親友からの手紙
早朝の校門。早朝とはいえ、明けの鐘はとうに鳴っている。夏の盛りに近付きつつある時期、この時刻でもすでに日は高くなっていた。
レノラは人を待っていた。
思えばしばらく前、晩春の頃、やはりこの校門でコーリーを見送った。
『コーリーはすぐに帰って来れます。そうなるように、わたくしたちは頑張ります。だから、コーリーも頑張って』
そう言って、コーリーをここから見送った。
あれから一月半。長い長い一月半だった。
その間に色々なことが起こり、女子寮の――特にアルネット王女をを取り巻く環境は、劇的に変わった。コーリーには自覚が無いだろうけど、あの日、コーリーとアルネット王女が対面した時から変わり始めたことだった。
レノラは、約束を果たし続けているつもりだった。ずっと頑張ってきた。
(コーリー、貴女は今どうしていますの?)
便りも寄越さない親友のことを思う。
こつり、と石畳を踏む音を耳にし、レノラは我に返って居住まいを正した。
待ち人がやって来たのだ。
◆◇◆
「おや……私を見送ってくれる生徒がいるとは、意外だねぇ」
待ち人――カイユ・ラトラウル「元」教師は、相変わらず人を苛つかせるような、のらりくらりとした口調で言った。
亜麻色の髪に、硝子瓶の底みたいな厚い眼鏡を掛けて、猫背で気だるい喋りかたをする、小柄な「元」女教師。その手には僅かな手荷物。
コーリーも同じように、手荷物だけを手にこの門を出た。
自分には、こうした「追われる者」を見送る宿命があるのかも知れないとレノラは思った。あまり受け入れたくはない宿命ではあったが。
「おはようございます、カイユ先生。どうしても伺いたいことがあってお持ちしておりましたの……もう、お会いする機会も無いでしょうから」
「ハッキリと言い難いことを言うねぇ」
気を悪くした風でもなく、カイユは校門の前で立ち止まった。
話を聞いてくれるつもりらしい。
レノラは、ずっと疑問に感じていたことを――〈学びの塔〉の仕組みに気付き、カイユがその仕組みを利用して女子寮に不和を招いていることを確信した時から、ずっと感じていた疑問を口にした。
「どうしてカイユ先生は、あんなことをしましたの?」
それだけが分からなかった。
なぜ、アルネットを貶めるような真似をしたのか。
もっと言えば何が目的で、カイユ自身に何の得があってあんなことをしたのか。
〈学びの塔〉が王女であるアルネットを異常に優遇するという仕組みは、その手法は理解しがたいと思う一方、なぜそうするのかという理由は想像できる。
将来の為政者に内定しているアルネットに対し、〈学びの塔〉の運営陣が媚を売るというか、ゆくゆくは母校に便宜を図ってもらおうと考えるのは分からなくもない。
ようは「王女は他生徒とは違うのだから贔屓しよう」という考え方は、共感はしないまでも、理解はできる。
しかし、カイユの行動原理は今以って全く理解できなかった。
「私にとっては必要なことだった、と言ったはずだがねぇ」
「『王女に嫌がらせをして評判を貶める』ということが必要だったのですか? そのためにカイユ先生ご自身は、お仕事を失くされたというのに、そこまでして……」
多くの生徒に恨まれ、敗残者の如く落ちぶれて、居場所を追われる。
そうしてまでカイユが求めた「必要なこと」とは何であるのかが知りたかった。
おそらくこれから先、二度とカイユと巡り合うことはあるまい。そうなる前に、自分自身やコーリー、それにアルネットを苦しめたものの正体を、出来るなら知りたい。
それが、レノラの今の気持ちだった。
「レノラ君は、〈学びの塔〉の仕組みに気付いたのだろう?」
「ええ、まぁ……アルネット様の――『王女の意思を無視してでも、王女の敵を排除する』――こういう感じですわよね」
「その通り。アルネット王女が不登校になったり、あるいは不祥事をしでかして退学になったりすると、〈学びの塔〉は困るのだよ……なぜなら〈学びの塔〉は、アルネット王女が生まれるより前に、アルネット王女と従者エリィのためだけに創られた学び舎だから」
レノラは息を呑む――のを堪えて、ゆっくり息を吸って吐いた。
