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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

現代物・和モノ置き場

父の情人

作者: 鳴田るな

 コーヒーが嫌いだ。カフェインは紅茶かエナジードリンクでいい。


 そんな私の頑なな態度は、コーヒー大国で紅茶党は常に肩身が狭い。


「飲んでも死にゃしねえよ」


 なんてもう聞き飽きた。


「どうだい、香りだけでも」


 奴らは野蛮人を救済する宣教師の心持ちで文明を強いてこようとする。

 表面上は愛想の笑みを浮かべてみるが、内心反吐が出た。

 飲んでも死なないなら飲まなくても死なない、それが嗜好というものだ。


 体質というわけではない。コーヒーの香りは私の不愉快な青春に紐付いている。だから嫌いなんだ。

 理屈ではない、これは感情の問題であり、納得の落とし所だ。


 親指と人差し指で四角形を作って世界を切り取り、そこにコーヒーを閉じ込める。

 シャッターを下ろし、紅茶をすすりながら現像写真とにらめっこをする。

 まったく自分でも度しがたい。奇妙な感情だ。


 コーヒーカップ、コーヒーの色、コーヒーの香り、コーヒーの味――それらはすべてNに結びつく。




 Nは男だ。男の名前だ。正確にはイニシャル。本名も愛称もきちんと覚えている自分が忌ま忌ましい。


「コーヒーはいかが? お客さん」


 Nの口癖の一つだった。キャンピングカーには洒落たセットが備え付けられて、いつでもコーヒーショップに化けた。


 お気に入りのカップはオリーブ色、中身はオリジナルブレンド。

 すんすんとわざとらしく鼻を鳴らし、一口唇を濡らしてニヤッと笑う。それからようやくちゃんと飲む。台詞回しといい実に気障ったらしいことだ。なのに全く見苦しくなかった。


 Nはいわゆる見目麗しい男だった。外見も、所作も。元々の素養もあったのだろうが、努力も怠らなかったのだろう。睡眠と運動、それから食べ物と自由に生きることの重要性をよく説かれた。

 気さくで社交的で、ロマンチスト。端的に言って魅力的な男だった。


 ――だからこそなおのこと、許しがたい記憶として私の深い場所に刻みつけられているのだ。



 青い空、青い海。観光地ではあるが、いまいちぱっとしない。

 そんな小さな島が私の生まれ故郷だった。

 本州までフェリーで二時間半。ジェットに乗れば一時間程度。ヘリポートはあるが飛行機は飛ばない。


 Nと出会ったのは中学生の時。私はまだ井の中の蛙、大海を知らない田舎者だった。



 十四歳の夏が始まる頃、Nは船で島にやってきた。ご自慢のキャンピングカー、奴の根城ごと船に乗り込んでいたのだ。

 たまたま波止場にいて、大きな車に目を丸くしていた私に、やっぱりあの時もコーヒーをすすりながら真っ白な歯を見せた。


「やあ、我が家はお気に召したかな?」


 私は後ずさり、俯いた。父から昔もらったカメラを持つ両手が震えた。撮ることも忘れて見入っていた、そんな現場に声をかけられたことに萎縮した。

 Nは声も文句なしだった。ハスキーで、スマート。はっきりしていて聞き取りやすく、それでいて心地よい余韻が耳に残る。


「車でね。旅をしているんだ。あちこちを」


 奴は私の態度にお構いなしに、人なつっこく片手を差し出した。


「ジョナサン・ランバートだ。君は?」


 ――ああ。青い海を背に、白いキャンピングカーに乗って。

 あの男はやっぱり何度思い出しても美しかった。


「……ジョーイ」

「そうか、ジョーイ。いい名前だ。俺と同じJ。それに素敵なカメラだね」


 男はぽん、と私の肩を叩いた。いかにも自然に、当然のことをするように。

 あいつはやっぱり格好良くて、私はどこまでも惨めだった。

 そのくせ少年の私は、目の前で輝くハンサムな男に素直に魅力を感じていた。


 大事なカメラを真っ先に褒められたのだ。私はまだ、幼いだけの少年だった。



 Nはこれも何かの縁だから、と私の家について来たがった。生活はキャンピングカーで済ませるから、泊める所と水を調達できる所、それからトイレの場所を教えてほしい、そんなことを言った。

