銀の王女と異邦の旅人 ⑥
夕食までには起き出すつもりだったのに、目覚めたのは次の日の明け方だった。
朝焼けを夕焼けと勘違いするほど、長く深く寝入ってしまった。
「………………むにゃ」
アルネットは、寝惚け眼をこすりつつ寝台を下り、身支度を整えた。
ひどく空腹だったので、兎にも角にも食堂へ向かうことにする。
今日から授業に復帰しなければならない。授業中にお腹の虫が鳴きでもしたら、目も当てられない。
廊下に出ると、昨日アルネットが破壊した向かいの部屋のドアは、まだそのままになっていた。内部に散乱した炭の破片が生々しい。例の少女の姿はない。
うっ、我ながら、やり過ぎた感が否めない……。
今までは寮生たちとの小競り合いがあったとしても、互いに精霊法による煙幕弾や閃光弾を撃ち合う程度のものだったが、昨日はついに器物破損に及んでしまった。
一晩寝て冷静さを取り戻すと、やらかした事の大きさに落ち込む。
「わらわちゃん」に呑まれ過ぎて興奮していた。これでは、悪評を認めて自ら吹聴しているようなものだ。それどころか、学院による何らかの処分は免れまい。
当然、王宮にも報告されるだろう。サーリアの大目玉と母の落胆を思い、アルネットは朝から鬱になった。
◆◇◆
アルネットが食堂に入ると、食事中の寮生たちはいっせいに静まり返った。
もとより距離を取られてはいたが、今朝はいつもと違う、非難を帯びた硬い空気が食堂に充満していた。
騒がしくおしゃべりしながらの食事は慎むべきものとされているので、普段から寮生たちは、努めてなるべく静かに食事をする。しかし今はカトラリーが触れる音すら無い。全員が食べるのを中断して、アルネットの動向を注視していた。
原因は分かり切っている。昨日、寮の個室のドアを精霊法で破壊した件だ。
そのせいで、これまでアルネットと明確に敵対せず、態度を敬遠に留めていた最大多数派の寮生までも敵に回してしまった。ドアをぶち破ったという事実が、「王女は暴虐である」という噂の裏付けになってしまったのだ。
アルネットは俯きそうになるあごをきっと上げ、非難の視線の中を歩き、一人でテーブルに着いた。
……打開策はある。
器物破損は事実であり、過ちだったが……得たものが無かったわけではない。
ドアを壊された向かいの部屋の住人、榛色の瞳の少女――何年生かも分からないが――彼女と再び接触すれば、嫌がらせグループの正体に近付くことができるはず。
◆◇◆
あれから数日、榛色の瞳の少女との接触は難航していた。
廊下を挟んだ向かいの部屋の住人だというのに、まったく会えなかった。
時間が経つにつれ、自分があの少女にこだわる理由が分からなくなってくる。
はじめは、不埒者が逃げ込んだ部屋の主こそが、数々の噂や嫌がらせを指示している者か、それに近しい者に違いないと考えていたが、本当にそうだったのか。
たまたま親切心から追われている者を匿っただけの、一般生徒だったのでは……?
