諸人の上に、夜の帳が下りるように ①
――故郷の風の匂いがした。
スカヴィンズ州の北方に連なる白き峰、境界山脈。
いと高き山頂より吹き降ろされる風。
石を積み、風よけの垣をこさえて、ティトの両親は畑を耕していた。
寒さに強い、燕麦や蕎麦の実を植えて――。
ティトは、麦わらを敷き詰めたベッドの上で、麻のシーツに顔を埋めている自分に気が付いた。どうやら眠っていたらしい。
(ああ。帰って来たんだ……)
開け放たれた窓から吹き込む、冷涼な風。
父は山羊に草を食べさせるために、柵を開ける。
母は朝餉の準備をするために、納屋から少しの野菜を取ってくる。
ティトの役目は、桶を持って近くの小川から水を汲んでくること。
でも、今日くらいはちょっと寝過ごしても良いでしょう?
あんなに大変な冒険をして、ようやく帰って来られたんだから……。
寝坊に呆れた母さんが起こしに来てくれるまで、心配した父さんが様子を見に来てくれるまで……眠ったふりをしていても良いでしょう?
だってね、すごく、怖くて寂しかったんだよ。
でも一人じゃなかった。勇気を貰ったんだ。
トゥールキルデ。あたいの大事な友達。誰よりも強くて優しいんだ。我儘なとこもあるけど。
それに、フォスファー。とても賢くて、この子のおかげで危険を逃れることが出来た。父さんと母さんに、友達を紹介しなくてはいけない。そろそろ起きなくちゃ……。
――ティト。起きなさい、ティト。
――目を覚ましなさい、ティト。
父さんと母さんが、あたいのことを呼んでいる。起こしに来てくれたんだ。
でも、いやだな。二人ともあたいの名前、忘れちゃったの?
あたいは「ティト」なんて名前じゃないよ。
二人が付けてくれた、素敵な名前があるんだから。
あたいは「ティト」じゃないんだよ。あたいの本当の名前は――。
◆◇◆
「――…………。ん、う?」
目を覚ますと、全く見覚えのない天井があった。
ティトは身を起こそうとしたが、両腕が背中側に縛られていた。両足も。
何とか、せめて上半身だけでも起こそうと奮闘していると、暗がりの向こうから声をかけられる。
「目が覚めたか? 身体は何ともないようだな。良かった」
ドミナの声だった。
小さな火が灯り、彼女の姿を照らし出す。
彼女は卓上のランプの火屋を開け、中に火を移した。暗がりだった場所がランプの灯で照らされると、そこはティトが知らない家だった。
それにしても自分の意識を失わせ、こんな風に拘束しておいて「良かった」とは……。ドミナは、ティトの目線で察したかのように答える。
「ベルガが無茶をして、お前を殺してしまわないかと心配していた。ティト、お前はただの子供だが、トゥールキルデを制御するための駒にはなる」
「なんで……トゥールキルデを」
「あの子は『眼が痛い』と言っていたろう。あれは病気だ。前々からそうだと思っていた……身体の一部が変異する……症状の出方は違うが、イスカルデ陛下と同じ希少な病気なのだ。だから、あの子は絶対に手放せない」
言っていることは、あまり良く理解できないが、まるでトゥールキルデの人格を無視して、その病気の症例を観察したいから……そのためだけに手元に置いているように聞こえる。
同時に、やっぱりトゥールキルデは病気だったのか、とも思う。
あの子の眼……魔物みたいに金色に濁った眼。
イスカルデというのは、先代の女王様の名前。その人が亡くなって、今代のアーベルティナ様が即位したという事は知っている。
先代女王のイスカルデ様と、トゥールキルデが同じ病気。
「ベルガがお前を壊してしまわなくて、良かった……」
「ベルガ……?」
そういえば、ベルガが居ない。
いつもドミナの傍に侍って、従者のように仕えているのに。
ティト自身、彼によって意識を失わせられたのだ。
「あれも、哀れな男だ」
ドミナは長い筒のような物を取り出すと、ランプの火屋を開けて、筒の膨らんだ先端に火を付ける。
何をしているのかと思って見ていると、ドミナは筒の逆の先端に口を付けて、中の煙を吸い始めた。