 軽率な私は了承した。忌ま忌ましいが認めよう。田舎の無知な幼稚者は、外からやってきたこのロマンチックな男にお近づきになりたかったのだ。Nがまたたくみに私の自尊心をくすぐったものだから、珍しくも羞恥心が飛んで私にしては大胆な行動に出ていた。


 私が根掘り葉掘り聞いてみると、奴は愛想良く自分の事を教えてくれた。


 元は有名企業の第一線で働いていた。ある日思い立って車を買い、国を回り出した。それ以来、金が貯まれば旅に出て、旅先で金がなくなれば稼ぎ、当てができれば次の場所へ。そんな生活を続けている。

 男なら誰しも一度は憧れる、夢を追い求める生き方――それをちゃんと、しかも格好良く実現させていたのがNだった。



 私と言えば、冴えない学生だった。父親似だったのだ。それは劣等感でありつつ、密かな誇りでもあった。私は父親のことを、確かに愛していたのだから。


 ――Nの話をするなら父の話もしなければならない。

 父は穏やかで優しかったが、その分男らしさにどこか欠けていた。安いジーンズ、野暮ったい眼鏡。見た目でわかるイケてなさ、コミュニケーション能力の低さ。

 ただ一応、よく見れば顔立ちは整っている方だった。それは私自身にも遺伝している、彼の数少ない客観的な強みだった。……これは後で知ったことなのだけど。


 Nが良いロマンチストなのだとしたら、父はまさにそう、悪いロマンチストだ。

 現実にいまいち足がついておらず、優柔不断――そういう夢を見るだけの男だった。


 母は、私が物心ついた頃には既にいなかった。大きくなってから調べたら、とっくに本州に出て実業家と再婚していた。田舎で一時ちょっと変わっていた男に、勝手に勘違いしてのぼせ上がった若気の至りなぞすっかり忘れ去って、第二の人生を新しい家族と謳歌していた。珍しくもない、よくある話だ。



 父は雑貨屋を営んでいた。趣味は穴掘り、というより鉱石集めだった。しかも金とか宝石とかじゃなく、その辺の誰も興味を示さないような石ころを並べてみて、常人ならまず理解できない凡石の違いと尊さについて、長々息子に語ってみせる――そういう男がトバイアス、そして私の父だった。私にくれたカメラだって最初は彼の鉱石用だった。


 数百年前、島で実際に金がたくさん採れた頃なら格好もついたかもしれないが、すっかり掘り尽くされて、古い採掘の様子が観光地の見世物化しているような現代じゃ、穴掘り野郎なんか相手にもされない。

 お日様の下で日々海にこぎ出す野生のロマンチストには特に、目障りで仕方なかったのだろう。


 これまた珍しくもない、よくある話だ。

 私たちは長らく、大勢の秩序のために消費される側だった。

 学校で物がなくなることが普通だと思っていた。だからますます誰もほしがらないような物ばかり家に残った。


 無関心と悪意、どちらも経験した身としてはどっちがマシだなんて比べる事も馬鹿らしい。どっちもほどほどに嫌で、精神を蝕む。



 けれどNは、そんな鬱屈した負け犬共の密やかな穴蔵にやってきて、ぐるりと辺りを見回すと人懐こい笑みを浮かべた。


「やあ。ジョナサン・ランバートだ。ジョーイと友達になって、案内してもらったんだ。ここ、いい所だね。しばらくいてもいいかな? 車で暮らしているから、泊める場所がほしくて。お礼に毎日コーヒーをご馳走するから」