生まれるより前に。彼女らのためだけに。
アルネットのためだけと言われたなら、驚きつつも納得できただろう。だがエリィの名がここで出てきたのは想定の外も外だった。
驚愕を露わにしていれば、カイユはここで話を打ち切ったかも知れない。
レノラが動揺を外に出さなかったのを見て、カイユは面白そうに眉を上げた。
「王女を試したかったのだよ。将来、私たちを率いるに足る器であるかどうか……」
それが何より重要だったのだ、と語るカイユに、レノラは噛みつく。
「待ってください。将来……? アルネット様はまだ十一歳ですわよ。アーベルティナ陛下もまだお若く、ご健康に翳りはないですわ。次期女王としての器なら、これから五年、十年かけて磨いていけば……」
アルネットは才気煥発なれど、精神的に未熟な部分があるとレノラも感じている。
けれど、それは年齢相応の不安定さで、アルネットの能力や人格を否定するような要素ではないと信じている。
むしろ、アルネットや自分くらいの年頃ならば色々と思い悩んで当然なのだ……と思う。アルネットが超然とした、ただ優秀なだけの機械のような人物だったなら、レノラは彼女に共感せず、味方に引き入れようともしなかった。
カイユは、そんなレノラの言葉を一笑に付した。
「五年? 十年? そんな遠い未来の話はしていないのだよ、レノラ君」
「では何の話を……」
レノラが言い募ろうとした時、カイユはそれを遮って言った。
「――近い将来、この王都は滅びる。魔王と、それに率いられた魔物の軍勢によって」
悪い冗談か、あるいは煙に巻こうとしているのかと思った。
カイユの表情を読もうとするものの、硝子瓶の底のような眼鏡がそれを阻んでいた。
レノラが何か言うべきことを思い付くより先に、カイユは続けた。
「アーベルティナ陛下も命を落とす。王都ナザルスケトルは魔王の都と化し、世界中の人々は魔物の影に脅かされるようになる。その危機に立ち向かい、王都を魔の手から奪還できるのは、王女アルネットと、その従者エリィだけ……」
〈学びの塔〉は、その危機に備えて王女と従者を育成するためだけに創設されたのだよ、とカイユは語った。
だから、アルネット王女が全ての課程を修了して卒業してもらわなければ困る。そのためならどんな犠牲も厭わない。それが〈学びの塔〉の理念である。
だが、私は理念に背いて王女を試そうとした。ゆえに今、追放されるのだ。
「――と、言ったら、信じるかね?」
「……。信じませんわ」
レノラが答えると、カイユはそうかい、と笑った。
もうこれ以上話すことは無い。最後までどうしようもなく、こちらを苛つかせる人だった。「では、さようなら」と踵を返し立ち去ろうとした時、
「あぁそうだ、君に渡す物があったのだよ。今から校舎の事務室に預けに行くのは面倒だからここで渡しておこう……昨日届いた手紙、君宛てだよ」
カイユはそう言って、封筒を差し出してきた。
〈学びの塔〉謹製の、購買部で売っている封筒ではない。
もっと白茶けていて紙の繊維も荒い、おそらく市井で販売されている封筒だった。
レノラは訳も分からず、それを受け取った。
「私の、寮監としての最後の仕事だよ」
ひらひらと手を振り、カイユは去って行く。
辻馬車の停留所へ向かうのだろうか。王都に留まるのか旅立つのか。どちらにしても、悪行を暴かれて追放される者らしからぬ、飄々とした態度だった。
レノラは憮然としてその背中を見送り、手元に残された封筒――何者かからの手紙に視線を移した。宛て名を読み、自分宛てであることを確認する。
そして眼を見開いた。
これは、この筆跡は――。
期待に鼓動が速くなる。封筒をひっくり返して送り主のサインを確かめる。そこには、
『コーリー・トマソン』
期待通りの名前があった。
ずっとずっと待ち望んでいた、親友からの便り。
レノラは、その手紙をぎゅっと抱き締めた。
◆◇◆
校庭の木陰でその封筒を開いた。
女子寮の自室に戻って、ペーパーナイフを探す時間も惜しかった。
爪を立てて、慎重に糊を剝がし、折り畳まれた便箋を引っ張り出す。