だとすれば、とんでもない遠回りをしていることになる。
それでもなお、会いたいと思う理由は……強いて言えば、あの少女とは話ができたからだ。逃げたり攻撃を仕掛けてきたりもせず、反論できないような遠くから非難を浴びせたりもしない。そういう相手。
アルネットが破壊したドアは、事件の翌日には新しいものに替えられていたが、この数日間、自室から聞き耳を立てていても、向かいのドアが開く音を聞くことは無かった。
訪問しようとも考えたが、破壊行為をやらかした手前、人目が気になった。
先方が快く入室を許可するとは思えず、かといって前回のようにドアをドンドン叩いたりしたら、おそらく女子寮の緊張の糸が切れる。
寮生の全員が団結し、「破壊と暴虐の王女」アルネットと対決するだろう。
戦闘状態になったら……たぶん、全員を蹴散らせると思えた。
しかし、焦土に一人、勝者として立つのはアルネットの望みではなかった。
アルネットは名誉を回復したいのだ。
今年度の初めから、どこからともなく流れた根も葉もない噂を払拭したいのだ。
別に今更「友達が欲しい」とか「味方になって欲しい」なんて望んでいない。ただ、次期女王たる自分が、破壊と暴虐の王女ではないことを周囲に証明したいだけだ……。
今のところ上手く行っていないどころか、本当に寮の設備を破壊してしまったが、なぜか、〈学びの塔〉はアルネットに何の処分も下していなかった。
◆◇◆
授業の最中もアルネットは、榛色の瞳と蕎麦蜂蜜の髪色の少女を探した。
いつもは教師の声が聞き取りやすく、黒板の字も見えやすい、講堂の前の席を好んで取ったが、ここ最近は後ろの席を取って生徒たちの後ろ頭を眺め、その中にあの少女が居ないか探した。
あの、蕎麦蜂蜜のような黒っぽい茶髪……。
似たような髪色を見つけて授業の後に走っても、あの少女だったためしは無かった。追いかけた相手に怯えられるだけに終わった。
同じ学年ではないのかも。上級生かも知れない……でも、寮生は大体、同学年が同じ棟にまとまっているはず……。
進展のないまま、今日もアルネットは授業中、講堂の中にあの少女が居ないか探した。
すり鉢状の講堂の中心で、壮年の教師が黒板を指し示しながら授業をする。
今日の座学は、精霊の分類とその性質に関する講義だった。
「――このように我々は古来から、この精霊を『氷精霊』と呼び慣わしています。しかし、この精霊の性質を鑑みるに、本来は『停滞の精霊』と呼ぶべきであり……つまり、氷の精霊法によって引き起こされる、温度の低下という現象は副次的なもので――」
教師の声が、耳を上滑りしていく。
あっ、あの髪の色は、向かいの部屋の少女に似ている。
でも、あの人は一昨日追いかけた人だったかも……。
今になってアルネットが後悔しているのは、寮生の顔を覚えようとしなかったことだ。不本意な入学、釣り合わない身分の学友……それでも、交友を深めるべきだった。
そうしていれば、悪い噂が流れた時に、「王女はそんな人じゃない」と言ってくれる人が現れたかも知れなかったのに。
教師が講義を続ける。アルネットは頭を振って授業にに集中した。
「――難しいのが『風精霊』です。この精霊はいわば『流体の精霊』と呼ぶべきであり……我々人間が水棲生物であったなら、風ではなく水精霊と呼ばれていたかも知れません。『流体の精霊』と言うだけあって、この系統の法術を極めれば、炎や雷をも制御し得るでしょう……であるなら、我々が『火精霊』と呼び慣わしている精霊の本質はというと――」
火精霊の性質は「活性」と、それに伴う「混沌」だ。
光精霊の性質は「秩序」……他の精霊に対してやや優位な性質を持つ。
土精霊に性質は……謎だ。
伝承が示す土の精霊法を試して発動した例が一つも無いため、土精霊が何を司っていたのかは謎のままだ。風精霊の対になる性質ではないかと推測されるが、土精霊はすでに絶滅したと考えられ、よって「失われた精霊」と呼ばれる。
「そして、最後の一柱、闇精霊は――」
教師が更に続けようとした時、終業の鐘が鳴る。
◆◇◆
――リーン――ゴーン。
鐘の音と共に、生徒たちの肩から力が抜け、講堂の空気が緩んだ。
教師は、しばし宙を見て鐘の音に聞き入っていたが、やがて言った。
「む……。今日は、ここまでとします。次回はこの続きから――」
教科書を抱えた教師が講堂を退室すると、生徒たちも席を立ち始める。
アルネットは最後まで残り、出て行く生徒たちを一人ずつ観察したが、その中にあの少女はいなかった。
同じ講義に出席していないということは、同学年ではない可能性が高い。年齢は自分より一つか二つ上に見えたので、おそらく上級生だろう。
