせる計画だったのよ」
「それは愉快なことでございますね」
鈴のような声音で拗ねてみせるベアトリクス様と、無機質な返事を淡々と帰すハンナさん。殿下は「……漫才か?」とボソッとつぶやいた。わたしは心の中で激しく同意した。




