コーリーとアトラファ ②
「ひぃ、はぁ。何やってるんだろう……私」
石壁に背をもたれ掛けさせ、呼吸を整える。
自分はもっと器用な性質だと思っていた。
レノラをはじめとする寮の子たちと比べて、自分は田舎育ちのお上りさんで、上流階級の慣習などに疎いことは自覚していた。でもその中で上手く立ち回ってきたつもりだった。また、田舎者だとしても、その分、生活力だとか逞しさだとか、生命力みたいなものに長けているのが自分だと思い込んでいた……。
でも、実際にはどうだ。予期せぬワガママ王女の襲来をあしらうことも出来ず、逆鱗に触れて寮を追い出され、食い扶持を得るための道筋を見つけられずに街をさ迷い、挙句の果てには宿を借りることもままならず、今、こうして暗い路地裏で座り込んでいる。
見上げた屋根の隙間から、星が瞬いている。
さらさらと水の流れる音がする。水路が近いのだろう。
もうここで眠ってしまおうか。疲れたし、お腹も空いたし……。
コーリーは、服や頬が汚れるのも構わず、ころんと横になってしまった。
石畳というのは、もっとひんやりしているものと思っていたが、意外に生温かい。昼間の太陽の熱がまだ残っているのだろうか。
まぁいいか、どうでも良い。何も考えたくない。
(………………)
あぁ、本当にこのまま眠ってしまいそう……。
――――ふぁーふぁーふぁー♪ るららら~♪
どこからか、調子外れな歌声が響いてきたのは、その時だった。
歌っているのは女の声で、曲はコーリーが聴いたことのないメロディーだった。
知らない歌だったが、その歌い手がひどい音痴であることだけは分かった。
「むっ……。………………」
コーリーは無視することにした。
ここは酒場が密集する地域の路地裏。女の酔っぱらいが下手くそな歌を披露していても、おかしくはない。そのうちに静かになるだろう。
しかし、
――ららーるら♪ らぁらーりーら、るーらら~♪
うるさい。実にうるさい。
コーリーは眉間に深いしわを刻みつつ、むくりと起き上った。
悠長に寝ていられる状況ではなかった。歌声というよりも音波攻撃であった。ただでさえ疲れ切っているというのに、これは精神に堪えられない。
公共の通路に勝手に横になっていたのはコーリーなのだから、文句を言える筋合いではもちろんない。
だが、この世にも珍妙な音波――歌とは認められない――の発生源の顔くらいは拝んでやっても精霊の罰は当たるまい。
暗く狭い道を、更に奥へと進む。
――ふぁらりらーらら♪ ふぁーらぁーらぁーるる~♪
星明りを頼りに細く急な階段を下りると、水路の側に出た。
音波の発生源も、いよいよ近くなってくる。
水路に面して、家々がぎっしりと立ち並んでいた。貴族や金持ちの私邸が多い北市街とは違い、この時刻に明かりが灯っている窓は少ない。しかし、先ほどの路地裏よりはいくらか視界が開けている。
立ち並ぶ家々の中、一際水路に近い、低い場所に小さな家が建っている。
大雨が降って水路が増水したら、一階部分は水没してしまうのではないか? と見ていて不安になるような佇まいだ。そして、迷惑な音の調べは、その小さな家の裏手から聞こえていた。
近づくと、もくもくと煙が――いや、物が燃えるような臭いはしないので、湯気が立ち上っている。一体そこで何が行われているのか……。
コーリーは荷物をそっと足元に下ろした。息を潜めてその場所を覗き込もうとし、
「あっ」
そのままずっこけた。
地面に浅く溝が掘られていたのだ。それは不届き者を懲らしめるための罠――ではなく、水捌けを良くするための排水溝だったのだが、コーリーがそれを知る由も無い。
体勢を崩したコーリーは、何故か目前に吊るされていたシーツのような広い布を掴もうとし、それも失敗して、布に巻き込まれる形で地面に投げ出された。
「わっ、ぎゃっ! なにこれ!」
「ふぁ♪……ふぁっ!?」
突然の闖入者に、そこで気持ちよく音波を発信していた人物も驚いたのだろう。歌が中断されて悲鳴に変わる。
ばしゃっと水音が鳴った。
「いったたた……」
纏わりつく布を振りほどき、コーリーは顔を上げてその人物を見た。
その人物もコーリーを見ていた。
いや、それは人なのだろうか。
(…………。魔物だ!)
と、コーリーは思った。
それはコーリーと同じ年頃の少女だった。
濡れそぼった灰色の髪、星明りに映える白い裸身。
その少女が、コーリーには魔物と思えた。
コーリーは実際に魔物と遭遇した経験は無い。当然だ。一般人が魔物の姿を目の当たりにすることがあるとしたら、それは食われて死ぬ時だ。
そんなコーリーに「魔物だ」と思わせたのは、その少女の眼だった。
濁ったような金色の虹彩、その中心には×印に切れ込みを入れたような瞳孔がある。人間の瞳の形ではないし、他のどんな生き物の瞳にも似ていない。魔物の眼だ、とコーリーは思ったのだった。
その奇妙な眼をした魔物は、上半身が少女の姿で、下半身は樽だった。
葡萄酒や麦酒などを保存するための容器である、あの樽だ。コーリーはこの半人半樽の魔物を、心の中で樽娘と名付けた。
「………………」
「………………」
しばし無言で見つめ合う。
コーリーはというと、下半身が樽だったら移動するとき大変そうだなぁ。あっ、転がれば良いのか。でもそうしたら方向転換はどうやって……などと、樽娘についての想像を膨らませていた。
樽娘の方は、この状況に居たたまれなくなったのか、ススススっと上半身を樽の中に隠してしまった。
なるほど、危険を感じるとカタツムリのように樽の中へ身を隠すのか……その習性に感心するコーリーだったが、
「……だれ?」
樽の中から声を掛けられ、我に返る。
まさか人語まで解するとは。油断ならない。
「えっと、その……歌? が聴こえてきたから、何があるのかなーっと思って」
「歌、聴いてたの?」
「聴いてたというか、苛まれていたというか……」
慎重に立ち上がりながら、頭の中で逃げる算段を整える。
荷物までは数歩の距離。周囲は暗いが道は覚えている。樽娘の上半身はまだ樽の中にあり、こちらの動きは見えていない。脱兎の如く駆け去るべし。
よし今だ。
ぐぎゅっ。
間抜けな音が辺りに響いた。
コーリーにとって馴染み深い、そして今は最も聞きたくない音だった。
くぅっきゅるるるるる。きゅるっ。
止まらない。あぁ。私のお腹の馬鹿……。
逃走のチャンスは潰えた。樽娘が、樽の縁から顔を覗かせてコーリーの様子を窺っていた。
「お腹、空いてるの?」
「うぅっ。はい……」
憐みの視線が痛い……というか、魔物に憐れまれている自分とは一体……。
コーリーは、己という存在について考え始めた。
「何か食べさせてあげるから表に回って待ってて。お風呂から上がったら鍵を開ける」
「はぃ、ありがとうございます……えっ、お風呂……お風呂!?」
それ、お風呂だったのか。
変な子だぁ、と、自分のことは棚に上げてコーリーは思う。
怪奇・樽娘は存在しなかった。
かわりに、樽のお風呂に入り、歌が下手で、×印の瞳を持つ少女がそこに居た。
コーリーと金の眼の少女の、これが最初の出会いだった。