侯爵令嬢スカーレット 1
前世の記憶を思い出したのは、七歳――前世の夫だったアーサー様と、初めてお会いした時。
――何があろうとも、私は君を娶る。
――そんなに暗い顔をするな。戦場で武功をあげれば、父上や重臣たちも君のことを認めてくださるはずだ。
――アーサー殿下がまた勝利したそうよ。
――今思えば王太子妃になんてならなくてよかったわね。血まみれの英雄なんて恐ろしすぎるもの。戦場生活のせいか、殿下は殊更に粗野になられたわ。以前は優雅な方だったのに……。
――レティ、私の愛しい人。私には君がいてくれれば十分だ。どうか笑ってくれないか?
前世でも、わたくしはアーサー様の婚約者だった。だけどそれは、いつか解消する予定の婚約だ。わがノーサンバランド家は「グランヴィルの盾」。本当の王太子妃に向かうはずの悪意を、代わりに受ける存在。わたくしの叔母も大伯母も、それぞれ現陛下と先代陛下の婚約者だった。叔母は王家の後押しを受け公爵夫人となっているし、大伯母は外国に留学して女だてらに学者として名をはせている。
ノーサンバランドから王太子妃が出た例がないわけではない。だからわたくしは、必死に王妃教育に励んだ。
初めてお会いした時は、綺麗な子だな、と思うばかりだった。それが恋心に変わったのは、やっぱりあの時だったのだと思う。
祖母譲りの緋色の纏まりにくい髪が嫌いだった。どうせなら、お母様のような金髪だったらよかったのに。
そんな劣等感を解消してくれたのは、アーサー様の一言だった。
「レティの髪は、暁の空の色だな」
「暁……ですか?」
「ああ。太陽が昇る前の、少し空が明るくなる時間帯だ。私はあの時間が、とても好きだ」
夢が破られたのは、十歳の秋。わたくしは『灰色の悪夢』に罹ってしまった。お父様が方々に頭を下げ、地面を這いつくばって――あのプライドの塊のようなお父様が――なんとか手に入れたバル草のおかげで一命は取り留めたものの、後遺症が残って虚弱体質になってしまった。……王妃の最も重要な責務は、後継者を産むことだ。子をなすどころか、王の龍床にはべることすら難しいわたくしは、王妃にはなれない。
悲劇はそれだけでは終わらなかった。『灰色の悪夢』で王妃様が亡くなったのだ。新しい王妃が立ち――陛下は、継母の親族から新しい婚約者を選ぶようにアーサー様に命じた。だけどアーサー様はその命令をのらりくらりと躱し、わたくしが成人した年、知り合いの神官を抱き込んで無理やりわたくしとの婚姻を女神様に誓ってしまった。
もちろん、陛下も並み居る重臣も激怒した。神官は神殿長の関係者だったから手出しはできなかったみたいだけど。王妃様はなにくれとなくかばってくれたが、宮廷はわたくしにとって息苦しいものでしかなかった。日々憔悴していくわたくしに、アーサー様はきっと責任を感じていたのだと思う。
「すまない、レティ。君のためを思うなら、手を放してやるべきだった。でも、君以外を妃になんて考えられない」
アーサー様の謝罪を受け取る資格などない。再三、お父様に言われていた。もっとアーサー殿下を拒め。お前が中途半端な態度だから、殿下も諦めきれないのだ、と。アーサー様のためを思うなら、もっと毅然と拒絶するべきだった。いやいっそのこと、修道院にでも駆け込むべきだった。それを、しなかったのは。
嬉しかった。わたくしを求めてくれるアーサー様が愛しかった。あさましくも、アーサー様と結ばれる未来を夢想していた。
国王公認の嫌がらせはどんどんエスカレートしていった。そこに、かつての温和な陛下の面影はない。ここアーリング大陸の情勢も緊張感を強めていた。シルフェリアでは王弟殿下が謀反を起こして敗死したし、アヴェルチェヴァでは王太子殿下が亡くなりその嫡子が新しい王太子になった。教育が十分でないまま国王は崩御し、若き王は佞臣の操り人形となり――その現状に不満を覚えた彼の叔父が挙兵、血みどろの内乱戦争が起きているという。カザンでは王が亡くなり、若き王を補佐する王太后が夫の側妃とその子を惨殺、王は酒色に溺れているらしい。
そんなある日のこと――シルフェリアとの間に戦争が起き、アーサー様自ら出陣することになった。
「宮廷内で確固たる地盤を築けば、もう誰にも君のことを悪く言わせない」
結果的に、わたくしのことを悪く言うものはいなくなった。だけどそれは、アーサー様が武勲を上げたからだけではない。アーサー様が恐れられるようになったからだ。わたくしは、どちらかというと同情されるようになった。
再びお会いしたアーサー様は、以前とは全く違っていた。精悍なお顔立ちのせいで冷たげに見えるけれど、実は誰よりも優しいあの方はどこにもいなかった。
みんなに囲まれていたアーサー様。愛されていたアーサー様。それをすべてわたくしが壊した。
わたくしがいなければ王妃様の親戚の令嬢を娶って、皆に祝福される幸せな婚姻を結んだはずだ。わたくしのことで肩身が狭い思いをする必要もなかった。わざわざ戦場に出て、心を病むこともなかった。死の間際にわたくししか傍にいないような、そんな孤独な死を迎えることもなかった。
だからわたくしは、今度こそは間違えない。運命に逆らうことになろうとも、絶対にアーサー様の心を守ってみせる。シルフェリアとの戦争も、回避してみせる。
そのためなら、たとえこの恋が泡と消えても構わなかった。
◇
戦争を回避するために、シルフェリアの王立学園に留学することにした。お父様の説得は結構簡単だった。
「わたくしは『仮』とはいえ王太子殿下の婚約者でしょう。やはり国内の貴族令息だとしり込みしてしまうと思うのですよね」
「……賢明な判断だと思うが、お前はそれでいいのか?」
つい昨日まで「わたくし、将来はアーサー様のお嫁さんになりますの!」と騒いでいたわたくしの突然の変貌に、お父様は面食らった様子だったが、普通に許可はくれた。
大変だったのは、アーサー様の方だった。
「私と一緒に、グランヴィルの王立学園に通うのではいけないのか?」
「将来の王妃として、諸外国の貴族と交流を深めるのは大事なことですわ」
アーサー様は「そうか」と微笑った。無表情がデフォルトのアーサー様の珍しい笑顔に、とろけてしまいそうになる。同時に、嘘をついていることが申し訳なくなる。まあ嘘と言えば、お父様に対してもですけれどね。お父様はアーサー様との婚約解消の後、ほかに縁談を結ぶ予定でいるけれど、わたくしは他の男性と結婚するつもりはない。いざとなれば出家するつもりだ。




