姿なき人狼 ⑯
翌日。
ギルド会館二階、会議室。
これで三度目の来訪だった。
コーリーは樫材の二枚扉の前に立ち、すーはーと深呼吸をし、胸の前で拳を握って「よしっ」と小さく呟いた。
扉に掌を押し当て、ほんの少し体重を預ければ、あとは自然に開く――のだが、緊張でどうしても足が竦んでしまう。
もし、人狼の話を信じてもらえなかったらどうしよう。
コーリーは人狼の存在を確信している。フォコンドも根回しをしてくれると言っていたけれど、それでも皆を納得させることができなければ、また人狼によって誰かが死ぬ。
誰かが――ルーナのように。
もう一度だけ頭の中で論説の流れをおさらいして、深呼吸して、それから会議室に入ろう。
……すーはー。よし。
これを、さっきから何度も繰り返しているのだった。
そんなコーリーの背中を、しびれを切らしたアトラファがぐいぐい押してくる。
「コーリー。息が上手く吸えないなら、中で座って落ち着いた方が良い」
「ちがっ、やめてよ、緊張してるんだよ! そんな風に言われたら、ほんとに呼吸の仕方忘れそうになるじゃない! やめっ、押さないで、あっ」
びたーん、と前のめりに倒れる格好で、コーリーは入室した。
床で痛打した鼻の奥がつーんとする。しょぼしょぼと涙目で起き上がろうとするコーリーの顔面を、振り戻って来た樫の扉が追撃した。
「べぐしゅっ」
顔と扉の隙間から、変な悲鳴が漏れる。
そのコーリーを跨ぎ越えて、アトラファが会議室へと入った。
足元のコーリーを見やると、
「……大丈夫?」
「ぶ、ぷぇ」
「大丈夫じゃないっ! あんたの相棒、鼻血出してんじゃないの!」
室内から駆け寄ってきたククルが、手ぬぐいを取り出してコーリーの鼻血を拭う。更に、手ぬぐいの端を裂いて小さく丸め、コーリーの鼻に突っ込んだ。
「ほら、俯いて鼻の付け根を押さえて……ったく、なんでそんなとこで転ぶのよ!」
「ふぁい……すびばせん」
あぁ、ククルさんもやっぱり来てたんだ……と思う余裕も無かった。
されるがままにアトラファに助け起こされ、ククルに介抱され手を引かれるコーリーに緊張は欠片も残ってはいなかった。消え去りたいほどの羞恥があるばかりだった。
後ろをトコトコついてくるアトラファ。
(半分以上、アトラファのせいだからねっ!)
前を向いたまま、心の中で訴える……たぶん伝わってない。
◇◆◇
「重役出勤のわりにゃ、派手な登場じゃねェか」
ニヤニヤと笑いながら声をかけてくるのは、ごま塩頭のダリル主任。
連続失踪事件が想定以上の大事になって、大規模な冒険者動員へと発展したことにともない、下役のアイオンに委譲していた任を戻し、請け負ったようだ。
そのアイオンは、ダリル主任のすぐ横の席に座っている。
夏バテからまだ回復していないのか、儚げな青白い顔色。視線が合うとニコリと笑った。なんだか痛々しい。
そして冒険者たち。
昨日、受付カウンターに殺到していた全員がこの会議室に押し込められているのかと思いきや、四十人程度が円卓のように並べられた長机を囲って座っていた。人数からいって各パーティの代表者が一、二名づつこの場に参じている様子だった。
見渡せばその面々の中にはフォコンドもいて、その隣の空席はククルのものと思われた。
ギルド職員でも冒険者でもない者もいる。
ルーナの家で見た覚えのある、司法部の役人たち。彼らは冷ややかな眼差しでコーリーとアトラファを見ていた。
すでに各人の手元には資料が配られ、大規模依頼の説明会は進行中のようだった。まさか……遅刻してしまったのでは。
「あのう、重役出勤って……」
おそるおそるコーリーが尋ねると、ダリル主任は笑みを崩さぬまま、コーリーを――その後ろに立つアトラファを見た。
咎める表情ではなく、なぶるような笑みでもない、興味深いものを見る顔つきだった。
