影迷街のティト ②
「待ってて。ご飯を持ってくるから」
そう言い置いて、そいつはすたすたと歩き去ろうとした。
ティトは騙されなかった。
そうはいくか。そんなことを言って、そのまま逃げる気なのだろう。
「いいから、お魚返せっ! あたいのごはん!」
ティトは飛び掛かったが、そいつは軽やかな足さばきで回避し、逆にティトは無様に地面に転がるハメになった。
飛び起きて組み付こうとするも、ティトが体勢を立て直した時には、そいつの姿は消え失せていた。
何という素早さ。逃げられた……お魚……。
いよいよ空腹に耐えかねたティトは、追跡を諦めてその場にへたり込んだ。
運が無かった。今日のご飯は酸っぱい野イチゴが少しだけ。
「はぁ……」
溜め息を吐いて焚き火の方を見やったティトの眼に、見慣れない物が映った。
――木のヘアブラシ。
お魚泥棒のだ。馬鹿なやつ、忘れて行ったんだ。
預かっといてやろう。取り返そうとノコノコやって来たら、その時こそとっちめてやる。
ティトはヘアブラシを拾い上げ、値打ちがある物か検分した。
木材の種類は分からないが、白くて滑らかで、木目が美しかった。
装飾は一切なく、柄を握るとしっくりと手に馴染む、実用的なもの。
ためしに、自分の髪を櫛削ってみる。
手入れなんてしていない黒髪が、ヘアブラシに絡んでぎしっと音を立てたので、ティトは髪を梳かすのを止めた。
「さっきのあいつの髪、綺麗だったな……」
輝くような銀の髪。お話に出てくるお姫さまみたいな。それに比べて……。
また漏れ出そうになった溜め息を、ティトは飲み込んだ。
野イチゴを口に運び、酸っぱさに顔をしかめた。
◆◇◆
ティトは焚き火にあたって、少しウトウトした。
ぐっすり眠れることは無い。ティトのような子供が一人で橋の下に住んでいることが知れたら、たちまち、なけなしの財産は奪われ、最悪、ティトも「商品」にされてしまう。
変な奴らが周囲をうろつき始めたら、すぐにでもねぐらを変えようと決めていた。でも今日だけは、お腹が空いて、眠くて――。
――ぱきっ。
誰かが、乾いた葦の茎を踏んだ音がした。
瞬間、ティトは一気に覚醒して逃走体勢に入ろうとした。
そして、ねぐらに侵入した外敵の姿を目視し――ティトは逃走を取りやめた。
あいつがいた。
「おまえ、お魚泥棒っ!」
「ちがうよ。わたしはトゥールキルデ」
何か言ってる。
でも、おまえの名前なんか聞いちゃいないんだ。
ヘアブラシを忘れたことに気が付いて取りに来たのか。でもただで返すもんか。お魚を弁償してもらわないと……。
糾弾しようと口を開きかけたティトの眼前に、「ん」とお魚泥棒が何かを突き出してくる。紙に包まれているので、中身が何なのか分からない。
「……なにこれ」
「これは食べ物だよ、お魚をくれた人」
くれてやったんじゃない、勝手に盗られたんだ、と言いたくなるのを抑え、そのずしりとした包みを受け取り、開けてみる。
ティトは目を見開いた。
包みの中身は、厚切りの黒パンが三切れ。それに脂でつやつやしたベーコンが一塊。
こいつ――本当にご飯を持って来たのか。
ごくりと喉を鳴らし……同時に受け取ってはいけない物だと直感した。
「……いらない。盗んで来たんでしょ」
「盗みなんか、してない」
そいつ――トゥー……、何といったか――は、きょとんと首を傾げて言ったが、ティトには盗んだものとしか思えなかった。
第一、おまえは、あたいのお魚を盗ったじゃないか。
第二に、お魚を盗むやつが、パンとベーコンを買えるわけない。
「……盗んだんじゃない。貰ったの」
「貰った? ……そんなの信じられない」
そんな慈善家が近所にいるなら、とっくに住人たちがそこに列を成している。
疑いの目で睨んでいると、トゥー……何とかは、しゅんとして包みを引き取った。
ちょっと惜しいと思ったけど、盗んだ物なら受け取れない――これが真っ当な人間として正しい選択なのだ。
しかし、トゥール……何とかというやつは予想外の行動に出た。
「そう。仕方ない……ちょっと多いけど、わたし一人で食べる」
「えっ。盗んだ所に返すんじゃ……」
「盗んでないから返せない」
トゥール何とかはそう言うと、ベーコンの塊を丸ごと焚き火にくべようとする。
何を勝手に、人んちの焚き火に居座ろうとしているんだ。
というか……。
「ベーコンを薪みたいに火にくべちゃ駄目! もったいない!」
「ん?」
「ちゃんと切り分けて……壊れたフライパンを拾ってるから、それ使って焼こう……あぁもう、美味しそうだな!」
ティトは欲望に負けた。
