諸人の上に、夜の帳が下りるように ③
わたしの術は、自分の周囲に防御障壁を張るというもの。
その障壁は可視化され、外側から見ると、暗い影のような衣が、わたしの周りに揺らめいているように見えるようだ。
わたし自身、良く理解はしていないが「暗く見える」ということは、陽の光なども障壁で弾き返しているのかも知れない。
いや、弾き返しているなら、水面が光を反射するように眩しく見えるはず。鏡じゃないなら、黒い布のような光を吸収する物なのかも……影の衣が何なのかは知らないが、始動鍵を唱えれば、わたしの望む効果を得られることは知っている。
わたしは、わたし自身にも良く分からない術を使っている。
けど、自分の強さは自分で分かる。
仮に、同時に始動鍵を唱え切ったならば、わたしの方がドミナより強い、はず。
ドミナには速さで敵わないだけだ……。
しかし、自分の遅さはどうもしようがない。
敵の襲来に備えて、事前に準備しておくことが出来ない。
ティトと出会う前、まだ関係が良好だった頃、ドミナが〈騎士詠法〉という技を教えてやる、と言ったことがある。
その時、わたしは断った。わたしは普通の人に比べて、あまり時間が無い。
「楽園の鍵を持つ人を探す」という目標を目指すにあたって、他のことにかまけている時間は無駄と思ったからだった。
今となっては、断っていて良かったと思う。
実際、わたしが〈騎士詠法〉の練習に専念していたら、ティトやフォスファーと出会う機会は失われていたのかも知れない。
それに、ドミナが本当に教えようとしてくれていたのかも疑わしい……わたしを目の届く所に置いておく時間を増やしたかったのではないか……今ではそう思う。
◆◇◆
「《極光の衣纏いて来たれ》――」
果たして今、突進してくるベルガを見据え、わたしは小さく始動鍵を唱える。
術は唱え終わった時に発動するので、間合いは近すぎても遠すぎてもいけない。
十分な距離で迎え撃つ。
わたしを捕らえようとする瞬間に障壁を展開、それをベルガに当てる。
本来は自分の身を守るためだけに使う障壁だが、動くものに狙いを澄まして当てようとするのは、今回が初めて。
でも、たぶん当てられる。
かつてなく集中できている。集中を切らさなければ、術は必ず発動する。
しかし、
「キル公―――――っ!!」
「……!?」
ベルガが己の頭上で縄状の何かを振り回し始めたので、少しだけ動揺する。
わたしを拘束するためのロープを誇示して、怯ませようとしているのか。
ロープの両端には重りが付いているようだ。
でも、あのロープは人を縛るのには短すぎるのでは……。
詠唱を継続するか。逃げるか……継続……。
ほんの一呼吸の逡巡の直後、両端に重りを結ばれたロープは投げ放たれ、わたしの両足に巻き付いた。
そうやって使うのか――ということを理解した時には、すでに手遅れだった。
たまらず、その場に尻もちをついたわたしに、ベルガが両手を突き出して捕らえようと迫って来る。
「キル公、お前の弱点はドミナさんから聞いてるぜ! 集中力が足りねえ、遠くから物を投げつけりゃあ、詠唱を途切らせることが出来るってなあ!」
捕まって口をふさがれたら、もはや抵抗する術は無い。
わたしは努めて冷静に、刃先の欠けたナイフを取り出して、足に巻き付いたロープを切断しようとする。
冷静に……まだ間に合う。拘束を解いてから詠唱の続きを。違う。詠唱を終えて障壁の術を完成させてから、落ち着いて次の行動に移るべき。
ああ……、もう冷静じゃない。
頭では、先に障壁を作ってベルガを阻むのが正解と分かっている。
なのに、わたしは歯を食いしばり、涙を浮かべながら、躍起になってロープを切ろうとしていた。
――ばつん。
という音がして、やっと両足が自由になるのを感じた。
そして顔を上げた瞬間、視界を覆う、大きな両の手の平。
捕まる……間に合わなかった。ティト……――――。
◆◇◆
来たる瞬間を覚悟して、固く瞼を閉じたわたしだったが、その瞬間が訪れることは無かった。
代わりに、聞こえたのはベルガの動揺する声。
「うおおぉっ!?」
「――……?」
眼を開けると、今にもわたしを捕らえようとしていたベルガの手に、栗色の毛玉が喰い付いていた。
(――フォスファー!)
どうして此処に……わたしもティトのことも見捨てて、何処かへ行ってしまったと思っていたのに。
わたしと協力せず、独りでティトを探していたというなら分かる。
けれど、どうして偶然ここに現れて、嫌っていたわたしを救ってくれたのだ?
