晩夏、雨の残り香
夏休みが終わる。そんな八月の最終日、悔いなんて残さないとばかりの人だかり。橙色の柔らかい明かりが踊り、スピーカーから流れる無感情な祭囃子がその調子を取る。
「雨、降らなかったな……」
そんな賑わいから一歩離れて。公園と寺が共存しているこじんまりした会場の、一歩外。ガードレールに僕は腰掛けていた。
とても、あの中に混じる気分ではないのだ。その鬱屈とした『気分』とやらを、紫煙とともにくゆらせて。
ちびたタバコをぴんと弾くと、昨日の雨に湿るアスファルトに落ちて、ジュッと音を立てた。そんな気がした。
そも、僕は大学生だから。夏休みは終わらない。彼らのやかましさに付き合う心情などあるはずもない。
タバコの煙臭さを、ぬるい外気と入れ替えると、雨の残り香がした。それはじめじめとした不快さを思い出させてくれる。迷惑だ。
特にすることもないから、手は自然にライターをいじる。公園の隅っこにでも捨てられていそうな百円ライターを。
点けて。
消して。
点けて。
この感情の名前は知っていた。「やり切れない」と言うのだ。この場から離れてしまいたいけれど、彼女との約束だから。
『今日、一世一代の告白をしてくるから。先輩には、近くで応援していてほしいんです。それで、フラれたら慰めてください』
楽しそうに語らいながら、ちらほらと帰っていく人々。羨ましくて恨めしい。
対して彼らは、ぬぼーっとライターをいじるだけの僕をちらりと見て、すぐに目をそらす。目を合わしちゃいけないと思われたのではなく、見る価値もないと思われたのだろうと。
そう思って、何度目かの点火をした時、その向こうに彼女が見えた。
高校三年生の彼女はそう大柄でもなく、むしろ小柄だ。浴衣を着てこそいるけれど、そんなのは周りに腐るほどいる。
それでも、彼女は人ごみの中でぽつんと目立っていた。
ぬかるむ地面と履きなれない下駄に苦しめられていた彼女の足取りは、しっかりとしていて。それはきっと、人ごみの中に消えていったあの時の、弾むような足取りではないから。
俯いた彼女が僕の前に立つ。一つにまとめた髪が揺れる。
「どうだった」
僕は聞くまでもないことを、さも当然のように聞いた。胸元からタバコを取り出して、火をつける。
「ダメだった」
「そっか……」
何かを追い出すように、煙を吸い込んだ。そして、真っ黒な夜空に向かって吐き出す。
彼女の嗚咽が聞こえた。おかげで、上を向いた首を下すことができない。
「嬉しいけど、今は受験に集中したいからって。それって、去年告白したらよかったってこと?」
「さぁ、わからない」
顔も知らない王子様の尻拭いを、なんで僕がしなけりゃあいけない。
約束を交わした時の彼女の顔を思い出す。あんな、薄氷みたいな笑顔をさせたくせに。僕が高校を卒業するときには、心の底から笑ってみせたくせに。
「先輩、ひどいです。慰めてって言ったのに」
「人選を間違えたんだよ。慰め方なんて、僕は知らない」
後悔。
言ってしまって後悔した。刺々しく言ってしまって、それに気づいて、彼女の様子をつい見てしまって。まっすぐ僕を見つめる彼女の瞳を見て、僕は後悔した。
二人の間で言葉が消え、祭囃子だけが僕を嘲笑う。彼女の口が小さく動く。きっと、「ずるいです」と呟いたのだ。
そして瞳を閉じる彼女が、不思議と艶かしかった。
「じゃあ、言われた通りにしてください」
とっ、とっ。
アスファルトに鳴る軽い下駄の音。彼女の頭が、僕の胸に預けられる。
「硬いです」
「仕方ないだろ」
咄嗟に遠ざけたタバコを、そのまま捨てる。
けど、それだけだった。
何を求められているのかわからない。何を求めていいのかわからない。僕の手は挙動不審に徘徊して、結局ガードレールの上に落ち着いた。
ただ、胸の鼓動が伝わっていたら恥ずかしいと。そんなことしか頭になかった。
「撫でてください」
「……え?」
「頭、撫でてください」
彼女は身じろぎもせず、僕の胸に顔を埋めたまま言った。彼女の口の動く気配が服に伝わって、僕に伝わる。言われるままに彼女の頭に手を乗せていた。そして、艶やかな彼女の髪に手を沿わせる。
「シュシュとか外していいので、櫛ですくように撫でてくれませんか?」
「いいのか?」
「いいんです」
胸に染み込むような声に、僕は操られるままだ。そのふわふわとした手つきで髪を解く間、僕はずっと考えている。
これは絶好の好機だ。抱きしめて、優しい言葉をかけて。しかし甘い言葉は囁かず。ずるい男になってしまえと。
けれど、そんな浅はかさを彼女に見抜かれたらと思うと身が竦んで。
結局僕は、彼女の頭を撫でてやることしかできない。髪をすくい上げるように、指を滑り込ませて撫でるものだから、僕の手は彼女の汗でしっとりと湿っていた。
「先輩は何も言わないんですね」
冗談めかしたその言葉は、めかしこみきれず震えていた。だから、何も言わないからなんだとは聞くこともできない。
「少しだけ泣かせてください。先輩の服を濡らしてしまいますけど。大丈夫です」
彼女の手が僕にすがりつく。言葉を重ねるにつれて、痛いほどに彼女の手は握られる。
「どうせ、すぐに乾きますから」
「わかった」
僕が言えたのはそれだけ。
声を押し殺してなく彼女を、僕は祭りが終わるまで撫で続けた。その声に乗った感情が、涙が。服どころか僕の中にまで浸透してくる。
彼女はすぐ乾くからだなんて、簡単に言うけれど。この雨の残り香は、僕に染み付いてしまうに違いなかった。