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遭遇する

 南の森付近で荷馬車を降ろしてもらい、お礼を言っておじいさんと別れた。

 荷馬車がゴトゴトと牛乳缶を揺らしながら轍を進んで行くのをしばし見送り、コーリーは南の森へと向き直った。

 予定よりいくらか早く到着出来たのは、思いがけない良い誤算だった。


 ……よし、行こう。

 コーリーは森の中へ足を踏み入れた。



     ◆◇◆



 森の中はコーリーの腰ほども高さがある下草に覆われ、獣道と呼べるものすら無い。コーリーは抜き放った短刀で草を切り払い、固い茎を踏みつけながら進まねばならなかった。

 ……というようなことを覚悟していたが、まだ五月の半ば。草の背も低く柔らかい。どんどん進むことが出来る。道行きに食べ頃の山菜がたくさん芽吹いているのを発見し、思わず飛び付きそうになったが、首を振って自制した。


 今は依頼のホタルヤドリタケが最優先だ。でも今後のために場所は覚えておこう。

 しかし、「今年は出が早い」とはいっても早すぎる。

 コーリーの記憶では、ホタルヤドリタケというキノコは、今よりもっと夏が差し迫った時期、森の中に羽虫がワッと湧き出すような季節に、そいつらを払いながら見物にいくような代物だった。


 本当に今、この森に生えているのだろうか?

 依頼書によれば、七日前に少し深く分け入った所で小規模の群生地が発見された。キノコの発生が七日前ならば、現在は群生地が広く拡大しているはずだという。暗い森の中で発光するキノコだから近付けばすぐに分かる、という内容だった。


 森に分け入ってから、すでに一時間ほど経つ――一時間くらいの気がする。

 不安に思って後ろを振り返っても、前方と変わらぬ木々が立ち並ぶ風景が広がるだけ。


 コーリーは迷わないように、一定の歩数ごとに木の幹に紐を結んできた。結び目が森の出口の方を向くように工夫した。しかし、夕暮れが過ぎて暗くなったら、その目印を見つけること自体が困難になるだろう。


 頭上を見上げると、木々の梢の隙間から青空が見えた。

 青空がある。ということは、まだ昼間だ。まだ探索を続けられる。

 森に入ったのがおそらく中天の刻より少し前だ。これから見つけたホタルヤドリタケを採取して、帰りの行程も考えると、探索を続けられるのはあと一時間程度。


 ……たった、一時間だけ。


 コーリーは自分の経験不足による失敗を悔やんだ。

 何があるか分からないのだから、もっと十全に準備すべきだった。南門から近い採取場だからといって、お弁当だけで安心せず、野営の支度も整えて、油断なく取り組むべきだった。だが悔やんでも今回の失敗は取り返せない。


 とにかくあと一時間だ。森では太陽の位置を確認できないので感覚に頼るしかないが、一時間したら探索を切り上げる。

 そう自分に言い聞かせながら、近くの太く目立つ木の幹に紐を結び付けた

 軽く汗ばんでいるのを感じた。


(暑い……)


 いや、焦っているのかも知れない――でも、大丈夫だ。

 探索時間の見積もりは誤ったが、すべきことは変わらない。

 元々、探索が失敗に終わりホタルヤドリタケが見つからないという事態まで想定していた。基本方針は安全第一。キノコを見つけても見つけられなくても、晩の刻の鐘が鳴るまでは街に帰れるように行動するのだ。大丈夫……。


 次第に森は深くなり、自分が真っ直ぐに進んでいるのかさえ怪しくなる。

 また、手近な木の幹に目印の紐を結ぶ。

 樹上からは細く陽の光が差しているので、まだ昼だということは分かる。


 いつのまにか、地面は堆積した落ち葉でふかふかとしていた。人の手が入っていない森の奥である証だ。

 コーリーはリュックからオイルランプを取り出し、マッチを擦って灯を点した。

 煤も汚れも無い真新しい火屋の中で炎が揺らめき、森の暗闇を照らす。


 火か光の精霊法をせめて初級まで修めていれば、オイルランプを用立てる必要は無かったのだが、コーリーには火と光の精霊法を扱う才が無かったので仕方がない。

 ともあれ灯りのおかげで、コーリーはいくらかの安心を得た。


 ――思い出の故郷の森で、マリナ姉さんに手を引かれ故郷の森を探索した時には、こんな不安を感じることは無かった。あの時はもっと夏に近かった。慣れ親しんだ故郷の森とはいえ、今のこの森よりずっと緑が濃く、闇は深かったはずだ。なのにマリナ姉さんは、コーリーの手を握り、頼もしく迷いなく森を突き進んで行ったのだ――。