 片手を差し出された父、トバイアスは不機嫌そうな、いかにも苦虫を噛み潰したような顔になった。

 ただ、これは困惑しているだけなのだ。息子の私は知っていた。Nは父をいじめていた方の人間達に近かったから、染みついた苦手意識が顔を出したのだろう。


「……残念だが、苦いのは苦手なんだ」

「じゃ、ホットミルクは?」


 それは父の好物だ、と私は横から口を挟んだ。

 少年の私はNに家に寄って、できればそのまま滞在してほしかったので、積極的に自分よりも更に内気な父との仲を取り持とうとした。

 父はぎゅっと眉に力を入れたまま、それでもNの手を握り返した。


「……トバイアス。好きにすればいい。水場とトイレは言ってくれれば貸そう。車暮らしは不便だろう」

「よろしく、トビー」


 Nは真っ白な歯を見せて、真夏の太陽を思わせる笑みを浮かべた。

 父は相変わらず仏頂面のまま、目をそらした。

 Nはそんな父のそばかすの浮かんだ顔をじっと見つめていた。



 Nは島のあちこちをふらつき、お得意の交渉術を使って気ままに色々なバイトをしていたようだ。

 ある時はダイナーでエプロン姿、またある時は浜辺を水着姿で歩き、そうかと思えばスーツを着てオフィスの横にしれっと座っていたこともあった。

 けれど不思議だったのが、最初に宣言した通り住み処であるキャンピングカーを我が家の敷地に止めて、そこが拠点だとでも言うようにふらりと戻ってくるところだった。


「やあ、ジョーイ。今日はよく釣れそうだよ。一緒に来ないか」


 ある日なんか、学校帰りの私に車の中から話しかけてきたかと思ったらそんなことを言った。私は俯いて返した。


「……釣り竿、ないよ」


 元はあったのだが、壊れてしまったのだ。壊されてしまった、と言う方が正しい。しかしNはその程度の障害意にも介さなかった。むしろそう答えると思っていた、とでも言うように、車の窓枠に手をかけて真っ白な歯を見せた。


「用意してあるとも。レンタル物だけどね」


 私は車に乗った。

 Nは海に行く前、ついでのように家に寄った。私にカメラを取っておいでと促した。


「トビー、夕飯を捕まえてくるよ!」


 一緒に下りてきて、雑貨店で今日も一人ぼーっとしていた父に一声そうかける。

 父は仏頂面で手を上げた。Nはニコニコしていた。


 Nはよく私を可愛がってくれたと思う。遊びにしょっちゅう連れて行ってくれたし、お洒落の仕方や勉強のこつも教えてもらった。Nがどうして私なんかとつるんでいるのか、私自身も周囲の気に入らない顔で見守る人間達も誰もわからなかった。


 けれど都会の光そのものだったN自身に田舎の臆病な芋共が何かできたはずがないし、次第にNに傾倒して見た目が変わり、自信のついた私への態度もちょっとずつ変わっていった。


