姿なき人狼 ①
夕刻。宿屋〈しまふくろう亭〉の裏手。
「……っ、ふはぁー」
何本もの紐に吊るされた布で区切られた空間から、湯気が立ち上っている。
樽のお風呂に肩まで浸かって、恍惚とした表情を浮かべているのは、黒っぽい茶髪に榛色の瞳の少女、コーリー・トマソン。
日課の訓練と、当番の薪割りを終え、一番風呂を頂いているところだった。
この樽のお風呂は、元々コーリーの相棒であるアトラファが、自身のために設置したものだったが、現在ではコーリーも嵌っていた。
沢山のお湯のお風呂なんて散財、贅沢、と初めは敬遠していたものの、一度体験してみると、これは……。
「ふぁぁ……」
思わず声が出る。
全身を温かい湯に包まれる快感は何にも代えがたい。一日の疲れがお湯に溶けだし、消え去って行くかのようだ。
アトラファとの取り決めで、湯を沸かした方が、その日の一番風呂にありつけることになっていた。
◆◇◆
きっかけは一週間ほど前。雨の降る季節が過ぎ、夏の暑さがいや増した頃。
かねてより〈騎士詠法〉を教えて欲しいと希望していたコーリーに、ついにアトラファが稽古をつけてくれると言ってくれた日。
「ん」
「? なにこれ」
人の身で魔物と一騎打ちするための戦闘法、〈騎士詠法〉。
その秘術を身に付けるためなら、どんな過酷な特訓にも耐えてみせる! と息巻いていたコーリーに、アトラファが差し出したのは、一本の無骨な刃物だった。
「これは鉈だよ、コーリー」
「知ってる。知ってるけど……どうして鉈? 〈騎士詠法〉に、精霊法の訓練に何の関係が? 瞑想とかするんじゃないの?」
「〈騎士詠法〉には集中力が必要。集中を維持するには体力が必要。だから薪割りして」
分かったような、分からないような心持ちで、コーリーは鉈と薪を受け取った。
それからは薪割り。ひたすらに薪割り。
それは苦ではなかった。
アトラファは自分のことを舐めている、とコーリーは思った。
ベーンブル州の実家で薪割りくらいしたことがある。〈学びの塔〉に入学して以来はご無沙汰だったが、少しやれば勘は取り戻せる。体力にも少しは自信がある……。
……だが、アトラファの特訓は、やはり苛酷だった。
薪割りが終わってからが本番。走り込みをさせられ、腕も脚もだるくなった頃に、ようやく精霊法の訓練が始まる。〈学びの塔〉でのような座学は一切無かった。
実技。ひたすらに実技。
それも的に向かって射撃するようなスカっとするやつではなく、風の糸を生成し、自分の周囲に維持し続けるという地味な内容だった。
「《賢き小さき疾きもの、幽けき歌の運び手よ》……、あっ」
ほんの数秒も保てずに、術は虚空へと散ってしまう。
疲れ切った身体で風の糸の術を維持するのは本当に難しい。維持するだけでも難しいのに、どれだけの鍛錬を積めば、アトラファのように維持したまま動き回ったり、剣を振るったり出来るようになるのだろう……。
アトラファは「疲れるだけでは駄目」と言って休養日を設けた。全く上達しないコーリーは、焦って休養日にも練習を行い、アトラファに怒られた。
数日が過ぎ、身も心も疲れ果てたコーリーに、アトラファが言った。
「……お風呂に入る?」
「えぇ?」
その時は、めんどくさい……身体を拭いてさっさと寝てしまいたい……と思っていたが、せっかく薦めてくれたのを断るのもなぁ、と気乗りしないながら樽のお風呂を体験してみたのだった。
〈しまふくろう亭〉の裏に、勝手にアトラファが設置した、かまどと樽。
樽の蓋を取ると、その日アトラファが水汲み場を何往復もして貯めた水が入っている。
その水をいくらか大鍋に移して、かまどで沸かす。沸いたら樽に戻し、ちょうど良い湯加減に調整する。樽自体を直接火にかけると、次回に使用した時に底が抜けるので、やってはならないそうだ。