 そうして故郷の家族に想いを巡らせていたその時、視界が開けた。



     ◆◇◆



 そこは大きな朽木が横たわり、広場のようになっている場所だった。

 幾重にも折り重なった樹木の梢の隙間から、陽光が幾筋も降り注いでいる。

 そして、幾星霜も木々が葉を落として養った、その苗床には。

 淡い緑色の光を宿すキノコが、数え切れないほどに群生していた。


(きれい……)


 コーリーは依頼の事も、時間の事も忘れてそう思った。

 樹上から差し込む陽光と、地上のキノコが宿す淡い光とが、その光景を作り出していた。


 ざくっと一歩踏み入ると、ホタルヤドリタケは傘を開いて無数の胞子を飛ばす。その胞子もまた淡い緑色の光を宿しているので、まるで冬の月夜の粉雪のようにコーリーの周囲を舞うのだった。


 美しい光景だったが、いつまでも森とキノコが織り成す美景に酔いしれているわけにはいかない。コーリーはオイルランプを木の根元に置いた。ここが群生地の入口だ。

 採取を終えて帰る時にはこのランプのオレンジ色の光を目印にしよう。


 リュックから折り畳んだ布袋を取り出し、採取を始める。

 ナイフを抜き、ホタルヤドリタケを石づきから切り取った。


 採取したホタルヤドリタケを見分してみる。切り取った後も淡い発光を続けていたが、やがて発光は断続的になり、そして消えた。白っぽいただのキノコになった。

 傘から飛び出した胞子は発光を続けるくせに、本体のキノコは地面から離れたくらいですぐに光るのを止めるのは何故なんだろう……。 


 コーリーは光るキノコの不思議について考えつつ、次々と切り取り、袋の中に詰めていった。ホタルヤドリタケの良し悪しは分からなかったが、あまり傷が付いておらず傘の開き切っていないみずみずしいものを選んでいった。


 慣れてしまうと単純な作業だった。何しろ辺り一面キノコ畑なので、やっていることは採取というより収穫に近い。軽快にキノコを袋の中に放り込んでいると、程なくして袋の八分目くらいまでの量が集まった。持ち上げてみると、ずっしりとした重みを感じる。少なくとも目標の一貫目は超えている。

 コーリーは一息ついてぐっと背筋を伸ばした。背後を見ると、目印に置いたランプの灯が歩いてきた仄暗い暗い森の道を示している。


(……これくらいでいいかな。もう帰ろう)


 経験の無さと見通しの甘さから不安に見舞われてしまったが、結果としてはこうして十分な量のホタルヤドリタケを採取することができた。

 反省しなければいけない部分は多々あるが、依頼は成功だ。


 報酬の銀貨一五枚のことを考えると、肩にかかる袋の重さも、これから辿る帰り道の苦労も忘れられた。自然と頬がゆるむ。


 まず新しい服が欲しい。

 冒険の際に着用する丈夫な生地の服と、街で過ごす時に着る普段着は絶対に必要だ。


 それに宿の部屋に大きくなくても良いから姿見が欲しい。

 あとはそう、インクと便箋。


 あぁ、でも学生を辞めて冒険者になったことを、マリナ姉さんにどう伝えればいいだろう。もう少し生活が落ち着いてからの方が心配させずに済むかも知れない……。



 ――――ごりっ。



 奇妙な音が聞こえた。

 広場の大きな朽木の向こう側。コーリーからは死角となっている場所から。

 コーリーは足を止め、息を潜めた。


 獣か。森の奥なのだからいてもおかしくはない。狐や鹿なら良いが、熊やイノシシだったらちょっと不味いことになる。

 腰の短刀の柄に手をやりながら慎重に朽木を回り込んでいく。足音を忍ばせているのに、一歩ごとにホタルヤドリタケの光の胞子が湧き立ってしまうのがもどかしい。



 ――――ぼきっ、ごりっ。



 朽木の影からそうっと様子を窺えば、はたしてそこには二頭の獣がいた。

 一頭はイノシシ。体重でコーリーの倍以上はありそうな立派なイノシシだ。地に横たわっており、その眼は何処も見つめていない。すでに死んでいた。


 そしてもう一頭は……イノシシの死骸の腹部に顔を埋め、その内臓を貪っていた。

 そいつは、熊でも狼でもなかった。


(…………鹿?)


 身体の輪郭だけならば鹿に見える。角が無いので、雌鹿だ。

 全身が黒い。暗がりで黒く見えるのではなく、漆黒の毛皮を纏った雌鹿だった。


 ぼきっごりっと耳障りな音が鳴る度に、哀れなイノシシの骸が揺さぶられ、開いた口から血の泡がどろりと流れ出てきていた。

 鹿が、イノシシの肉と骨を食んでいる。


 コーリーは猛烈な吐き気に襲われた。一刻も早くここを離れなければならないと思った。

 アレは良くないものだ。見てはならない、近付いてはならない、触れることを精霊はおゆるしにならない……そうだ、脱兎の如く駆け去るべし。

 コーリーが後ずさると同時、黒い雌鹿が顔を上げた。


「あっ……」


 コーリーは見てしまった。禍々しく光を放つ、その濁った金の双眸を。


 元来、鹿の両目は、牛や馬に比べると顔の正面寄りに付いている。見晴らしが良く障害物が少ない草原で広範囲に警戒する牛や馬。対して見通しの悪い森林で暮らす鹿。鹿にとっては視野の広さよりも、天敵に出くわして逃走する際の障害物との距離感の方が重要だからだ。


