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姿なき人狼 ⑥

 しらふで看板を蹴る人をはじめて見た。

 しかも、そのお店が閉まっているというだけの理由で。

 このククルさんという人は、気性が荒いというか、怖い人だ……。


 予期せぬ乱暴なふるまいを目の当たりにしてしまい、コーリーは心臓をばくばくさせながらククルから目を逸らし、倒れた看板に歩み寄って、そっと元に戻した。

 その様子に、ククルがしまったという顔をする。


「……ちがくて。暑くてイライラして、つい、」

「は、はい。暑いですもんね」


 思わず、固い声が出てしまう。

 気まずい沈黙が訪れる。


 幸いだったのは、ミオリが物音や声に驚いて店内から顔を出さなかったことだ。お手製の看板を蹴っ飛ばされたら、いくら温厚なミオリでも気を悪くするに決まってる。

 我関せずのアトラファが〈しまふくろう亭〉の扉に手を掛け、押し開いた。


 ――がちゃ。かららん。


 アトラファの肩越しに暗い店内をうかがうと、夏の日中の明るさに慣れていた瞳孔が一気に拡大し、目の奥が痛んだ。

 フロアの椅子は全て脚を上にしてテーブルに載せられ、床は掃き清められている。奥には厨房と繋がるカウンター席と、二階客室へ向かうための階段。

 暗さに慣れてくると、つい先日から壁を飾っている白露草(しらつゆくさ)の絵が目を引いた。


「ミオリがいない」


 入口から内部を見回していたアトラファが、ぽつりと言った。


「えっ、ミオリさん鍵も掛けずに」

「……ここ、あんたらの知り合いの店だったの?」

「ええと、常宿っていうか……じつは下宿先です」


 歯切れの悪いコーリー、ばつの悪そうなククルの間をすり抜け、アトラファは宿の入口から路地へと戻る。

 声を掛ける間もなく、アトラファは周囲を見回す。

 これまでの緩んでいた態度から一転、緊迫した様子だった。


 アトラファの行動が急変した理由を察せられないほど、コーリーも鈍くはなかった。たった今、冒険者ギルドで失踪事件の説明を受けてきたばかりだった。

 失踪した人たちは、自宅で一人になった時に――。

 マシェルがアイオリア州に旅立っている今、ミオリは一人だったはずだ……。


「嘘でしょう。ねぇ、アトラファ……」

「なに、何なの?」


 事情を知らないククルだけが、状況を飲み込めずに疑問を口にする。

 コーリーは、自分のうかつさを悔いた。

 依頼内容の詳細は口止めされていたとしても、街で物騒なことが起きているらしい、とミオリに注意を促しておくことくらいは出来たのに。


 アトラファは〈しまふくろう亭〉の壁に手を当て、宿の外周をなぞるように歩き始めると、すぐに何かを見つけてしゃがみこんだ。



     ◆◇◆



 ――獣の足跡。


 大きな、犬らしき動物の足跡だった。

 今朝、ギルド会館に向かう途中でも見つけた。

 あの時に見つけた足跡は一つだけで、足跡の主がどこから来てどこへ向かったのかも分からずじまいだったが……今、足跡はそこらじゅうにあった。


 足跡の主がどのような動きをしたのか、はっきりと追うことが出来る。

 アトラファが立ち上がり、足跡を追う。コーリーとククルはそれに続く。


 足跡は〈しまふくろう亭〉の入口付近をうろうろした後、壁に沿って裏手に向かったようだ。厨房の小窓から中を覗き込もうとしたのか、壁に向かって後ろ足で立ち上がった跡がある。窓の桟はコーリーやアトラファの背よりも高い所にあったが……。


「窓の縁に前足をかけたみたいな爪痕がある……犬だとしたらかなりでかいよ」


 二人より頭ひとつぶん長身のククルが、背伸びをして窓枠を確認した。

 足跡は、そこから更に〈しまふくろう亭〉の納屋の方に続いている。

 アトラファの樽のお風呂が置いてある辺りだ。


「あんた……まだこんなもん作ってたの?」


 ククルが、アトラファを呆れた顔で見た。

 フォコンドと同様、ククルもアトラファとは既知であるようだ。


 二人の関係は気になったが、今はそんな話をしている状況ではない。王都で長く冒険者をやっている者同士であれば、どこかで仕事を共にしたりしたこともあったのだろう。今回のように。