 しかしNが来てからいいこと尽くしのはずが、どうにも私は日に日に奴への奇妙なわだかまりが腹の中で大きくなっていくのを感じていた。



 正直に言おう。

 父との仲の良さに嫉妬していたのだ。今ならわかる。

 何気なく、さりげなく、Nは私と何かするとき父に声をかけていた。

 それは父子家庭において大事な息子を預かるための儀式とも取れたが、私にはどうにも違和感があった。

 Nは好きで父に絡んでいるように思えたのだ。



 Nとの時に入り込んでくる父を忌ま忌ましく思っていたのか、いちいち父に何か一声かけるNに物足りなさを感じていたのか。

 いずれにせよ、当時の私はそこまで自己分析できなかったし、いかんともしがたい思いを抱えたままにとどまった。



 人見知りする父が、いつの間にかNに朝食を振る舞うようになっていた。早起きの彼は、私に加えてもう一人の寝坊助を起こすのが日課の一つになりつつあった。


 奴は当然のような顔で我が家の食卓にいた。まるで空気のように、自然に。けれど確かな存在感を持って。私よりもさらにのんびりやってきて、優雅に欠伸をしながら座るのだ。


「今日はどんなご馳走?」


 と微笑んで。


「ネイ。ミルクを入れてくれないか」


 父はいつからか、Nをそう呼ぶようになっていた。ジョナサン。ネイサン。ネイ。父にしては随分早く、しかも深く打ち解けていた。最初の決定的な違和感はここだったかもしれない。


 子ども舌の父はブラックが苦手だった。しかしどうもコーヒーに全く興味がないというわけではなく、チャレンジしては離脱していた。砂糖とミルクをたっぷり入れた奴なら飲めるのだが、それでも美味しいとは思えなかったらしかった。


 Nは父のために色々苦心していた。

 いや、そんなことはない。奴は楽しんでいた。父を楽しませることを。

 カフェオレ、カフェラテ、カプチーノ。女が好きそうなハートマークだってお手の物。味が駄目ならせめて見た目を。父はまんざらでもなさそうに受け取っていた。あんな子どもっぽく、女っぽいものを。


