コーリーとアトラファ ③
オイルランプの灯が、小さなテーブルを照らしていた。
厚くスライスした黒パンとチーズが三切れずつ。それから素焼きのコップに一杯の水。
それが、コーリーが金の眼の少女から受けた施しであった。
「いただきます……ありがとう」
コーリーは礼を述べつつ、ちらりと粗末なベッドに腰掛け、髪を梳いている少女の方を窺った。
やはり、あの金の眼が気になる。角度によって色味を変える、濁った金色。その中心に×印を刻んだかのような瞳孔。
魔物でないことは分かったが、あんな不思議な眼をした人間は初めて見るし、聞いたことも無い。何か珍しい目の病気なのだろうか。
少女はコーリーの視線に気付いたのか、それを避けるように俯いてしまう。
「あんまり見ないで」
「ご、ごめんなさい」
コーリーも手元に視線を落として食事に集中する。
会話も無く、もくもくと食べ、ごくんと飲み込む。
何の変哲も無いパンとチーズだが、美味しい。むしろ変に凝ってないところが良い。お腹に貯まるし、栄養が疲れた身体に滲み渡って行くのが実感できる。
それにこの水。湯冷ましとは思えない程によく冷えている。何故こんなに冷たいのかは不明だが、まるで清涼な湧き水のようだ。冷たい水が喉を滑ってゆく感触が心地良い。
食べ始めると、他の事は考えられなくなった。パンとチーズをすっかり平らげ、水を飲み干すと、ようやく人心地着いた。
コーリーが食べ終えるのを待って、少女が言う。
「満足した?」
「うん……あの、本当にありがとう。朝からあんまり食べてなくて」
「家出?」
「えっ」
家出? あぁ、家出してきたのか、と聞いてるのか……。
少女の言葉は端的というか、必要最低限の単語しか口にしないため、返答に詰まることがあった。一人で変な歌を歌っていた時はそうでもなかったくせに、人見知りなのか、どうにも言葉足らずな少女だった。
家出か。実際には違うが、置かれている状況は確かに家出みたいなものだ。
「うん、まぁ……そんなとこ」
「家は?」
「家は……ベーンブル州の、ちょっと王都寄りの辺り。乗合馬車で五日くらいのとこ」
「お金、あるの?」
「うん。たくさんじゃないけど、余裕が全くないわけでもないかな。助けてくれた友達がいて――」
ランプの揺らめく灯を見ながら、問われるままに色々なことを話した。
いくら同じ年頃の少女とはいえ、初対面の相手に所持金がいくらくらいかまで話してしまったのは、少し迂闊かもしれない。
コーリーは話題を変えることにした。考えてみれば、互いに自己紹介すらしていない。まずはそこからだろう。
「あの、遅くなったけど、私はコーリーっていうの。コーリー・トマソン。あなたの」
あなたの名前も教えてもらえる?
そう続けようとした時、コーリーの言葉にかぶせて少女が言った。
「それは、冒険者認識票」
ボウケンシャニンシキヒョウ?
長い……ずいぶん変わった名前もあったものだ。
コーリーが目をぱちくりさせていると、少女が慌てて立ち上がり、訂正する。
「ち、ちがう。名前じゃない。ずっと見てたから、それが何なのか気になってるのかと思って、その」
「いや、別に何も見てないけど……」
「そ、それ! 見てた、よね?」
少女があたふたと指差したものは、ランプの横に無造作に置かれている、ペンダントのような何かであった。
コーリーがじっとランプの灯を見ていたのを勘違いしたらしい。横に置かれていた物については、言われるまで気に留めていなかったのだが。
それはペンダントというより、首からぶら下げるための鎖が付いたタグといった方が正確だが、装飾品ではないにしても美しいものだった。磨かれた銀のプレートを真鍮の枠で縁どりしており、プレートには文字が刻まれている。
『――表記の者を、冒険者として認定する。
所属:ナザルスケトル冒険者ギルド本部。
認識番号:氷魚の七七八 ――――――――』
冒険者認識票。
コーリーはそれに見入った。
「……冒険者…………」
どくん、と心臓が大きく鼓動を打つのを感じた。
冒険者。そう呼ばれる人々を、コーリーは知っていた。
幼い頃は母の寝物語で、〈学びの塔〉では詩作の授業の教材で、何度も聞いた。魔物を狩る者。遺跡の探索者。貴重な自然物の発見者。知恵と勇気を友とする者たち。
この子は、冒険者なのか……。
そんなコーリーをよそに、少女はまだあたふたしている。
「それで、その、名前、わたしの名前は」
「アトラファ」
そう告げると、今度は少女が目をぱちくりとさせた。
「えっ、なんで」
「ここに書いてあったから。あなた、アトラファっていうんでしょう」