 コーリーは気にしないことにした。


 アトラファも、ククルの言葉には答えず、樽やかまどの周辺を調べていた。

 足跡は、樽とかまどの間を行ったり来たりした後、勝手口の前でぐるぐると回り、やがて諦めたように、まっすぐに正面の路地へと進んでいる。


 分かったことは、この足跡の主が〈しまふくろう亭〉を執拗に嗅ぎ回っていたということだった。それに昨夜お風呂を貰った時にはこんな足跡は無かった……と思う。

 ということは、この足跡は昨晩からこの昼にかけて付けられたものだ。


「アトラファ。今朝、私たちが出たとき、足跡ってあった……?」

「無かった」


 アトラファが断言する。こんな時の彼女の言葉は信頼できる。

〈しまふくろう亭〉を一周するかたちで、三人は正面の路地へと戻る。


 角を曲がったところで、コーリーはばったりと探し人に出会った。



     ◆◇◆



「――あら、コーリーちゃん。お帰りなさい。おかしなとこから出て来るのね……アトラファちゃんまで」

「……! ミオリさん!」


 両手に満載の買い物袋を抱えたミオリが、入り口の扉を開けられずにまごついているところだった。

 安堵のあまり、その場にへたり込んだコーリーを、ミオリは訝しげに見やった。


「どうしたの、コーリーちゃん。そんなとこに座ったら汚れるわよ」

「ミオリさんこそ……どこに行ってたんですか」

「どこって、お買い物よ。しばらく食事は私が腕をふるわないといけないでしょう。すぐに戻るつもりだったけど、その間にコーリーちゃんたちが帰ってたらと思って、鍵は開けておいたの。炎天下に待たせたら悪いから……もしかして鍵閉まってた?」


 開いてました。開いてたから大慌てしてたんです、と正直に説明するわけにもいかずに、コーリーは返答に窮した。

 失踪事件の調査に関して、依頼内容を口外するなという指示は、依頼主である司法部の要望によるものだ。「エリックが王都内に潜伏している」と考えている司法部にとって、噂が広まってエリックの耳に入りでもしたら困るのだ。

 助け舟のつもりではないかも知れないが、アトラファが話を逸らしてくれる。


「大きな犬を見なかった?」

「犬? 今度は犬探しの依頼なの?」


 アトラファは答える代わりに、ミオリの足元をすっと指差す。

 ミオリが買い物袋を抱え直しつつ、自分の足元を見ると、そこにはミオリ自身の足跡でいくらか消されてしまっていたが、今でもくっきりと例の獣の足跡が残されていた。


「買い物に出る時に、その足跡はあった?」

「どうだったかしら。覚えてないわねぇ……」


 ミオリが首を傾げる。

 それにしても大きな足跡ね、これならすぐに見つかるでしょう、とミオリは呑気な感想を述べた。そんな大きな犬がうろついていて怖いとは思わないようだ。

 立ち上がったコーリーに、ミオリは笑いかけた。


「埃を落としたら、中に入って昼食にしましょう。アトラファちゃんも。良かったら、そちらの方も……二人のお客さんなんでしょう?」

「あ、はい。冒険者の先輩で、ククルさんです」

「そうなの。お話は中でするとして、ドアを開けてくれると助かるんだけど……」


 コーリーは慌てて〈しまふくろう亭〉の扉を開き、ククルはミオリの手から荷物を受け取った。

 アトラファは、また地面にしゃがみこんで足跡を検分していた。


「何やってるの。ドア閉めるよ。地面触ったんなら手を洗ってね」

「……ん」


 アトラファは、皆の後に続いて店内に入ろうとし――ふと、何者かの視線を感じたかのように振り返った。

 そこには、うだるような暑さで、陽炎が石畳の上に揺らめき、遠くには黒く光る逃げ水がきらめいているばかりだった。


「もーう、アトラファー?」


 コーリーの急かす声に、アトラファは踵を返して扉をくぐった。

 がちゃ。かららん……ばたん。



     ◆◇◆



〈しまふくろう亭〉の扉が閉じると、生臭い風が砂埃を蹴立て過ぎ去っていった。

 ――点々と、足跡を残しながら。

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