影迷街のティト ④
――トゥールキルデは、読み書きがほとんど出来なかった。
発覚したのはある日、橋の下で料理をしていた時。
料理は専らティトの担当だった。
トゥールキルデに任せた日には、食材を火の中にくべるしか能が無いので、料理をはじめとした家事全般はティトが担うというのが、お互いにとって幸福な選択だった。
この頃、調味料がある程度は充実していた。
「トゥールキルデ、油取って!」
「どれ?」
「茶色い瓶のやつ!」
フライパンを片手に焚き火に向かうティトは、振り返らずに片手を背後に差し出した。
その手にオリーブオイルの瓶が手渡されるはずだったのだが、いつまでたっても手渡されない。このままでは、フライパンが加熱され過ぎてしまう。
背後を振り返ったティトが見たものは、二つの茶色い瓶を両手に持って、見比べながら悩んでいるトゥールキルデの姿だった。
「……何やってんの?」
「んー、……どっちが油?」
「ラベルに書いてあるじゃない。はやくはやく!」
急かすと、トゥールキルデは「ん」と片方の瓶を手渡してくる。
しかし、それはティトが要求するオリーブオイルの瓶ではなかった。
「それはお酢だよ! もうっ」
「だって、分からないし」
「だからここに書いて……え、」
きょとんと首を傾げるトールキルデを、ティトはまじまじと見つめた。
ティトは読み書きも、簡単な算術も出来る。奴隷商人らと行動を共にしていた頃、暇を見つけて学んでいたのだ。読み書きや算術が出来れば、少しはマシな所に売られるだろう。少なくとも魔物の餌にされることはない……そう考えて、必死に学んだ。
これは、デリケートな問題だ。発言如何によってトゥールキルデの心を傷付けるかも知れない。慎重に言葉を選んで尋ねなければいけない。
でもトゥールキルデには婉曲な言い回しは通用しない。結局、ティトは遠回しな言い方をせず真っ直ぐに質問をぶつけた。
「……字、読めないの?」
「うん」
トゥールキルデは恥じる様子でもなく、こくりと頷いた。
読めないんだ……。へぇ……。
お金のことを知らなかったのだから、字が読めなくても不思議ではない。
ティトは少し嬉しくなった。優越感ではない。
トゥールキルデが字を読めないことを良いことに、上手く利用してやろうと思ったのでもない。ただ嬉しくなったのだ。
トゥールキルデに出来ないことが、自分には出来る。
それが嬉しかった。お荷物じゃない。役に立ってちゃんと隣に立っている。
しかし、読み書き算術が出来なければ何かと不便も多かろうと、ティトはトゥールキルデの教師になることを申し入れた。
「あのさ、良ければあたい、読み書きとか算数を教えようか? いっつも二人いっしょにいるとは限らないし、覚えた方が――」
「! ……むぅ。………………」
トゥールキルデは……何というか「人間、言葉を発せずともこんなに不満を表明することが出来るんだな」としか形容できない表情をしていた。
この子は勉強するのがとても嫌いなんだ。
ティトだって勉強は好きではない。でも生きるためには……。
「油と酢くらいは読めた方が……」
「いいの。ティトが読んでくれるから」
「でも、あたいが居ない時に困るんじゃないの」
それでも、トゥールキルデは頑として字を学ぼうとはしなかった。
その内にティトも「まぁいいか」と思うようになった。トゥールキルデが出来ないことは全部ティトがやればいい。
あたいたち、二人で一人前なんだ。そんな風に思ってしまった。
◆◇◆
――トゥールキルデは、歌を知らなかった。
いつものように互いの髪を、木のヘアブラシで梳かしていた時、我知らずティトは故郷の歌を口ずさんでいた。
「……それなに?」
「なにって、歌だよ。あたいの知ってる歌」
「……ふぁーふぁーふぁー♪ るららら~♪」
トゥールキルデが唐突に歌い出す。ティトが歌っていたのを真似したようだが、ひどい音痴で、思わず吹き出してしまった。
違うよ、こうだよと、ティトは故郷の歌を教えた。
読み書き算術の勉強とは違い、トゥールキルデは歌の習得に熱心だった。
けれども、トゥールキルデが歌を完全にマスターすることはなかった……天性の音痴なのだった。
「ふぁーふぁーふぁー♪」
「ちがうっ! らぁーらーらー♪ だよっ」
「ふぁー?」
全然、習得してない。
ティトは何遍でも歌って聞かせた。練習してもトゥールキルデは全く上達しなかったが、それでも歌うことを愛した。
◆◇◆
――トゥールキルデは、犬という動物を知らなかった。
いつものように、取っ手の無いフライパンでベーコンを焼く。
トゥールキルデは、手伝いもせずに川辺の辺りをふらふらと散歩している。
このベーコンの塊が無くなったら、あの子はまた、何処かの誰かから「仕事」を請け負うのだろう。
自分自身と――ティトを養うために。
次にトゥールキルデがそこに向かう時には、自分も同行しようと決めていた。
美味しそうな匂いが焚き火の周囲に立ち込めた時、カサリと枯れ草を踏み分ける音が聞こえた。
ティトはぎょっとして、音のした方向を見る。
もし、足音を立てたのが人間の大人だったのなら、焼いている途中のベーコンを放置して、トゥールキルデと一緒に逃げる。いつだって、そう心に決めていて警戒心を絶やさなかった。