「もちろん、大遅刻だぜ」
「あぅ……すみませ、」
「気にするな。開始時刻をお前ら二人に知らせてなかっただけだ……フォコンドの野郎の計らいでな」
「フォコンドさんの……?」
見ると、ククルが戻って着席しようとする傍ら。腕を組んで椅子に腰掛けたフォコンドが、厚ぼったい瞼の下から、猛禽のような鋭い眼光をこちらに向けていた。
その眼が言っている――我々は役割を果たした。お前たちはどうだ、と。
そうか、根回しってそういう……。
コーリーはフォコンドの眼差しを捉え、しっかりと頷いた。
その無言のやり取りを終えるのを待ってか、ダリル主任は言った。
「ここに居る全員、すでに『人狼』の話は聞いている。荒唐無稽だが、戯言やほら話としちゃ看過できねェ程度にゃ、信憑性もあった……その上で、全員の見解は一致している」
ダリル主任の顔から、笑みが消える。
フォコンドは目を閉じて続く言葉を待っている。ククルは眉根を寄せた。
冒険者たちの視線がコーリーとアトラファに集まる。
そして、ダリル主任が結論を告げた。
「物的証拠に乏しく推論としても不完全だ。王都全域及び、失踪者宅周辺に集中する足跡については調査の必要があるが、失踪事件の核心に関わる証拠とするには心許ない……よって、当面は重要参考人であるエリック・ラグウェルの捜索を第一とし、並行して足跡の調査をする」
つまり、足跡の存在は認め調査もするが……人狼の存在は認められない。
そういう結論だった。
◇◆◇
コーリーは、絶望していなかった。
この事態は想定していた。むしろ想定した中でも最良だった。
(フォコンドさん……感謝します)
彼がコーリーの言葉を、アトラファの説を信じ、奔走し、この状況を作り上げてくれていなければ……コーリーとアトラファは負けていた。
人狼に負けていた。
その能力に惑わされた人々を説得する術を得ることもなく、気付くことすらなく、どうすることも出来ずに王都の混乱を眺めているだけだったろう。
今、希望の糸を手繰り寄せた。
その一端を自分たちが掴んでいることを、コーリーは確信していた。
「物的証拠が足跡以外に無いのは、たぶんすでにフォコンドさんが説明してくれた通り、証拠を残さない、気付かれない……そういう魔物だからです」
希望の糸の端っこを、絶対に手離さない。
その決意をもって、コーリーは話し始めた。
周囲に自分たちより若い人はいない。大人ばっかりだ。特に司法部の役人たちは厳しい目を向けてくる。子供を軽くあしらおうとする目ではなく、職務を、正義を遂行するために障害を取り除こうとする目だ。
こちらの説の、如何なる瑕疵も見逃しはしないだろう。そんな本気の大人の目。
でも、コーリーは怯まなかった。
「推論として不完全なのは……それは、『人狼』説が成り立たない穴がある。そういうことでしょうか」
「そうだ」
応えたのはダリル主任ではなく、司法部の役人だった。
望むところだ。エリック犯人説を主導しているのが彼ら。
落ち着いて見回せば、冒険者たちは事の成り行きを見守っている様子だ。どっちに転んでも良い、というわけではないだろうが、名目上の依頼人は司法部であり、冒険者たちは司法部の捜査方針に従う必要がある。
つまり、司法部の役人を説き伏せれば、勝利に近付く。
「『人狼』が気付かれない能力を持っているならば、その能力を使って、日中開かれている城門を通り抜けなかったのはおかしい……そういうことですか?」
「そうだ。その点で、魔物説は否定され、」
「否定されません」
コーリーは断言した。役人の反論を切って捨てた。
おそらく、この辺りまでがフォコンドの「根回し」によって議論されていたこと。昨日、フォコンドたちに助力を乞わなければ、ここで終わっていた。
だが、一日。相談したことで一日の猶予を得た。
それが――人狼の能力の本質に迫る、最大の助けとなった。