表記の者を冒険者として認定する、と書かれた上に、他の文字よりも少し大きく「アトラファ」と刻印されている。アトラファ。それが金の眼の少女の名前。
金の眼の少女――アトラファは気が抜けたように「あ、そうか」と呟くと、すとんとベッドに腰を下ろした。
その後も、アトラファは何か話したそうにしていた。
しかし、本人が口下手なのと、話し相手であるコーリーが急に気もそぞろになってしまったため、この夜はお開きとなった。
(冒険者認識票……冒険者……)
コーリーの頭の中では、その言葉がぐるぐると渦巻いていた。
アトラファがベッドに横になった。
コーリーはベッドの干し草を少し分けてもらい、その上に外套を敷いて、床に簡素な寝床を作った。アトラファはベッドを勧めてくれたのだが、家主を床に寝かせるのはさすがに申し訳なかったし、ベッドは二人眠れるほど広くはなかった。
ランプの火屋を開けて炎を吹き消すと、アトラファの小さな部屋は、たちまち暗闇に包まれた。近くの水路を水が流れて行く音だけが聴こえてくる。
コーリーが寝床に入ってしばらくすると、上からアトラファが話し掛けてきた。
「――もし、ベーンブル行きの乗合馬車を待つなら、〈しまふくろう亭〉っていう宿に泊まるといい」
「……うん?」
横になった途端にそれまで忘れていた疲れと眠気が襲ってきて、うとうととしていたコーリーは、思わず生返事をしてしまった。
それにしても、どこかで聞いたような店名だ。
しまふくろう亭、しまふくろう亭……あの怖そうなおじさんがいた店か。
「見た目は古いけど、安くて料理も美味しいから」
「そうなんだ……ありがとね、色々……」
瞼が重い。
今日は出来事が有り過ぎた。
「学びの塔」を追い出されて……街を歩いて……ちょっと変わった、いやすごく変わった女の子に出会って……。
「おやすみなさい……アトラファ……」
名前を呼ぶと、ベッドの上の少女がもぞっと身じろぎする気配が感じられた。
「おやすみなさい、こ、コーリー……」
照れたように呼び返してくる少女の声が、その日の最後の記憶だった。
コーリーは、眠りの中へと落ちていった。
◇◆◇
明けの鐘が鳴る前、コーリーは目を覚ました。
寝惚け眼で薄暗い室内を見回すと、アトラファがベッドの上で頭まで毛布をかぶって眠っていた。毛布に包まれた小さな肩が、規則正しく上下している。
起き上がると、身体の下に敷いていた干し草がカサカサと音を立てる。手櫛で髪を梳くと、干し草が一本、足元に落ちた。
眠っている家主を起こさないよう、そっと家の外に出る。
早朝の南市街の空気はひんやりとしていた。西のダナン湖から水路が引かれ、張り巡らされているせいか、街には薄くもやがかかっている。
早起きはコーリーだけでないようで、朝もやの中に人影がちらほらと見られる。荷車から商品を下ろす丁稚、両手に桶を下げて水汲みに向かうおかみさん。
庶民の朝は早いのだった。
長く寮生活をしていたコーリーは、久方ぶりにこの空気を思い出すことになった。
――ゴォーン――ゴォーン。
明けの鐘が鳴り響くと、鐘楼に巣くっているキジバトの群れが一斉に飛び立ち、街中に散っていく。
見上げると、白い朝もやの向こうに青空が見える。
朝が来たのだ。
コーリーは深呼吸をすると、家の中に戻った。
ベッドの上では、アトラファが先程と全く同じ姿勢で眠り続けていた。
「すーぅ……すーぅ……」
鐘の音にも煩わされることなく、安らかな寝息を立てている。
一晩の屋根をかしてくれた、変わっているけど親切な女の子。
何かお礼がしたいな、とコーリーは思う。値打ちのあるものなど何も持っていない自分だけれど、せめてささやかな礼の一つもしなければ、女が廃るというものだ。
アトラファが起き出す前に、朝食の準備をしておこう。
身一つで出来ることなど、それくらいしか思いつかなかった。コーリーは「おじゃまします……」と小声で呟きつつ、台所を覗いてみる。
小さなかまどに、水瓶、作業台。
鍋やおたまといった調理器具は、壁に据えられた棚に置かれている。一人分の食器類が籠の中に重ねられ、埃がかぶらないよう布が掛けられている。
普通だ。食材が見当たらないこと以外は。
もしかすると、アトラファが昨晩振る舞ってくれたパンとチーズは、今朝の彼女の糧となるはずのものだったのかも知れない……。
ためしに水瓶の蓋を取ってみると、その中身も空だった。
コーリーは水瓶の横に置いてある水汲み桶を手にすると、外に出た。
◆◇◆
王都には二種類の水路がある。