同級生でないとすると、寮の外で探すのが面倒になった。こうなれば、注目を集めるのを覚悟で再び突入……もとい、訪問を試みるべきだろうか。
アルネットは、自分以外の生徒が全員退室したのを見届けてから、席を立った。
講堂の扉を引き開け、廊下に出る。
そのまま女子寮へ向かおうとしたアルネットに、背後から声を掛ける者がいた。
「――王女殿下。ごきげんよう」
廊下で声を掛けられるなど、孤独な寮生活を送るアルネットには予想だにしない事態だった。不覚にもビクリと肩を震わせて、立ち止まる。
振り返ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。
赤みがかった金髪をお団子にまとめ、瞳の色は灰色に近いブラウン。背が高く、姿勢も良くて美人に見える。口元には自信に満ちた、上品な微笑。
基本的に他人の顔を覚えないアルネットにとっては当然、見覚えの無い少女だった。
「……そなたは」
「申し遅れました。わたくしは、ベーンブル貴族の末席に連なるラプタミエ家の娘、名をレノラと申します」
少女――レノラ・ラプタミエは、優雅に膝を折って挨拶を寄越した。
アルネットは即座に苦手意識を覚えた。
精神的な武装である「わらわちゃん」は弱腰の相手にぐいぐい行くのは得意だが、こうした自信ありげな相手は最も苦手とするところだった。
できれば、早々に会話を打ち切って女子寮に戻りたい。
「ベーンブルのラプタミエ家のレノラ。わらわに何用か」
「最近の殿下のご様子を見て、お尋ねしたいことがございます。ご返答如何によっては、おそれ多くも諌言申し上げることがあるかと存じます」
「……申せ」
アルネットは、警戒した。
女子寮に味方はいない。しかし、アルネットの動向はどうやら注目されているので、自室の向かいの部屋の少女と再度接触を図ろうとしているのは、筒抜けになっている可能性がある。このレノラという少女は、そうした意向を受けて遣わされた斥候ではあるまいか。
レノラは微笑を消し、アルネットを真正面にとらえて尋ねてきた。
「コーリー・トマソンについて探っているのは何故ですの? それとも、コーリーが住んでいたあの部屋に何かあるのですか?」
コーリー・トマソンとは聞いた覚えのない名前だったが「それは誰のことか」などと聞き返しはしない。問うまでもなく、数日前にやりあった榛色の瞳の少女のことだろう。
そう……あの者はコーリーという名前なのか。
学年を調べる手掛かりにはなりそうだ、とは思ったものの、レノラは気になる言い回しをしていた。
アルネットは尋ねる。
「住んで『いた』とは? コーリーという者は、別の部屋に移ったのか?」
「何を……」
レノラの眉の間にしわが刻まれ、眼差しに確かな敵意が宿った。
後に思い返すに、レノラは「何を白々しいことを」と言い掛けていたのだと考えられる。
この時、何も知らなかったアルネットは、レノラに言い募った。
「そなたは、あの者の友人か。ならばそのコーリーという者との面会の機会を設けてもらいたい……わらわの周囲をうろついて悪評を流している連中の……」
「出来ませんわ」
「……なぜ」
「コーリーに、これ以上何をなさるつもりですの?」
これは……自分がコーリーという者に暴力を加えるとか実家まで追い詰めるとか、そういう風に思われているということだろうか。
そう思われても仕方がないことをしてしまったが……。
「危害を加えようなどとは思っていない。ただ改めて話をしたいだけじゃ。そなた――レノラよ。『コーリー』とやらの行き先を知っているなら、包み隠さず申せ」
「存じ上げません。わたくしもコーリーからの連絡を待っているところですの」
「それはどういう……」
「コーリーは〈学びの塔〉を離れました。退学処分になったので」
それを聞き、アルネットは目を見開き、息を飲んだ。
あの者が退学。なぜ。
あの日、ドアを破壊してコーリー・トマソンの部屋に押し入った。
その咎で何らかの処分を学院から下されるのではないかと、アルネットは戦々恐々として過ごしていた。
しかし、実際に退学処分されたのは、被害者であるはずのコーリーだった。
(……なぜ?)
思考にとらわれ立ち尽くすアルネットに、レノラは言った。
「コーリーはわたくしの親友です。あの子は成績優秀で……まぁ、品行方正でした。あの子が退学になるなどあり得ません。王女殿下、貴女が権力を使って、追い出しでもしない限りは」
「違う、わた……わらわは、」
「学院から追放しただけでは飽き足らず、コーリーを探し出して、これ以上何かするつもりなのですか? わたくしは許しませんわ。たとえ貴女が王女でも戦います……言いたいことは、それだけです」
レノラは踵を返し、廊下を歩いて行った。
その背中を、アルネットは言葉も無く呆然と見送った。




