影迷街のティト ⑤
「――ふぁーふぁーふぁー♪」
「……う、うぅ」
どうにも寝苦しい……目を覚ますと、案の定、トゥールキルデが歌のような何かを口ずさんでいた。
寝ぼけ眼を擦りつつ、周囲をうかがう。
いつもの場所、川辺の葦原に隠された橋の下の家。すでに夜は白み始めていた。
ティトは出来るだけ早朝のうちに、炊事を済ませてしまうよう心掛けていた。
日中や夜間に焚き火を焚くと、大人に見つかり易くなる。
朝に作った食事を一日かけて食べるのだ。そうすれば昼と夜は焚き火を大きくしなくて済む。
普段なら、ティトがその日の食事の準備をし出してから、のそのそと起き出してくるのが常なのに、今日は珍しくトゥールキルデが早起きだ。
――こんな日は、トゥールキルデが「仕事」をしに行く日。
◆◇◆
ティトは、何度か同行を申し入れたが、トゥールキルデが首を縦に振ったことは今のところない。
後をつけても、たちまち感付かれて撒かれてしまう。
買い物に付き添うのは構わないが、「仕事」に付いてくるのは駄目だという。
理由を聞けば、
「おっさんが『誰にも言うな、オレたちだけの秘密だ』っていうから」
などと、あっけらかんと言うものだから、ティトはまたも不安になった。
何も知らないのを良いことに、金銭以外のものを搾取されているのでは。
「……おまえ、もしかして、やらしいことをして男を喜ばせて、お金稼いでるんじゃないよね?」
「やらしい……人が喜ぶこと? それってなに? すごく知りたい」
きらきらした目を向けてくるトゥールキルデを前に、ティトは真っ青になった。
言ってはいけないことを言ってしまった。
「……忘れて! 聞かなかったことにして! 中途半端に知識を仕入れて『変態が喜ぶ』って知ってしまったら、トゥールキルデは嬉々として身を投じてしまいそう! 不幸になっちゃう!」
「へんたいが喜ぶことに身を投じては、いけない……不幸になるから」
忘れたりはしないし、不幸にはなりたくないので心に留めておこうかな。
そうトゥールキルデが言ったので、ティトは胸を撫で下ろした。
お金も歌も文字も知らない。知らない尽くしの子だったが、物覚えが異常に良く、一度覚えたことは、教えたティト以上に上手くやる。
音痴だけは治らなかったが。
しかし、あまり身体を動かすことをともなわない「学び」――読み書き算数などには、ちっとも興味を示さない……それがトゥールキルデだった。
◆◇◆
トゥールキルデが早起きをしたある日、またあの犬が橋の下の家にやって来た。
前にベーコンの欠片を貰ったことを覚えていて、その記憶を頼りに、飢えを満たすためにティトたちの住処を訪れてみたのだろう。
この犬を受け入れ、飼い慣らすつもりがないのなら、情けをかけるのは返って酷というものだ。
ティトは犬を追い払おうとした。
「あっちに行って! おまえにあげられる物は無いんだから!」
犬は唸りながらそこを動こうとしない。
もしかして、飢えのあまり自分を襲おうとしているのかと、ティトは思った。
しかし、唸る犬の視線はティトではなく、ガラクタ箱にずっと注がれていた。
その箱は、普段使っている取っ手の無いフライパンや、刃先の欠けた包丁をしまっているもので、上に板を乗せるとテーブルの代わりにもなる、重宝していた木箱だった。
今、その箱の上には木のヘアブラシが置かれている。
トゥールキルデが、しまい忘れたのだ。
犬はヘアブラシを激しく警戒し、唸っているように思えた。
何か変な匂いでもしているのかな、とヘアブラシを手に取って嗅いでみるも、特に何も感じなかった……強いて言えば、古くなった油のような香りがしたが、それはそれ。川の水で身体を清めているような二人だから、仕方ない。
わん! と、犬は一声高く吠えた。
やっぱり、手にしているヘアブラシに注意を払っている……。
「……おまえ、トゥールキルデの匂いが分かるの?」
試しに訊ねてみると、犬は肯定するかのように、もう一度吠えた。
これは……使えるかもしれない。
勘の鋭いトゥールキルデに対して尾行は通用しない。しかし犬の嗅覚による追跡なら、いくらあの子だって、匂いという痕跡を消し去ることは出来ない……はず。
この犬は何故かトゥールキルデを嫌っていて、ティトにはベーコンを貰えることを期待している。
「……この匂いを追いかけること、できる? トゥールキルデ……あたいの友達なんだけど、物知らずだから悪い奴に利用されてるかもしれない。もっと酷いことをされてるかもしれない……守ったげないと」
「ぐるる……」
「もし、お前があの子を見つけてくれたら、ごはんをあげる」
「………………」
犬は、しばしヘアブラシを警戒していた様子だったが、やがて唸るのを止めてトコトコと何処かへと歩き出した。
今すぐに餌にありつけないと分かって、ティトに付き纏うのを諦めたのか。
所詮、犬は犬。言葉で心を通わせることなど出来はしないのだった。
落胆し肩を落としたティトだったが、犬は立ち止まり、振り返った。
『ついて来ないのか』
その眼差しが、そう語りかけているように思えた。