決まっている。偶然ではなかった。
フォスファーは、ティトを探していたのではなく、わたしを追けていたのだ。
「フォスファー!? お前……ティトにだけ懐いてたんじゃねえのか!」
ベルガが腕を振り払うと、フォスファーはあっけなく牙を離して地面に転がった。しかし、すぐさま身を起こし、
「わう!」
一声吠えると、わたしを置き去りにして駆け去っていく。
わたしも立ち上がりフォスファーを追うが、ぐんぐん引き離される。
背後からは、動揺から立ち返ったベルガが追って来ている気配を感じる。いずれ追い付かれるので、どこかで迎え撃たなくてはいけない。
走りながらでも始動鍵を唱えられるか。
無理だ。無理でもやるしかない。
「《極光の衣纏いて来たれ》――!」
「さっき言ったぞッ! お前の弱点は――!」
ベルガがまた何か投げつけてくる気配を感じ、わたしは逃走経路を真っ直ぐから斜めに変更する。
最短で、路地の曲がり角を目指す。塀の向こうに身を隠せば、少なくとも数秒の時間は稼げる。
走るわたしの真横に、どしゃっと重い音を立てて砂袋が着弾した。
たぶん、あのロープの両端に結ばれていた重りの正体だろう。ベルガが拾って来ていたのだ。だとすれば、もう一発あるはず。
もう、フォスファーの背中は見えない。
後ろを振り返っていないが、ベルガとの距離は縮まっていない。おそらく、次弾を確実に当てるために狙いを定めている。
こっちは不規則に走行しながら、同時に〈精霊法〉の詠唱をするような集中力は持ち合わせていない。
次の瞬間、膝の裏に強い衝撃を受けて、わたしは前のめりに転んだ。
二つ目の砂袋の投擲が、わたしの足をかすめたのだ。
フォスファーは近くに居ない。今度こそ逃げられない。
……でも、これで良い。
◆◇◆
生まれ落ちて、自分が何者であるかを知った時から、幾度も精霊に祈った。
「どうか、わたしをお救いください」と。
祈るばかりだった。
今日、この時、初めて感謝する。
わたしを、わたしとティトを、フォスファーに出会わせてくれてありがとう。
フォスファーが居なければ、わたしはティトを失っていた。
そして今――、精霊よ。
わたしの心に剣を与えてください。
◆◇◆
転んだわたしを、ベルガは捕らえに来る。
詠唱は途切れた。〈精霊法〉が使えなければ、ただの子供に過ぎない。
近寄って、しゃがんで、両腕を伸ばして――。
――わたしは起き上がった。
起き上がりざま剣を突き出した。
ティトとフォスファーと暮らした橋の下の家で、皆の糧を切り分けるために使った、刃先の欠けたナイフを、武器として突き出した。
転びながらも、狙いは定めていた。
しゃがんで、両手でわたしを捕まえようとしたら、頸はどの辺りにあるだろう、ということを想像していた。
その想像の位置にあるベルガの頸に、ナイフを突き出した。
「おおっ?」
ベルガは、捕まえようとする手を引っ込めて仰け反った。
手応えは無かった。刃が当たったのかどうか分からなかった。
わたしが〈精霊法〉を使う、その対策を立てて追い詰めたベルガには、まさか刃物を使われるなんて思いもしなかっただろう。
ざまあみろ……、そんなこと、思えなかった。
◆◇◆
「お……、」
ベルガは、ゆっくりと左手で自分の頸を押さえた。
ずしゃ、とその場に膝をつき、砂埃が舞う。
押さえた指の間から、しゅしゅ、と勢いよく血しぶきが飛び、それはわたしの服も赤く染めた。
フォスファーを追いかけて、ティトを救いに行かなければ……と思いつつ、わたしはナイフを握ったまま動けなくなっていた。
彼は死ぬ。私が殺した……分かってたけど、わたしが……。
「キ、ル公……」
固まっているわたしの眼前で、ベルガは微笑んだ。
途方に暮れているような、救われているような、奇妙な笑みだった。
頸元を押さえていた手を離し、ナイフを握り締めたわたしの手を取る。
強張ったわたしの指を、一本一本、ナイフから剥がしながら、ベルガは言った。
頸から吹き出し続ける血はそのままに。
「きれいな手が、汚れちまった……おお、かわいそうに」
ナイフが、足下に落ちる。
ベルガは微笑んでいた。微笑んだまま、永遠に止まっていた。
「………………」
わたしは、ナイフを拾い上げた。
手が血に塗れて滑ったが、それでもしっかりと柄を握る。
ティト、フォスファー……待ってて。