トゥールキルデは馬鹿で何を考えているか分からないが、見た目は麗しい――ように見える。輝く銀の髪と、井戸の底できらめく砂金のような、深い金色を帯びた瞳。
無法者がひしめく〈影迷街〉で、あの子が見つけられてしまったら、たちまち攫われてしまうだろう。
それに、あの子がしているという「仕事」……お金も文字も知らないあの子が、どんな仕事を出来るというのだろう。手先の器用さはティトより上だったが……。
何も知らないトゥールキルデに、誰かが無体な事をさせているのではないか、という懸念をティトは拭えないでいるのだった。
(トゥールキルデを、守ったげないと)
その決意を確認して立ち上がり、焚き火から駆け出したティトだったが、足音の主はそれを上回る速度で追い縋り、飛びついてくる。
「ぎゃっ」っと悲鳴を上げて倒れ込むと、追跡者はハッハッと生臭い息を吐きかけながら、顔をべろべろと舐め回してきた。
「な、何? …………犬?」
追跡者の正体は、野犬だった。
栗色の毛で、まだ若く、仔犬と成犬の中間くらいに見える。
押し退けて体勢を立て直し、改めて見やると、その犬は舌を出して息をしながら、こちらを見上げていた。
ベーコンの匂いに釣られてやって来たのだろうが、こんなに人懐こいということは、誰かに飼われていた犬なのだろうか。
向かって左の耳はぴんと立っているが、右の耳は折れて垂れ下がっている。
右の耳骨が砕けてしまっているのかも知れない。他の犬と喧嘩をしたか、別の生き物と争って負傷したのか……あるいは人間に殴られたか。
野犬は王都周辺では、他の地域に比べて極端に少ない――というようなことを、商隊で聞いた覚えがある。城壁の内側に住む人々は、人に危害を加える獣の存在を許さないと。
その時は、当たり前だな、自分だってそうするだろうな……と思っていたのに、今、いざこの野良犬を目の前にすると、憐みの気持ちの方が前に出て来てしまうのだった。
◆◇◆
焚き火に戻ると、火は消えておらず、ベーコンは焦げ気味だった。
「ほら、お食べ」
ティトがベーコンを切って欠片を放ってやると、犬はそれ一飲みにして「もっとくれ」と言いたげなキラキラした視線を寄越して、尻尾を振るのだった。
もったいないと思いつつ、いくつか欠片を放ると、犬は喜んで食べた。
試しに手の平に乗せてやると、やはり犬はティトの手から食べた。
手を噛んだりはしなかった――。
◆◇◆
「――なに、この生き物」
「えっ、犬だよ?」
「ティトが捕まえたの? 美味しいの?」
「……食べないよ?」
犬を見たことがないのか――そんな質問をするのが愚かに思えるほど、トゥールキルデは明らかに犬を知らない様子だった。初めて見る「犬」という生き物を慎重に、遠巻きに観察していた。
犬のほうも、ティトに甘えていたのが嘘のように、トゥールキルデに対しては警戒して「ぐるるる」と唸り声を漏らしている。
味のことなんて聞くものだから、食われるものかと抵抗しているのかと思いきや、犬はティトを背に、トゥールキルデを前にして激しく吠えはじめる。
まるで、トゥールキルデからティトを守ろうとしているかのように。
出会って間もないというのに、ずいぶんと片方は懐かれ、もう片方は嫌われたものだ。
ティトはこの犬を、追い払うべきか、橋の下で暮らす仲間として迎え入れるべきか、少し悩んだ。
食い扶持が増えるのは手痛い……。
でも、お金の価値を知らないトゥールキルデの買い物には、自分が付き添えば今までよりは出費をかなり抑えられる。それに、子供二人だけの生活に番犬が加わるというのは心強くもある。
なぜか、トゥールキルデを激しく嫌っているのは気に掛かるが……。
この犬と共に暮らすことを提案すると、トゥールキルデは反対した。
「絶対にいや。寝てる間に噛まれるかもしれない……見て、この牙。こんな生き物は見たこと無い。きょうあく」
「躾けたら良いんだよ。犬ってのは、人間に懐くんだから」
「しつけるって、どうするの? ……なつくって、どうなるの?」
「優しくしたげたら、この子もあたいたちに優しくしてくれるってこと」
そう言うと、一転、トゥールキルデは興味深げにしげしげと、唸り声を上げ続ける犬を見つめた。その栗色の毛並みを撫でようと、そっと手を伸ばす――。
――がちんっ!
あわや手を噛もうとした犬の顎が、打ち鳴らされる音が聞こえた。
勘の鋭いトゥールキルデは、すんでのところで手を引っ込めて難を逃れたようだ。
「ぐるる!」
「……やっぱり嫌! こんな危険な生き物!」
トゥールキルデは顔をしかめて立ち上がり、焚き火を離れて、また川辺の方へ歩いて行ってしまう。
あの子が居なくなってしまうと、犬はそれまで露わにしていた凶暴性をひそめて、ティトに対して尻尾を振り始めた。
(……なんなんだろう)
けれど、トゥールキルデと仲良くなれないのなら、この犬と共に暮らすことは出来ない。
突き放すしかない。
悪いけど……ベーコンの欠片を与えてやったのは間違いだった。
ごめんね、と告げると、その犬は言葉の意味を理解したのか、頭と尻尾を垂れて歩き去って行った。川辺とは別の方向に。
これっきり。
あの犬とは二度と会うこともない……と、この時は思った。