「トビー、今日のはどうかな?」

「あー。苦い。見た目と香りは好きなんだけどね」


 子供じみた大人同士の間に、いつの間にか自分がいることが邪魔に思えるようになってしまった。


 一体何に気後れしたのか、私自身もわかっていなかった。


 ただ、空気が。私と目が合って悪戯っぽく微笑む時と、父と視線が絡んで優しく歯を見せる時の、Nの――何かこう、異なる雰囲気が。私を萎縮させ、奴から遠ざけさせた。

 その頃には、私にもイケている他の友達というものができるようになっていたこともあったので。


 彼らは私からNの手ほどきの又聞きをしたがっていたようで、それは私にとって面白くなかったが、家にも帰り辛かったから結局奴らとつるむほかなかった。

 しかし最初は乗り気でなかったものの、これはこれで新体験だった。

 誰もが自分の事について話したがったから、聞いているだけで時が過ごせた。忍耐は得意分野だ。それに気に入らなくてもNの真似は使えた。相づちの打ち方、微笑み方。

 そうして世界を広げていくことは悪ではなく、むしろ私にとって必要なことなのだと学んだ。

 それに私のカメラに興味を持つ人間が少なからずいたことも、私の幸福を少しだけ上向けさせた。



 来訪者と共にやってきた緩やかな独り立ち。それだけなら私はここまで徹底したコーヒー嫌いにはならなかっただろう。


 夏が終わりにさしかかる頃だった。



 その日、私は男の子達と集まっていた。

 島を巡り、海岸にたむろし、騒いでいる連中を遠巻きに見つめていたり、巻き込まれたり。

 馬鹿馬鹿しかったが、楽しんでいた。私は自分に、そういうことを楽しめる才能があるのだと知って驚いていた。


 日も傾いてきた頃、このまま夜も帰らずにつるんでいないかと誘いを受けた。

 私は迷ってから、父に相談してくると答えた。許可が出たらついでに食料もいくつかもらってくると言って、快く送り出された。



 夕焼けの中、私は慣れた家路をたどっていた。ふと足を止め、目を細め、首から提げていたカメラを構えてみた。


 Nの車だ。我が家までの道の途中、ちょっと外れた場所にぽつんと止まっている。


 何をしているのだろう。私の好奇心は車に足を向けさせた。


 数歩進んでから、私は息を呑んで立ち止まり、近くの木にそっと身を隠した。ちょうど夕方だ、陰に入ればあちらからは見えない。


 なぜ自分がそんなことをしたのか、最初はわからなかった。目の前の光景を信じられなかったからである。



 震える手でカメラを構えた。遠くの景色にレンズを合わせ、ズームする。



 紅の中、コーヒーカップを持ったNと父がキャンピングカーの前で座っていた。


 ――Nは父にキスをしていた。


 最初は悪戯のように唇をかすめさせるだけ。父は奴の顔が近づくと目をつむり、離れるとそっと開けてNを見る。拒む様子はない。


 私はぼうっとした頭でレンズの向こうを見やった。


 Nがコーヒーカップをぐっと飲み干して、車の中に適当に放り込んだ。それから父の顎を掴み、覆い被さる。


 ――絡み合う二人の位置が変わった拍子に見えた。舌を入れているのだ。やっぱり父は拒まなかった。どころかNの背に手を回し、まるで女のように奴を受け入れた。


 Nの唇が父のそこかしこに触れ、耳を食み、鎖骨に、胸元に下りていってシャツのボタンに指がかかる。


 車の扉が開き、二人の姿がそこに消えて、閉まった。



 そこまでしっかりと見届けてから、私は夕焼けの中を走った。


 家に、家に。明かりのついた家には父がいて、キャンピングカーはいつも通り近くに泊まっていて、日常が、そこに、そこに、あるはずだ、きっと――。



 転びそうな勢いでたどり着いた我が家は、しんと静まりかえり、家人の留守を告げていた。


 私は倒れ込むように飛び込んで、真っ先にトイレに向かった。


 夜の闇が落ちてくる。便器に顔を突っ込んで胃の中の物をぶちまけた。少し収まってから、酸の味と臭いでまた吐いた。身体が空っぽになるまで繰り返すのに、涙と鼻水が止まる様子がない。



 その時私を支配していたのは怒りではなかった。

 深い悲しみと、そして恐怖だ。


 長い間私は立ち直れなかったが、ふとすっかり夜の帳に辺り一面覆われていることに、彼らが――少なくとも父はここに、もうすぐ帰ってきてしまうことを思い出す。


 吐いたのがバスルームで助かった。洗濯の仕方も知っていたから、さっさと酷い惨状を片付けて、台所で水を飲んで、それから最後の気力を振り絞って自分の部屋に戻った。


 家にはいたくなかったが、出て行く気力もなかった。


 やがて帰宅した父が、寝込んでいることに気がついて様子を見に来たが、一言も答えなかった。

 Nは家に入ってこなかったらしい。


 父は一人で夕食を準備し、私に何度か声をかけてから諦めて寝付いたようだ。

 遠くでシャワーの音が聞こえると、私はますます口の中が苦くなるのを感じたが堪えた。



 結局一睡もできなかった。

 瞼の裏に、絡み合う男二人の姿を幻視した。

 一度ベッドから転び出てゴミ箱に頭を突っ込んだが、もう何も出てこなかった。

 父を起こしたかと怯えたが、家はしんと静まりかえっていった。

 私はベッドに戻った。

 残暑の寝苦しさに苛まれながら、夜明けがやってくるのを懸命に待った。



 翌朝、私は物音が聞こえてくるのと同時にベッドからよろよろと這い出た。


 一足早く起きて朝の準備をしようとしていた父が、珍しくさっさと下りてきた私に目を見張る。

 それからすぐに心配そうな表情になった。あまりにも私が酷い顔をしていたからだろう。


「やあ。具合が悪いのか? 夏風邪かな。薬を……」

「父さんはゲイだったの?」


 父は私の端的な質問に、一瞬動きを止めた。けれど本当に一瞬のことだった。


「――見たのか?」


 消えそうな声で、一言確認するように呟いた。私は硬直し、沈黙を保ったが、私の目の中に答えを見つけたのだろう。その時彼の顔に浮かんだのは、罪悪感であり、諦念のような何かだった。