この全身浸かるお湯のお風呂というのは、なるほど、アトラファが体力と手間とお金を掛けて維持する価値があるものだったんだ、ということをコーリーは実感した。
〈学びの塔〉に帰ったら、女子寮の敷地内に樽を設置しよう、と思った。
「あぁぁ……生き返る……」
お風呂を使用するにあたり、アトラファから幾つかのルールを教授されていた。
一つ、樽に浸かる前に身体の汚れは落とすこと。
一つ、手ぬぐいは湯に漬けないこと。
……まぁ、後に入る人のことを考えて、お湯を汚すなということだろう。
今日も入浴を堪能したコーリーは、ざぶりと湯から上がると、髪と身体を拭き、こそこそと〈しまふくろう亭〉二階の客室に直通の縄梯子に向かった。
この縄梯子は、アトラファではなくコーリーが設置したものだ。
普通に客室へ戻るためには、宿の裏の勝手口から厨房、ホールを抜けて、階段を登って行かなければならず、下着同然の湯上り姿を不特定多数の男性客にさらす危険性がある。
これは恥ずかしい。改善せねばならなかった。
一方で、アトラファは全く気にしていない様子だったが、マシェルとコーリーとミオリに「やめろ」「やめなさい」と凄い勢いで迫られたため、しぶしぶ縄梯子を利用していた。
◇◆◇
客室に戻って髪を乾かして梳かし、着替えたコーリーは夕食を摂るために階下のホールへと向かう。
ホールは賑わっていた。従来の〈しまふくろう亭〉は昼には閑散としていながらも、この時間帯は近所の常連のおじさんたちで賑わっていた。しかし、ホールを見渡すと普段見慣れない客――冒険者や若い女性も多く見受けられる。
看板娘のミオリがコーリーに気付いたが、他の客に呼び止められてそちらへと向かう。
ここ最近、〈しまふくろう亭〉は繁盛していた。
コーリーは、厨房と繋がるカウンター席の隅っこに、灰色の髪の後ろ頭を見つけ、隣の席に腰掛けた。
「アトラファ、お風呂あがったよ」
「ん」
灰色の髪の少女――アトラファは短く応えた。
行儀悪くスープの器を両手で持ち、こくこくと中身を飲んでいる。
灰色の髪に金の瞳、×を刻んだ瞳孔――若年にして〈縁あり銀〉のランクを持つ凄腕の冒険者。そしてコーリーの相棒。
近頃〈しまふくろう亭〉の評判が上がっているのは、実はアトラファの功績だった。
その秘密は、今アトラファが飲んでいるスープにある。
「……オゥ、飯か」
厨房から声を掛けて来たのは、〈しまふくろう亭〉の店主、マシェル。
看板娘のミオリとは似ても似つかない兄妹で、妹とは異なり威圧感たっぷり。その実、繊細で優しい人かと思いきや、やっぱり中身も怖い。でも料理の腕は確か。
そんな店主、マシェルに料理を注文する。
「『赤の冷製スープ』を下さい」
「……『白』の方が美味しいのに」
横でアトラファがぽそりと呟くが、聞こえないふりをした。
『赤と白の冷製スープ』
これが、この夏〈しまふくろう亭〉が発信した新しいメニューだった。
◆◇◆
事の起こりは、コーリーとアトラファがパーティを組んで間もない頃。
店主であるマシェルが、アトラファの注文から、新メニューの着想を得たことだった。
観察していて分かったことだが、アトラファは新しいものが好きだ。
ギルド直営の道具屋で「新発売」などの謳い文句があると大抵は飛びつく。それは固形スープの素など当たり商品の時もあるが、粘土とおがくずを混ぜた味のする謎の携行食の時もある。
そのようにして稀に「当たり」に巡り合ったアトラファは、それが食べ物であった場合、飽きるまでそれを食べ続ける。
夏の盛りも近付きつつある時期、〈しまふくろう亭〉でアトラファが毎度注文し続けているメニューは、ポテトと葱とバターをふんだんに使ったポタージュスープだった。
「アトラファちゃん……この暑いのに毎日……」