もどかしく便箋を広げると、そこには筆まめだったコーリーの几帳面な筆跡で、〈学びの塔〉を出てから後の軌跡が綴られていた。
『――レノラ、私、冒険者になったよ』
時節の挨拶もそこそこに、手紙はそんな風に書き出されていた。
レノラは頬を綻ばせた。
コーリーは王都を出ること無く、生活の基盤を築くことに成功したらしい。でも冒険者というのは気に掛かる。危険な仕事だったら心配だと思いつつ、コーリーの手紙を読み進める。
『――冒険者になるにあたって、〈学びの塔〉での勉強はすごく役に立ちました。
精霊法の初級を持ってるだけで、一発で採用決定、みたいな感じだったのです。
採用というよりは免許交付、と言った方が正しい気もします。
仕事も決まったし、泊まっている宿の人も親切だし、順風満帆に進んでいるなぁと思っていたのですが、冒険者という職業はやはり生半可なものではなかったのです。
レノラ、魔物って見たことある?』
魔物。
レノラは見たことが無いが、生き物が闇の精霊の影響を受けて変異した、非常に危険な存在だということは知識として知っている。
滅多に出現するものではなく、元となった生き物に比べて短命なので、天災のように甚大な被害をもたらすことはあるが、概ね短期間で終息すると聞く。王都での普段の生活で気に留めるようなものではない。
『――私、魔物を間近で見ました。二度も!
二度とも心臓が凍える思いでした。生きた心地がしなかったんだよ。
一度目は、王都の近くの南の森に、初めて採取に向かった時。恐ろしい、黒い雌鹿の魔物でした。今でも夢に見て、汗びっしょりで飛び起きることがある……。
二度目はなんと、この王都の地下。少し前に季節外れの長雨があったでしょう。あれは魔物の仕業だったんだよ。信じないと思うけど、これは本当に本当のことです。
その両方の事件を私は目の前に見ていたのです』
手紙には、コーリーが一月半の間に体験した、途方もない冒険譚が綴られていた。
コーリーは故郷の家族を――特に少し歳の離れた姉を心配させないため、手紙にはあまり窮状を綴ったりしない子だった。無理をしていたわけではないが、努めて明るく楽しいことを家族に報告していた。
嘘つきでも、ほら吹きでもない。そんなコーリーが、こんなに興奮気味に自身が危機一髪に遭遇した様を報告して来るということは――それを通じて何か良いことがあったのだろう、とレノラは推測した。
わたくしが、アルネット様とエリィと交友を築けたような、良いことがコーリーにも。
『――すごい子に出会いました。
アトラファという子。私たちと同じ十四歳の女の子です。
先の魔物二体も、アトラファがやっつける所を、私は近くで見ていたのです。
アトラファは凄腕の冒険者で、精霊法の達人なのです。もしかしたらアルネット王女よりもすごいかも知れない。ううん、たぶん、戦ったらアトラファの方が強い』
ほほう。とレノラは目を見張った。
あのアルネットより――レノラが策を練りに練って、多対一に持ち込んで、ほとんど騙し討ちのような形でかろうじて勝ちを拾った、あのアルネットよりも強い。
しかも、レノラと同い年の少女……精霊法の達人。
その年齢で冒険者ということは、ろくに勉強もしていないだろうに。
それなのに、精霊法に関しては希代の天才、アルネット王女の実力を知っているコーリーをして「より強い」と言わしめる達人とは。
レノラは、アトラファという少女に興味を覚えた。
『――〈学びの塔〉に帰れる日が来たら、きっとレノラや皆に、アトラファを紹介します。
パンテロとは別の方向に気難しい子だけど、悪い子じゃないです。
勇敢で、賢くて、いつも困ってる人を助けようとしています。
……気が付いたら新しい友達の話ばかりになってしまったけど、私は何とかやっています。魔物は怖いので、できるだけ安全な依頼を受けるようにしてます。だから安心してね。
私、元気です。レノラも皆も元気でいてね。』
それから、後輩たちに向けた追伸もあった。
なぜか本文の余白を使わず、わざわざ新しい便箋を卸して使用していた。
『追伸
タミアに伝えて下さい。そして、この部分はクルネイユに見せないで下さい。
