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姿なき人狼 ⑪

 ――〈学びの塔〉を追い出されてから、何度泣いただろう。


 寄る辺なく街を歩いた夜。

 南の森で、黒い雌鹿の魔物に襲撃された時。

 アトラファに拒絶された日。

 降りしきる雨の中で――。


 何度も泣いて、立ち直った。

 でも、今回が一番ひどい。なぜなら、もう取り戻すことが出来ないのだから。


 ――ルーナ。

 冒険者に憧れ、コーリーとの出会いを喜んでくれた。

 辛いはずなのに、父親の帰りを信じて笑っていた。



     ◆◇◆



 宿に戻り、ミオリに「昼食はいらない」と告げ、客室に引き籠った。

 自分は冒険者には向いていない、とコーリーは思う。

 何かある度に泣いて、立ち止まって。そして身動きが取れなくなる。


 アトラファなら、常に冷静に為すべき最善を選び取るだろう。

 激しやすいククルでも、怒りを力に変えて、歩みを止めることはないのだろう。

 コーリーだけが立ち止ってしまう。おろおろと狼狽えて泣いてしまう。


 ルーナのために、何をすべきか。

 それは犯人を――父親のエリック・ラグウェルを捕まえることだ。

 そう考えただけで悲しみがこみ上げ、コーリーはまた泣いてしまう。


 眠ろうと思ってベッドに横になっても、脳裏をよぎるのはルーナのこと。

 コーリーは、シーツを頭から被ってベッドの上で膝を抱えていた。そうしてルーナとエリックのことを考え続けて……気が付けば窓から西日が差していた。


 ――ガチャリ。


 不意に、客室のドアノブが回った。

 ミオリさんかな、とコーリーは思ったが、ミオリならドアノブを回す前にノックをする。


 入って来たのはアトラファだった。

 窓から陽が差しているので、彼女の顔は良く見えた。普段通りの無表情だった。

 コーリーは少し笑った。シーツを被っている上に、斜め後ろからの逆光になっているので、こちらの表情はアトラファには見えないだろう。


 アトラファはどうして平気なんだろう。

 ルーナには、自分と同じくらい関わったはずだ。最初は警戒されていたけど、花瓶の代わりに水筒を渡して――友達になったのに、どうして平気のように振る舞えるのだろう。

 それとも本当に悲しんでいないのだろうか。なじる気にもならなかった。


 眉ひとつ動かさないアトラファは、事務連絡のように言った。


「ミオリが、夕飯はどうするのかって」

「……いらないって、ミオリさんに伝えて」


 短く答えた。こういう簡潔な返答がアトラファの好みであるはずだった。

 なのに、アトラファは立ち去らなかった。

 立ち去らずに、言葉を続けた。


「ククルが、ルーナにお別れをした。コーリーの分も」

「……うん。ククルさんにはお礼を言わなきゃ」


 コーリーはまた短く答えた。

 アトラファは、立ち去らなかった。


「わたしは、依頼を受けた時点でエリック・ラグウェルは見つからないと思ってた。城壁に囲まれた王都で、人を監禁したり死体を隠すのは困難。エリック自身が隠れ住むのも困難。エリックはとっくに城壁外に出ていて、最悪もう死んでると思ってた」

「………………」


 コーリーは答えるのをやめて、両膝に顔を押し当てた。

 アトラファが続ける。


「二件目以降の失踪者についても。なんでエリックと結びつけるのか分からなかった。少なくとも、エリックの失踪と、後の三件は分けて考えるべきと思っていた」

「………………」

「だから皆がエリックを探す方針で動き始めた時、コーリーの他に誰も疑問を提示しなかった時、こいつらは――王都の役人も冒険者も、馬鹿ばっかりだと思った」

「………………」


 もう、やめて欲しい。

 アトラファが失踪事件の調査に乗り気でなかった理由は分かった。


 でも、それが何なんだ。ルーナはもう帰って来ない。

 そんな言葉を尽くした所で――ルーナは殺されたんだ。実の父親に。

 それでも、アトラファは言葉を続けた。


「でもそうじゃなかった。エリックは帰って来た。そしてルーナを殺した……どうして?」

「分からないよっ! そんなの!」


 コーリーは叫んでいた。

 なぜ、どうして。ルーナが死ななければいけなかったのか。なぜエリックはルーナを殺したのか。分からない。どうしても分からない。


 ルーナは父親の――エリックの帰りを信じていた。

 エリックは。ルーナを愛していなかったのか。だから殺せたのか。


「分からないけど、ルーナはエリックさんのことが――お父さんのことが好きだった! 帰りを信じてた! 『すぐに帰ってくる』って笑ってたんだ……だから、きっと、エリックさんだってルーナのことを……」