上流の湖と直接繋がっていて、水質が厳しく管理され、住民の飲料水としても用いられる「主水路」と、主水路から枝分かれして街中に行きわたり、やがて城壁の外へ流れ落ちて行く「副水路」だ。アトラファの家の近くに流れているのは副水路なので、飲み水を得るためには、上流の主水路まで歩かなければならない。
桶をぶらぶらさせながら水汲み場の側までやってくると、コーリーと同じく水汲みにやってきたのだろう女性たちが、井戸端――ならぬ川端会議に興じているところに出くわした。
「――だからあたしゃ、呆れちまったのよォ。『野ネズミのように走り去る、女の小鬼を見た! 誰も信じちゃくれねぇが、俺はたしかに見たんだ!』なーんてさ、うちのヤドロクが真剣に言うもんだからさァ。ただの呑み過ぎだってのよォ」
「すみません、おかみさん。今度お店にいらっしゃる時には、呑み過ぎないように、ちゃんと見ときますから」
「アラ、いーいのよォ。ミィちゃんは何にも気にしなくて! 悪いのは、みーんなうちのヤドロクなんだからさァ――」
話しているのは恰幅の良い年配の女性と、二十歳を超えたくらいに見える若いお姉さんだった。話しているのはもっぱら年配の女性の方で、若いお姉さんは聞き役に徹している様子だった。
まくしたてる年配の女性に対して、お姉さんは穏やかに微笑んだり、時折あいづちを打ったりしながら聞き入っている。
顔立ちも髪の色も全然違うけれど、おっとりとした雰囲気が故郷のマリナ姉さんに少し似ているな、と思いながら、コーリーは二人の後ろに並んだ。
二人はすぐにコーリーに気付き、
「アラ、おはようさん!」
「あっ、おはようございます!」
「おはよう。ごめんなさい、邪魔だったわね……お先にどうぞ」
と、場所を譲ってくれた。
ありがとうございます、と礼を述べてから、コーリーは水汲み場に下り立ち、澄み切った川面に桶を浸した。一度桶を軽くゆすいでから、なみなみと水を満たす。両足と腰に力を入れて持ち上げた。
ぺこりと頭を下げて、二人の横を通り過ぎる。
「……見かけない子だねェ。ミィちゃん知ってる?」
「さあ……どこかの店に新しく入った徒弟さんかしら……」
そんな会話を背中で聞きながら、コーリーは元来た道を歩いて行った。
「ひー、重いぃ……」
アトラファの家まで戻るころには、もう腕が抜けそうなくらい辛くなっていた。
昨晩、彼女はお風呂に入っていたが、あの樽の湯船にお湯を張るためには、水汲みを何往復しないといけないのだろう。身体を拭くだけじゃダメなのか。
そこまでしてアトラファをお風呂へと駆り立てるものとは一体……やっぱり変な子だ。
家の中に入ると、なんとアトラファはまだ寝ていた。しかも、コーリーが水汲みに出かける前と寝姿が変わっていないように思える。
……生きてるの? コーリーは不安になり、ベッドの側に寄ってみる。
「すーぅ……すーぅ……」
安らかな寝息が聞こえる。すこぶる健康のようだ。
最後のひと踏ん張りで、桶の水を水瓶に移し替える。
一仕事終えたコーリーは、水瓶の蓋の上に置いてある柄杓を手に取り、汲んできたばかりの水でごくごくと喉を潤した。
ぷはっ、美味い。
家主が目覚める気配が無いので、置き手紙をしたためることにする。
少ない手荷物の中から、寮の自室より持ち出した紙束とペンを取り出す。しかしインク壺が見当たらない。置いて来てしまったか……と悔やんでから、そもそもインクを切らしていたことを思い出した。
仕方が無いので、代わりに使える物を探す。コーリーはかまどから薪の燃えさしを拾い、その尖った先に水をつけてペンの代わりとした。少しばかり扱いにくく、文字もかすれたが、読めないことはないだろう。
そういえば、アトラファは字が読めるんだろうか……と心配になったが、あの冒険者認識票には文字が刻印されているし、もし本人が読めなくても、代読という手もある。
コーリーは安心して手紙を書き始めた。
『――昨日は、貴女のおかげでとても助かりました。
お礼をしたいのですが、出来ることも無いため、せめて水を汲んでおきました。
宿と食事代は置いて行きます。
教えてもらった〈しまふくろう亭〉に行ってみようと思います。
落ち着いたら、改めてお礼にうかがいます――』
うか、がい、ます、まるっと――。
あまり長くなりすぎても良くないだろう。コーリーは手紙の出来栄えに満足した。
蜂蜜瓶の中から銅貨五枚を……少し考えてから七枚を取り出し、手紙の上に重石替わりに置いた。
「…………じゃあね、アトラファ」
バタン。
眠り続ける少女を背にドアを閉じる。コーリーはその場所を後にした。