「それで母さんは出て行った」


 それは紛れもなく肯定の言葉だった。

 あまりにもあっさりした答えに、私は次の言葉が出てこなかった。

 何か、色々なことを言おうと思っていたはずなのに、全部喉の奥に引っ込んでしまった。


「でもジョーイ、君は僕の子だ。疑わないでほしい」


 私はやっぱりぶつけてやるはずの言葉が見つからなかった。

 拳を握りしめ、何度か口を開いて閉じて、結局家の外に飛び出していった。


 父は止めなかった。静かに、私の背を、私と同じ色の目で見送っていた。




 私はすぐさまキャンピングカーに向かい、遠慮なくドアをガンガンと叩いた。

 寝ぼけた様子のNが出てくると、その身体に拳を振り上げ、叩き込んだ。


「出て行け! 今すぐ島を出て行け!」


 Nもまた――父と同じように、一瞬だけ何のことを言われているのかわからないという風にきょとんと目を見張ったが、こちらはすぐに理解したらしい。


 気怠げな寝起き顔が一転していつもの色男に変じた。今はそれが、見目麗しい人の皮を被った悪魔の姿にしか見えなかった。


「はは。トビーとのことがついにバレたか」


 今にも口笛を吹きそうな口調に私の頭にますます血が上った。


「恥知らず!」

「君のお父さんにキスをしたことが? それとも抱いたことが?」


 Nはじっと私の目を覗き込んで、静かに尋ねてくる。すると途端に私は言葉を失った。

 こいつは甘い顔で家に乗り込んで、人の父親を取った悪い奴だ。しかも島の女の子達と、少なくともキスをしていた所だって見たことがある。あの時は大人の男っぽいとドキドキして憧れた自分がただただ恥ずかしい。自分が抱いていたかっこいい男のイメージを完膚なきまでに粉砕してくれた裏切り者だ。


 そのはずなのに、そのまっすぐな態度のせいだろうか、Nは私よりずっと正しいように見えた。開き直っているとも言えたが、彼は彼自身のしていることに疑いも罪の意識も感じていないようだった。それがとても眩しく見えた。憧れていたときの彼と同様に。