 だが、この黒い雌鹿の両目は普通の鹿以上にぎゅっと顔の正面に寄っていた。猫を思わせる。瞬きもしないその両目がじっとコーリーを捉えている。イノシシの血で濡れそぼった顎が、がぱりと開いた。何列にも並んだギザギザの乱杭歯がのぞく。


「…………っ!!」


 嫌な予感が背筋を駆け抜け、コーリーは横っ飛びに朽木の影に隠れる。


 ぼごぉっ!


 頭上で朽木が爆ぜた。いや、「何か」が朽木を貫通してコーリーを狙ってきたのだ。それが何なのか確認する間もなく、二発目が顔のすぐ前を通り過ぎ、奥の立ち木の表皮を弾けさせた。


「ひっ、ひ」


 悲鳴にすらならない声が、コーリーの喉から漏れ出た。

 怖い。目を閉じて頭を抱えて、この場にうずくまりたい。


 だが、そうすれば朽木ごと穴だらけにされてしまう。

 だったらどうする。戦う? アレと?


(そんなの無理だよ……!)


 諦めかけたとき、頭の中を何人かの顔がよぎって行った。

 マシェルとミオリ、〈しまふくろう亭〉の兄妹。〈学びの塔〉で過ごした友人たち。レノラ。父さんと母さん……マリナ姉さん。


 それで肚を決めた、と言えるほどコーリーは強くなかった。でも、恐怖に震えて萎えた両足をもう一度動かす力にはなった。

 前に倒れ込んだコーリーの背中をかすめて、三発目の「何か」が通過した。


 背負っていたリュックが弾け飛び、中の荷物も、採取したホタルヤドリタケも地面に散らばってしまう。

 コーリーは構わずに立ち上がり、走り出した。

 朽木は盾にならない。足を止めて縮こまっていたら一撃で殺されてしまう。朽木の影から飛び出し、弧を描くように広場の縁へ。黒い雌鹿から一番遠い位置へ。


 ばしぃっ!


 走り抜けるコーリーの背後で樹木の皮が弾ける。的を絞り切れていない。直線で逃げていたら当たっていた。弧を描く逃走経路が功を奏した。おまけに、朽木を貫通する攻撃の正体が分かった。

 舌だ。

 黒い雌鹿は蛙のように高速で伸縮する舌を使ってコーリーを狙っているのだった。


「鹿のくせに!」


 苦し紛れに悪態をつくコーリーに対し、黒い雌鹿はがぱりと口を開けて応える。


「くぅっ!」


 飛び退いたコーリーがいた場所を、分銅の付いた鞭のような舌の一撃が抉った。キノコの残骸と光の胞子が撒き散らされる。

 口が開くのを見てから避けても間に合う。なら……なら、このまま森の中に飛び込んで、木々を盾にして逃げた方が良いのでは?

 

 そもそも、アレは獲物のイノシシを守っているだけなのでは。逃げても追っては来ないかもしれない……希望的観測にすがりつきたくなる。


 黒い雌鹿が、静かにコーリーを見ている。

 逃げたければお逃げなさい、そう言っているようにも思える……。


(逃がしてくれるなら……)


 コーリーは、ちらっと逃げ込もうとしている木立を見やった。

 瞬間、黒い雌鹿の両目がきゅぅっと細められた。


コーリーの身体を怖気が走った。アレはそんな優しい生き物じゃない。


 黒い雌鹿は、相変わらずイノシシの死骸の近くに立ってこちらを見ている。

 最初からほとんど動いていない……コーリーが足場も見通しも悪い木々の中に逃げ込むのを待っているのだ。

 樹木の立ち並ぶ森林は鹿の独壇場だ。走ることもままならない森に逃げ込んだが最後、やすやすと追い付かれ餌食にされてしまうだろう。


「――《さかき小さきはやきもの》」


 今度こそ、覚悟を決める。

 コーリーは始動鍵を口にした。


 黒い雌鹿は、狙いを定めているのか様子を窺っているのか、こちらを見つめたまま動かない。好都合だ。こっちが森の中に逃げ込むか、あるいは、ヤケになってなりふり構わず近づいてくるのを待ってるんだろう。

 その油断した鼻っ面に、とっておきをお見舞いしてやる。


「《かそけき歌の運び手よ、集いてまゆの如くなれ》、」


 絶対に、生きて帰ってやる。


「――《弾けてつぶての如くなれ》!」


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