私が伝授したジャムの瓶の隠し場所だけど、今年は五から八番をローテーションにすると良いでしょう。これだけでタミアには伝わるはずです。
完全に隠蔽することは困難ですが、見つかりやすい所に失敗作を置いておくと、クルネイユはそれをくすねて食べて満足します。失敗作が無い時は、一番出来の悪いのを置いてください――』
コーリーの大冒険が記された手紙は、他愛もない追伸で締めくくられていた。
あの子らしい、とレノラは思った。
(……こっちだって、大冒険だったんですわよ)
コーリーが居なくなってからの日々を思う――エリィがやって来て、アルネット王女との対決、和解を経て、元凶であるティオ教師の行いを皆の前で暴いた――目まぐるしい冒険の日々。そしてようやく、コーリーを呼び戻すための足掛かりを得た。
そのことをコーリーに話して聞かせるのが、楽しみでならなかった。手紙でも良いけれど、やはり直接会って、お茶とお菓子を囲みながら話したい。そこにアトラファという新しい友達が加わるのは、とても素敵なことだ。
コーリー、貴女に会いたい。
読み終えた手紙を胸に、レノラは梢越しの空を見上げて目を細めた。
夏の太陽は上るのが早い。清々しい朝日は、すでに眩しい夏の日差しに変わりつつあった。きっと今日は暑くなる。
◆◇◆
朝っぱらから照りつける太陽を、カイユは手を翳しながらうんざりと見上げた。
運よく辻馬車をつかまえて、南広場までやって来たは良いものの、これから更に強まるであろう日差しの中を歩くのは、考えただけでくらくらする。
こんなことなら、出発は明日にすれば良かった……。
でもこれから夏は勢いを増すばかり。
どうせ、王女に〈騎士詠法〉を教えるのを止めると思った時点で、寮を出なければいけなかった。ならば早い方が良いに決まっていたのに。暑くなる前に……春にでも見切りをつけるべきだった。
もう少し、もう少し……と決断を引き延ばした結果が、今だ。
南門の事務所で転出届を提出し、晴れて王都の住民ではなくなった頃には、中天に近付いた太陽は白く輝きを放ち、王都はまさに夏の様相であった。
アルネット王女が精霊法でも無能であったなら、カイユはもっと早くに見限っていただろう。しかし、王女はその心の弱さとは裏腹に、精霊法に関しては天才的だった。その点は実に惜しい。
あれほど広大な支配域を持つ者は、過去に見たことが無い。制御力も同年代の中では抜きん出ており、年齢を考えればまだまだ伸びしろがある。
でも……心が弱すぎる。思慮深さも求心力も足りない。何より時間が足りない。
レノラ・ラプタミエに語った言葉には、何一つ偽りは無い。
王都の、世界の未来は脅かされている。
近年急増する魔物の発生と被害がその兆候だ。
かつて、イスカルデ女王と極光騎士団は、その事実を突き止め、破滅を阻止するためにあらゆる手を尽くした。それでもなお脅威は去ってはいない。
だからカイユが――第二世代の極光騎士が存在する。
◆◇◆
南門をくぐり城壁の外に出ると、大きな牛乳缶をいっぱいに積んだ荷馬車の御者台から、白い口髭をたくわえた老人が、カイユに話し掛けてくる。
「乗って行かんかね? かまわんよ、空荷じゃからのう……」
「では、お言葉に甘えまして」
カイユは、荷台に上って牛乳缶の間に腰を下ろした。
荷馬車はゆっくりと動き始め、南門の外に広がる街、〈影迷街〉を進んでいく。
ここを夜に訪れるのは、よほどの報酬がない限り〈縁あり金〉のランクを持つカイユでも御免こうむりたい場所であったが、日のあるうちに通り過ぎるだけならば、全く無害の場所でもあった。
無事に〈影迷街〉を抜け、街道に出た頃、御者台の老人がおもむろに口を開いた。
「……どうだっだね、アルネット王女は?」
カイユは唐突な質問に驚くでもなく、答える。
「駄目ですね。あの歳にして精霊法の熟練度は大したものでしたが、心が弱い。いざ魔物の前に立ったら、何も出来ずに殺されるでしょう。〈騎士詠法〉は教えるだけ無駄です。生兵法を仕込んで死なれるくらいだったら、後ろで震えていてくれる方がまだマシです」
「ふぅむ……」