 叫びながら、コーリーは自分が何故こんなにも打ちのめされ、悲しみに囚われているのかを自覚した。

 ルーナは愛されるべき子だった。

 親子は愛し合うべきだ。世の中が全て理想通りではないとしても。


 コーリーも王都に一人で住むことは父親に反対された。今だって認められてはいない。でも姉との手紙のやり取りで、何だかんだ心配してくれているのは知っている。

 マシェルさんも。せっかく新しいメニューが流行って〈しまふくろう亭〉の経営が上向き始めたのに、父親が身体を壊したと知ったら、すぐに助けに行くことを決めた。


 だから、だから――ルーナとエリックさんだって。

 コーリーが言いたいことを全て吐き出すと、アトラファは×印の瞳孔を四角に見開いていた。


「……エリックは、ルーナを愛してた?」

「分からない。本当に何も……でもそうじゃなきゃ、おかしい」


 コーリーは、また両膝に顔を押し当てた。

 もう何も話したくない。眠れなくても、せめて一人になりたい。

 それなのにアトラファは、まだ立ち去ってくれなかった。


「コーリーは、いつ元気になる?」

「元気になんて……ううん、ごめん。一晩寝たらきっと元に戻るから」


 アトラファなりに励ましてくれたのだと思い、コーリーは言った。

 いつだって「困ってる」と言われれば、不器用にその人を助けてくれるアトラファ。

 一人になりたいのにあなたが居て困ってる、とは言えなかった。

 でもこの時の彼女は、奇跡的に空気を読んで客室を出て行ってくれた。


 ――バタン。


 ドアが閉まる音を聞いて、ほっと息を吐く。

 コーリーは知らなかった。今、自分が「困ってる」以上の……最も強力な言葉を用いて、アトラファの背中を押したことを。


 一人になると、考えるのはルーナのこと。

 泣いて、泣いて……やがてコーリーは眠りに就いた――。



     ◇◆◇



 ――夢を見た。


 夢の中で、コーリーはルーナと手を繋いで、白露草を探していた。

 星も見えない、足元もおぼつかない昏い夜道を二人で歩いていた。

 歩き疲れ、もう諦めようかという時。

 ふと、前方に光が見えた。


 それは、白露草の大群落だった。

 真っ暗な闇の中に、大地から湧き立つ灯火のように、白く輝いて見えた。


(ルーナ、見つけたよ、白露草だよ!)


 喜んでそう話し掛けた時――、

 ルーナは、コーリーの手を振り払って駆け出していた。

 あっと思った瞬間、その横顔が見えた。

 走り出すルーナの横顔は、その瞳は、喜びと希望に満ちていた。


(ルーナ!)


 コーリーは呼び止めようと……追いかけようとして手を伸ばし、一歩踏み出したところで、ぬかるみに足を取られて転んでしまう。

 顔を上げると、暗闇を駆けて行くルーナの背中。


 ルーナは振り返らずに、真っ直ぐに白露草の群落を目指して、駆けて行く。

 その目指す先に湧き立つ光が、二つの輪郭をかたどった。

 人間の輪郭。男の人と女の人。そのようにコーリーの目には映った。


 二つの光の輪郭は、両腕を広げてルーナを迎えた。

 ルーナは白い輝きの中に飛び込んで行く。

 光の輪郭がルーナを優しく抱きとめる。


 コーリーは、泥の中で確かにそれを見届けた。

 悲しくて寂しくて――温かい。そんな夢だった。



     ◇◆◇



「ん……」


 コーリーは目を覚ました。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 シーツを被って膝を抱えたまま横になっていた。

 鳥の声は聞こえるものの、まだ薄暗かった。明けの刻の鐘はまだ鳴っていない。


 早朝……かなり早い時刻だ。

 泣き腫らした瞼をこすり、起き上がろうとして――眼前に金色に光る一対の眼があることに気付き、コーリーはぎょっとして飛び退いた。


「なっ、なななんでいるのっ? いつからっ?」

「……おはよう、コーリー」


 金色の眼のアトラファは、ベッドの縁に両手と顎を乗せて、きろっと上目づかいでコーリーを見た。

 寝顔を観察されていた。

 ぱくぱくと口を動かすも、言葉が上手く出てこない。


「一晩寝たら元気になるって言ってたから、ここで待ってた」


 元気になったみたいで良かった、とアトラファは呟く。

 ちがう。元気になったんじゃなくて、びっくりして飛び起きただけだ。


 いまだ二の句を継げずにいると、出掛けるから準備して、とアトラファが促してくる。濃紺のフードに道具入れの付いた革のベルト。アトラファは寝間着ではなく冒険のいでたちだった。


「……準備?」

「ルーナの仇を討って、エリックの無罪を証明する」


 両手をベッドにつき、ぐっと身を乗り出したアトラファの顔が、息が掛かるくらい近くにあった。

 この顔を知っている。この目を覚えている。

 南の森で、雨の地下市街で――命懸けで魔物に立ち向かった、あの時と同じ目だった。


 あの時のアトラファは、「くるな」とか「そこにいて」と言って、コーリーを寄せ付けなかった。でも今日は準備をしろと。


「ルーナの……」


 何か言おうとして、泣き疲れた喉がひくっと音を立てた。

 アトラファの言葉の意味をようやく飲み込んだ時、


 ――ゴォーン――ゴォーン。


 明けの刻を告げる鐘の音が、王都に響き渡った。


 ……取り返しのつかないことが起こって。

 悲しみに暮れ、暗闇の中で立ち止まり、前に進めなくなっても。

 それでも、夜明けがやって来る。

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