ガラクタ箱から取り出した、取っ手の無いフライパンを焚き火に置いて、刃先の欠けた包丁で厚くスライスしたベーコンをその上に並べる。三切れの黒パンも焚き火の近くに置いて温める。
じゅうじゅう音を立てて、溶けだしたベーコンの脂がぱちっと跳ねて、焚き火に焦がされて煙になった。
たまらなく美味しそうな匂いが周囲に立ち込める。
焼き上がった端から、二人は食べまくった。
ティトの舌の上に、ベーコンの旨みがいっぱいに広がる。こんなに塩気の利いた食べ物を口にするのは、いつぶりのことだろうか。涙が出るほど美味しかった。
三切れあった黒パンは、最後の一つを半分ずつにした。フライパンに残った脂もパンで拭って食べる。
やがてお腹がいっぱいになり、焚き火の炎が小さくなった頃、ティトは言った。
「……おまえ、何て言うんだっけ」
「わたし、トゥールキルデ」
「ふーん。あたいは、サ、――……」
ティトは両親に与えられた名前を口にしようとして、止めた。
その名前を呼ばれるのは嫌だと思った。その名で呼ばれると、優しいと信じていた、あの頃の両親のことを思い出さずにはいられなかったから。
「……あたいは、ティト」
「そう。よろしく、ティト」
何がよろしくなんだか。
もしかしてこいつ、ずっとここに居座るつもりなんじゃないだろうな……。
そのティトの懸念は、現実のものとなった。
◆◇◆
トゥールキルデは、図々しくティトと同じ石橋の下に住み始めた。
ひどく無口で、料理洗濯などは一切せず、ティトが用意した簡素な食事を食べては「味が薄い」と文句を言った。その度にティトは教育的指導を施した。
ある日「ちょっとは働け」と魚捕りの仕掛けの作り方を教えると、見ただけなのに、ティトが作ったのより上手な仕掛けを作って見せた。
そういうところがまた、腹ただしい。
おまけに、トゥールキルデは毎日お風呂に入りたがった。
「そんなものは無い」と告げると、トゥールキルデは悲しそうな顔をした後、川の水を絞った布で身体を拭くのだった。毎日……。
これに関しては見習おうと思った。身体を清潔にするのは健康につながる。健康であればより良く生きられる――。
「――これは、トゥールキルデが正しかったと思う」
「ん、最初に会った時のティトは、ちょっと臭かった」
「っ! ………………」
赤面したティトは、無言でトゥールキルデの脳天に手刀を振り下ろした。
失礼で面倒くさくて、何を考えてるのか分からないやつ。
それでもなぜか、追い出す気にはならなかった。
◆◇◆
トゥールキルデは、度々何処かへと出かけた。
そしてその都度、上等な食べ物を――初めて会った時のようなパンやベーコン、果物、時には銅貨を持ち帰って来た。
王都周辺では貴重なオレンジを持ち帰った時、ティトは問い詰めた。
「オレンジなんて、南のベーンブル州からの商隊でないと王都には持ち込めない。買おうと思ったら値が張るはずだよ。正直に言って。……盗んだの?」
「盗んでない。貰ったの」
「こんなもの、タダでくれるはずないじゃない」
問い詰めても、トゥールキルデは必ず「盗んでない」の一点張りで、話にならないのだった。
――ティトは葛藤した。
トゥールキルデは盗みを働いているに違いない。盗んだ物を施されるなんて信条に反する。ティトは、誰に恥じることなく生きていきたいのだから。
一方で、トゥールキルデを咎めながらも「盗んでない」と言われれば、深くは追及しないティトが確かにいた。
トゥールキルデが持ち帰る滋養のある食べ物は、育ち盛りの二人にとって必要なものだった。パンや肉や果実のうまさを知ってしまったら、どうして元の、野草や雑魚を少しの塩で味付けしただけのものを食べる、貧しい暮らしに戻れるだろう。
「盗んでない。貰ったの」という言葉を信じていたのではない。
咎めつつも追及はしないことで、ティトは防壁を作っていたのだった。
トゥールキルデがそう言ったんだから仕方ない。それが本当に盗まれた物だなんて知らなかった。だから自分は悪くない、汚れてない……誰に恥じることもない。
それが欺瞞だということは、分かり切っていた。
ティトは悩みに悩んだ。
美味しい物が食べられなくなるというだけではなく、罪が明らかになれば償わなければならない。
トゥールキルデともども、棒や鞭で叩かれるかも知れない。身柄を売り払われる――ということは王都では無いと思いたいが、ここは城壁外なので分からない。
罪を償うことは恐怖だった。でも……。
誇りと保身を天秤に掛け――ティトは決断した。
トゥールキルデに盗みを止めさせよう。
その結果どうなろうとも、仮にトゥールキルデに恨まれようとも、二人で償おうと。