御者台の老人は、唸って髭を撫でた。
「……落第、というわけかね」
「王女本人は落第、ですね。とはいえ……ご学友の奮闘に免じて、再試験の機会があれば応じないでもないですが――エリィが出現した以上、もうあまり猶予は無いのでしょう」
「その確証も無い。無いが……うむ、しかし」
老人は、煮え切らない言葉を発した。
言外にカイユを非難しているようにも感じる。やはり老人――「先生」は、カイユがアルネット王女に〈騎士詠法〉を伝授することを求めていたのだろう。
しかし、カイユにも矜持がある。相応しくない相手に教えるつもりはない。
無理矢理、話を変えてみる。
「『雨を呼ぶ魔物』はどうしました? やはり先生が始末したんですか?」
「んむ……私ではない。君でもないのだから、あの子しかおらん。王都でアレを倒せるパーティは幾つかあるが、短期間で終息させたとなると、あの子じゃろう」
「アトラファと言いましたか……私の妹弟子、ですか」
会ったことは無いが、カイユと同じく「先生」の教えを受け〈騎士詠法〉を受け継いだ少女。「先生」は何人か弟子を育て〈騎士詠法〉を伝えたというが、今のところ、最後の弟子がアトラファという娘だと聞く。
カイユは、このアトラファという妹弟子に思うところがあった。
「……なぜ、その子を始末してしまわないのです?」
「君、おっそろしいことを言うのう」
「だって、現時点で単独で魔物を撃破できるくらいなんでしょう。強大化が始まってしまったら手が付けられなくなるのでは……」
「そうなったら私が始末するよ」
と、老人は言った。
情が移ってやりにくいなら、自分がやりましょうかと言い掛けた先を取られた。
不安要素は少ない方が良い。言い募ろうとしたカイユは、
「しかし、もう少し上手く出来んかったのかね」
「は?」
逆に先手を取られてしまった。
老人の、ネチネチとした言葉攻めが始まる。
「君は昔から堪え性が無いというか――」
「だから、教師なんか無理だって、初めから言ってたじゃないですか。子供のお守りなんて私には向いてないんです」
「君自身が子供っぽいから、案外向いてると思ったんじゃがのう」
その言葉にむっとして、カイユは荷馬車から飛び降りる。
手荷物の一番上に入れていた刀の鍔を老人に投げ渡し、
「ここまでで結構。お預かりしていた物、お返しします」
「どこに向かうのかね?」
「ベーンブルに。王都ではだいぶ精神をすり減らしましたので、ベーンブルで美味しいものでも食べ歩いて、その間に今後のことを考えます」
ついでに、仕返しとばかりに付け加える。
「髭、剃ったほうが良いですよ。老けて見えますので」
「む……」
老人がまた髭を撫でるのを尻目に、カイユは街道を逸れた道に歩き始めた。
ベーンブルに向かうには、まだ荷馬車と同行した方が近道なのは分かっていたが、この暑さに加えて「先生」の小言に付き合うのは勘弁だった。
しばらく歩けば村があるのは知っている。今日はそこで宿を取り、食料と水、できたら馬を買って、それからベーンブルに向かおう。
〈学びの塔〉での教職は高給だった。まだ懐は温かい。
カイユは、荷物から取り出したよれよれの帽子をぎゅむ、と頭に押し付けるように被った。
夏の日差しが、眩しかった。
◆◇◆
老人は、不肖の弟子を見送り溜め息を吐く。
首を巡らせ、元来た道――王都の方角を見やれば、入道雲が立っていた。
これから王都は、煙る雨に包まれる。本格的な「雨の降る季節」がやって来たのだ。
その空を見ながら、老人は誰にともなく呟く。
「また王都に雨がやって来る……お前は、まだ旅を続けているのか?」
誰も応えない。他に誰も居ないのだから応えるはずもない。
それでも構わず、老人は続ける。
「……まだ、何処にあるかも知れぬ、都合の良い奇跡を追い求めているのか?」
悲しみより強く、愛より得がたきものを。
老人――クラッグ・トートは、手元の刀の鍔に視線を落とした。
そしてやはり、誰も応える者は居なかった。
だから、クラッグ・トートは刀の鍔に問いかける。
「なあ……イスカルデよ」
――遠く、嵐の音が聞こえる。