 彼はもう一度、今度は微笑まずに言った。


「それっていけないことなのかな? ジョーイ」


 耳元で囁かれたら腰が砕けるだろう、低く甘いバリトンボイス。悪魔のはずなのに、Nはやっぱり天使のように美しく、自信に満ちあふれていた。

 私は情けなくもじわりと目元を熱くして鼻をすすった。


「だって……だって、だって」


 頭の中がぐしゃぐしゃで、こんなに大変なのに、元凶の男はどこまでも静かで――この時も美しく、格好良かった。


「父さんは、それが父さんなのは、嫌なんだ……」


 私はようやく、嗚咽の間にそれだけ言った。


 Nが誰かと付き合って、それが男だったとして。

 なぜ、父でなければならなかった。

 祖父母との繋がりも薄い私にとってはほとんどたった一人の家族だった。

 情けないと感じることも多くても、彼は私の「父」だった。

 それを、この男は。一夏ごときで、私の一番大切だったものを根こそぎ奪ってしまったのだ。


 彼は奥に少しだけ身体を引っ込めてから、ハンカチを差し出した。それで静かに答えた。


「俺は君からトビーを盗ったわけじゃない。でも、君の思い描いていた父親像は壊してしまったんだろう。そのことは、謝罪すべきなのかもしれないな」


 私は一度は押しやろうとしたが、あまりに顔面の状態が酷くなっていくので結局は好意に甘んじた。


「だけど彼を愛している。それは俺と彼の当然の権利で、君にだって責められる道理のないことだ」


 ……完敗だった。私は何もかもNに負けていた。何も反論できなかった。

 彼のおかげで少し変われたと思ったのに、他ならぬ彼自身が私をどん底に突き落としたのだ。

 私はキャンピングカーから飛び出して、間もなく上ってくる朝日の方に走り出した。


「ジョーイ。危険なところには行くなよ、()()()()が心配する」


 のびやかな声が背を追ってくる。


 殺してやる、と思った。

 できもしないくせに、殺してやる、と泣きながら一番近くの海まで走って、そこでまた、涙が涸れるまで泣いた。



 悩んだ後、私は人生初めての家出を試みた。

 と言っても、ささやかで大人しいものだ。

 行き先は最近できたばかりの友人の家だ。以前では考えられなかった。漁師の家だった。

 たまたま私が海岸でぼんやりしているところに出くわして、昨日はどうしたのか、と声をかけてきた後、私の顔色の悪さを見て何かを察したのだろう。


 私は父と喧嘩をしたのだと言った。すると同い年の少年は、それじゃ家に来いと言った。曰く、自分の家はたまり場と化しているからよくあることだと。彼はただ陰気な奴が気に食わないだけで、人並みに話せる相手には親切だった。


 大人しくついていった後、電話を借りて、父に帰らないことも伝えた。そういうところが私の生来の臆病さであり、けれどそう簡単には治らない性質だった。


 父は多くは語らなかった。気が済んだら戻ってこい、という旨を伝えられて電話は切れた。そういうところも、自分の子どもっぽい情けなさを浮き彫りにするようでいやだった。彼の家に大人の影が見えなかったので聞くと、父はずっと沖に出ており、母は今日戻ってこないだろうとあっさり告げられた。そんな家もあるのか、と新鮮だった。


 友人の家には妹がいて、私に自分の玩具のようなカメラを渡して自分の事を撮らせたがった。


 気乗りはしなかったが、いさせてもらっている身だし、十四年間なんとなく続けてきたことだ。なんでもないことで嬉しそうに礼を言われると、悪い気はしなかったし、心に深々とついた傷が少しは埋められていくような気がした。


 小さなお嬢様は散々少年達を振り回すと、お友達と遊ぶのだと家を出て行った。これもまた小さなカルチャーショックだった。日の沈む前に家に一度は戻らねばならないのは、世界のルールではないことを知った。



 案内された友人の部屋は魚まみれだった。自慢げに貝などの収集物を見せられた。彼はずっと海の話をしていた。潜った経験を聞かれて、首を振る。お前はカメラが上手だから、海の映像を撮るといいのに、そんなことを言われた。


 そういう道もあるのか、とぼんやり思うのと同時に、島国で暮らしておいてこんな身近な道すら目に入っていなかったのかと思った。

 私は今までカメラに何を収めてきたのだろう。

 ……石だ。所詮父の真似事、追いかけっこだった。

 浮かんできた涙をごまかしたくて、シャワーを借りたいと言った。

 彼は快く応じてくれた。出てきた時には気分がよくなると、そっとくすねてきたらしい酒を一口振る舞ってくれた。一杯目でくらりと来たが、自分で切り開いていく未知は悪くなかった。


 ジャンクフードを囓り、少しだけ夜更かしをして、初めて他人の家で眠りについた。

 なかなか落ち着かなかったが、少なくとも昨日よりは良い寝心地だった。

 大分気分が収まってきたおかげもあったのだろう。


 目が覚めると別人のようで、私は友人に感謝を、自宅に戻る意思を伝えた。

 彼はまたカメラを撮りに来いと手を振った。



 朝日の中、どんな顔で父に、Nに会おうと思いながら足を動かしたが、結局答えが出る前に終点にたどり着いてしまった。彼らに謝るべきなのかすら、私はまだ答えが出せていなかった。