深呼吸するように長く吸うと、今度は口からふーっと煙を吐き出す。
あまりにも見慣れない光景に言葉を失っていると、ドミナは筒を片手に、おどけた口調で言う。
「……煙たかったか? すまないな。これも薬だ。ある薬草を発酵させ、乾燥させたものに火を点けて、煙を吸うのだ……心を落ち着かせる効果が強いというから、私はたまにこれをやるんだ。抜群に効く……」
効果の強い薬草というのは副作用もあるものだし、こいつの煙は、特に子供にとって害があると言われるから、トゥールキルデの前ではやらなかったのだがな。
そう、ドミナは言う。
煙たいのはその通りだが、今は別に問い詰めたいことがある。
「ベルガは、どこに行ったの……?」
「トゥールキルデを説得に行くそうだ。薬草園に。あそこで待ち構えれば、トゥールキルデは来るだろう。あの子にはそれしか手段が無いからな。『魔樹』を質に取って、ティト、お前との身柄交換を要求する――それしか」
「せっ、とく……?」
「お前を見捨てて今まで通り私に協力するか、私に敵対し打ちのめされて隷属するか……二つに一つだ。ベルガのことだから、少しは穏やかに話すだろうが、選択肢は変わらない」
どうやって、トゥールキルデを〈影迷街〉に拘束し、自分の支配下に置くか。
それがドミナの目的。最終目標は「イスカルデ前陛下の病気の治療」なのだろうが、そのためにこそ、トゥールキルデを必要としている。
「ベルガは哀れな男だ。あいつは元々私の部下だったのではない。ここ〈影迷街〉で知り合ったのだ……違法商隊の、護衛か何かだったらしい」
ドミナはまた、煙を一息吸い込み、吐き出した。
「あいつには、人殺しをしなくては気が済まない性がある。とりわけ、子供を殺さずにはいられないようだ……普段、衝動を抑えようとはしているようだが」
「『ネエちゃん』って子は……」
「想像通り死んでいるよ。ベルガがばらして、死にかけだったその子は『魔樹』の養分になった。ばらした残骸も根元に撒かれたから、今頃は『魔樹』の一部かな」
やっぱり、死んでいた。それも想像を絶するほどの残酷な過程を経て。
次に「ネエちゃん」を心配していたあの子に会ったら、何て答えよう。
それよりも先に、ティト自身が同じ運命を辿るのかも知れない。
「ベルガは、そんな取り返しの付かないことを繰り返しながら、その都度、後悔しているのだ。自分が無惨に殺した死体を前に『おお、かわいそうに』とね。なんと愚かで哀れな男だろう」
「…………。ならなんで、ベルガを成敗しないの?」
◆◇◆
ドミナは煙を吸いながら、薄く目を細めて笑った。
「使えるからだよ。私はあいつを救ってやったのだ。悩みを取り除いてやった……人を殺さねばならぬ性を肯定してやったのだ」
「……意味が分からない」
「『自分が人を殺すのは仕方のないことなんだ、必要なことなんだ』と思える理由を、あいつに与えてやった。イスカルデ様の病を治す研究に『魔樹』は重要な検体だ――アレを生かすためには、生餌が必要だった」
この〈影迷街〉には、要らなくなった子供がいくらでも運ばれて来る。
本来、アーベルティナなどではなく、イスカルデ様が治めているべき都で、そのような悪徳が蔓延っているのは許せない。
だから、逗留している違法商隊を気まぐれに撃滅したりはする。
同時に「魔樹」には生餌が必要だから、助けてやった対価として、商品だった子供を少しばかり頂戴して、ベルガの欲求を満たすと同時に「魔樹」の養分とする。
イスカルデ様の病を治すための、研究の犠牲だから。
野垂れ死ぬよりは、こっちの方がまだ、有意義な生命の使い方ではないか。
「どうせ生き続けていても、ロクな運命が待ち受けていない子供たちだったのだから……良いんじゃないか? 良いだろう?」
「――なんでおまえが決めるんだっ!」
ティトは叫んでいた。
こいつは――ドミナは、真の邪悪。
魔物を上回る力を持ち、魔物よりも悪知恵が働き、魔物をも利用する。
善き人のような顔を装って、多くの人を不幸に陥れる、魔物より恐ろしい人間。