「人狼は、閉ざされた場所に入れないんです」
「それはもう聞いているのだよ。だったらなぜ、城門が開いている時間帯に侵入しなかったという――」
「物理的にではなく、心理的に閉ざされた場所に入れないんです」
「………………心理的?」
司法部の役人が、問い返してくる。
人狼は、人の心に作用する能力を持つ。この魔物は人の心を感知する。
生物の目や耳が、光や音を捉えるように、人狼の魔物のとしての何かが、人の心を感知し、それを頼りに狩りをしている。
「そうです。心理的に閉ざされた場所、普通に防犯のため戸締りしている家屋はもちろん、見張りが立っている場所にも入れないんです。だから日中、城門が開いていても、門番がいる限りは素通りできなかったんです」
「たしかに辻褄は合うが、それも推論ではないかね? 『人狼』という魔物が存在するという前提での推論だ。結局は証拠不足だ」
「その通りです。でも」
コーリーは、最後の手札を切った。
「証拠不足というなら――ルーナに使われた毒は、特定できたんですか?」
「……っ!」
これは切り札であると同時に、コーリー自身の中で、人狼の能力を確定させるための、最後の手続きだった。
ルーナの遺体は病院に運ばれ、殺害に使用された毒を検分されたはず。
何らかの毒が使われたのなら、魔物の仕業ではない。人間の手による殺人だ。
しかし予想通り、司法部の役人は呻くだけで、答えられなかった。
「毒は……見つからなかった。だが、それだけで――」
「人狼は、人の心に作用する能力を持ちます。たぶん、獲物を……仕留める時にもこの能力を使うんです」
「それはどういうことだ?」
「『人の声真似』と『即死攻撃』は、二つで一つの能力なんです」
人狼は、心理的に閉ざされた場所に入れない。
よって、見張りがいる城門は通り抜けることは叶わない。戸締りされた家々のドアも開くことも叶わない……だから声真似をする。
親しい人の、愛しい人の声を装い、扉を開けさせる――心の扉を。
「外傷の残らない即死攻撃は、人狼の能力に照らして、犠牲者の心に作用する能力、死に至らしめる暗示能力だと考えます。その能力を使うために親しい人の声を装って、犠牲者の心を開くんです。だから外傷が残らないんです」
「暗示で人が殺せるものか!」
「そうお考えになるのは当然です。でも……だったら毒が使われたはずです。その毒はどんな毒ですか。エリックさんは、その毒をどこでどうやって手に入れたんですか」
これは、不当な論理展開だった。
コーリーは、アトラファの人狼説を補強するための推論を用意してきた。
それはやはり推論に過ぎず、人狼の存在を僅かにでも示す証拠は、足跡の他にないことに変わりはない。
だから、相手の説の不備を突けるように武装してきた。
本来なら、互いの論説の不備を突き合うような議論は不毛だ。あくまで証拠を提示し、自身の正当性を主張するのが正道。しかし、今回は猶予が無かった。
それをコーリーは分かっていたし、何よりフォコンドが分かっていて、道を示してくれていた。こんな泥仕合には後出し有利だと。
「うぬ……」
証拠の提示を求められた役人は、言葉に詰まった。
ここで、結論は覆った。
◇◆◇
冒険者たちは、役人が小娘にやり込められる様を見た。
結局、司法部の役人は、コーリーに反論できなかった。
もし、昨日の内にフォコンドが人狼説の内容を伝えていたら――何らかの反証を用意されて、コーリーは押し切られていたかも知れない。
コーリーたちには時間が与えられ、役人たちには与えられなかった。
それが明暗を分けた。コーリーとアトラファだけではない、フォコンドたちが時機をも見極めてやってくれた。
捜査方針の舵は、人狼を探し討伐する側へと大きく振れた。
――後に冒険者ギルドの語り草となる、大封鎖作戦の先触れだった。