 私は困惑し、次に血相を変えた。


 家の中に飛び込んでいくと、何もなかったかのような顔で父が迎えた。


「お帰り、ジョーイ」

「父さん。ジョナサンは?」


 家の前に来て、念のためぐるりと一周までしたからわかっていた。

 あの馬鹿でかい目立つキャンピングカーが敷地のどこにもいない。


「出て行ったよ。今日の朝の船に乗って」


 父は一人で当たり前のように朝食を作り、自分でホットミルクを入れていた。

 私は混乱した。ぐす、と鼻が鳴った。


「僕のせい?」

「いいや。彼は自分のしたいことをする男さ。元々ここにいるのだって、一時のこと。他に行きたいところが、やりたいことができた、それだけだよ」


 今度は顔が真っ赤になるのを感じた。

 自分の浅ましく醜い自惚れを自覚させられたのだ。

 私は八つ当たりの矛先を父に向けた。


「止めなかったの?」

「止めても無駄だよ。彼はそういう男だ」

「僕知ってるよ。あの人女の人ともキスをするんだよ?」

「ああ。今頃新しいガールフレンドと仲良くしているかもな」


 父は話題の人を懐かしむように目を細めた。そこには負の情念など見られず、いっそ爽やかな清涼感すら感じさせられた。とても濃厚に舌を絡め合い、胸元のボタンを外し合っていた仲の男に捨てられた様子には見えなかった。


 私はカッとなり、勢いよく机を叩いた。


「父さんがそんなんだから、誰もここにいてくれないんじゃないか! 母さんも、ジョナサンも!」


 その時になって初めて、父の顔に恥じ入るような色が走った。同時に私は激しい後悔に苛まれた。


「すまない、ジョーイ」


 彼は言った。


「すまない」


 彼はもう一度言い、ゆっくりと歩み寄って私を抱きしめた。

 私は泣いた。泣きじゃくった。一生分の涙を流した。泣きながら父にようやく謝罪した。彼はじっと、耐えるように目を閉じて私を抱いていた。


 父にどうしてほしかったのか。Nにどうしてほしかったのか。

 わからない。今でもわからないままだ。

 ただ、あの夏の輝かしい日々と、元々二人暮らしだったはずの家が奇妙に広く感じられた喪失感、胸の痛みはずっと覚えている。



 私が尋ねなかったから、結局父とNの真実については不明なことが多い。

 どうして惹かれ合ったのか。いつからそういう関係だったのか。何を考えていたのか。全て謎のままだ。私は傍観者であり、蚊帳の外の人間だった。大人達の世界に入り込むことすら許されない、ただの子どもだった。

 私と父がなかったかのようにすると、Nの痕跡は徐々に、そしてすぐにしっかりと消え失せた。


 私は年齢を重ねるにつれて順調に交友関係を広げ、家から外に、島から本土に活動拠点を移した。


 父は止めなかった。ただ、時折家に帰ると、眼鏡の奥の目が嬉しそうに輝いた。

 そういう人が私の父で、たぶんこういうところがNも好きだったのだ。

 二十歳を超えてからようやく、私はそう父に納得することができた。




 けれどコーヒーは嫌いだ。Nのことは今でも許さない。私の人生最大の敗北で、屈辱で、苦々しくも――なぜかどこかに甘やかな香りを孕む、忘れがたい記憶だった。


 夏になると思い出す。眩しい陽射し。潮風の香り。キャンピングカーから笑いかける男。


「ジョーイ。飲んでみるか?」


 シャッターを切り、カメラの中に宿敵を収めてもどうしてもわからないことがある。


 あのオリジナルブレンドはどんな味がしたのだろう?


 きっとNと唇を重ねた父は知っていたのだろう。


 私は知らない。どれほどコーヒーの写真が増えても、唇をなぞっても、あの味を知らない。

 永遠にわからないままでいいと思うのに、なぜか忘れることもできないでいるのだ。

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[良い点] とにかく引き込まれる。読む度にその場の風景が、彼らの吐息や涙も全ていま目の前で起こっているかのように錯覚する程完成されてて、あっという間に読み切ってしまいました。 一般的に想像するBL話と…
[良い点] 嫉妬を覚えるほど巧みな文章に、天才なのでは……と唸りました。 文学だな、と思いました。 [一言] 作品のどこを切り取って感想を述べたら良いか分かりません。 この小説は美しく完成されてしま…
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