ミオリが、理解しがたいものを見る眼差しをアトラファに向ける。
アトラファは我関せずと食事をする。
コーリーはといえば、暑い中ポタージュを食べるという行為に対し、特に違和感を感じていなかった。
故郷のベーンブルは農業や漁業が盛んで、現地の肉体労働者には暑気払いに良いあっさりした物よりも、滋養のあるこってりした料理が好まれていた。夏のスープといえば、脂でぎとぎとの「塩くじらと夏野菜のスープ」などが良く供された。
〈学びの塔〉の学友、パンテロにこのような話をすると、決まって「やめてくれ。だからベーンブル人とは飯の話ができねえんだ」と言われたものだったが。
そんな中で目敏く「アトラファが食べ終わった後の器が異様に冷たい」ということに気付いたのはマシェルだった。
アトラファは氷法術で、温かいポタージュを冷やして食べていたのだった。
マシェルはその味を見て、改良すれば売り物になると確信した……らしい。
「……その氷法術ってのは、練習すりゃ俺でも出来んのか?」
「えっと、」
料理人の道を捨てて十年くらい練習すればもしかして出来るかもです、とアドバイスすると、幸いにもマシェルは自ら精霊法を習得するという選択を諦めてくれた。
そもそも「飲み物を最適な温度に冷やす」というのは、曲芸じみたアトラファだけの特技で、十年研鑽を積んだところで誰でも習得できる保証はない。
単純に氷を作ってスープを冷やすという調理法も考えられるが、法術士として身を立てた人は、下町の宿屋の厨房で下働きなどしない。その技能を自分の人生のために、もっと有意義に使うことだろう。
しかし、マシェルは新メニューの開発を諦めることはなかった。
冷やした時に油分が固まって味を損なうのを避けるため、バターは使用せず生クリームをたっぷり使う。食感をより滑らかにするため、くたくたに煮込んだポテトと葱を裏漉し、生クリームを加えながら更に裏漉しする。
アトラファの氷法術で冷やし、仕上げに千切りにしたレモンの塩漬けを一つまみ添える。
優しい甘みと滑らかな喉ごしの『白の冷製スープ』が完成した。
そしてもう一皿。
湯剥きし煮詰めたトマトをメインに、香味野菜、ニンニクを細かく刻み混ぜる。
アトラファの氷法術で凍りつく寸前まで冷やしたあと、風味づけにオリーブオイルを一匙垂らし、こちらにも塩漬けのレモンを一つまみ。
キリっとした酸味とスパイシーな風味の『赤の冷製スープ』が出来上がった。
この二つの新メニューは、アトラファの協力がなくては調理できないため、〈しまふくろう亭〉に来ればいつでも食べれるわけではない。
提供が可能な日には「冷たいスープあります」という、ミオリによる手書きの看板が店の外に出された。
最初のうちは大して人目を引かなかったが、実際に味わった人たちから広まった評判により、〈しまふくろう亭〉は着々と客数を増やしていたのだった……。
◇◆◇
本業を疎かにするわけにもいかない。
貯金には余裕があったが、二、三日に一度はアトラファと連れ立って、冒険者ギルドの依頼掲示板を見に行く。
この時、コーリーは申し訳ない気持ちになる。
自分という足手まといがいなければ、アトラファはもっと稼ぎの良い、大きな依頼を請け負うことが出来るに違いないからだった。パーティを組んで以来、アトラファがそのことに関して言及したことは一度も無かったが。
二人で掲示板を見上げて、めぼしい依頼を探していると、
「……ん」
と、アトラファが何かに気付いて小さな声を漏らした。
その視線を追うと、そこには……奇妙な依頼書が貼り出されていた。
採取でも調査でも魔物討伐でもない、奇妙な依頼。
そこには、こう書かれていた。
――連続失踪事件の捜査協力。詳細はギルド窓口に確認のこと。




