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銀の王女と異邦の旅人 ②

 翌朝。

 チチ、チチュンと小鳥が窓辺でさえずる声に起こされた。


 天蓋の白いレースが、朝の光を柔らかく透過している。

 疲れていたためか、何だかんだで睡眠はとれた気がする。

 今日は、五月の一週、氷魚の日。


「暗黒の寮生活再開まで、あと四日……」


 起き抜けにどんよりと呟く。

 こんな爽やかな朝に、起きてすぐに意気消沈とは。

 我ながらそうとう参ってるなぁ、とアルネットは自嘲した。

 育ちざかりなので身体の疲労は一晩も眠ればほとんど取れるが、精神の疲労は募って行くばかりだ。

 しかし、そうも言ってはいられない。サーリアや両親を心配させないよう、普段通りに挨拶できるくらいには笑顔を取り繕っておこう。


 起き上がろうとしたアルネットは、身体の異常に気付いた。

 足が痺れている。というより、足の上に何か乗っている。

 ぐにゃぐにゃした、柔らかくて、温かい何かが。


「――――っ!?」


 アルネットはバネ仕掛けのような勢いで上半身を起こした。

 見ると、薄手の毛布がこんもりと盛り上がっていた。

 毛布の山が、もぞりと動いた。

 アルネットが動かしたのではない。足に乗っている変なものが動いたのだ。


 生き物か。得体の知れない生き物が、自分の足に乗っかっている――!

 毛布を掴み、一気に引き剥がした。バサッと毛布が翻り、白いレースを揺らす。

 アルネットは目を見張り、息を飲んだ。


「だ、だれ? なんで」


 自分の膝の上に居たのは、裸の少女だった。

 肩の辺りまで伸びた真っ直ぐな黒い髪。チーズを溶かしたような滑らかな肌。歳の頃はアルネットと同じくらいに見える。

 見知らぬ少女が、王女であるアルネットの寝台で寝ている……なぜか裸で。


 由々しき事態であった。

 アルネットは少女の身体の下から痺れた足を引き抜き、寝台の端に避難した。

 大きく息を吸い込み、


「りょ」


 慮外者(りょがいもの)ぉ――――――――――――――――――――――っ!!


 と、叫ぼうとした。

 しかし、それは叶わなかった。枕にしていた足を引き抜かれたことで目を覚ましたのだろう。黒髪の少女がぼーっとした眼でアルネットを見ていた。


 アルネットはその眼を見て怯みかけた。

 次第に見開かれる黒い大きな瞳。薄い桜色の唇が動いた。


「……オカーサン?」

「ちがいますっ!」


 とんでもないことを口走ったので、すかさず否定する。

 アルネットは、裸身を隠そうともせず、ぺたんと座っている少女を睨みつけた。


「あ、あなたは自分が何をしているのか分かっているの。どこから入ったのか知らないけれど、ここは王女の寝室で、わたしこそは次期女王アルネット・アイオリア――」

「あうねっと?」

「アルネットっ!」


 訂正すると、少女は「あうねっと!」と幼子のようにはしゃいだ。


 ――この子、少し頭がおかしいのでは……。

 そう思ったが、王女の寝室に見知らぬ者が忍んでいるというこの状況が、初めからおかしい。

 ここは王室居住域の端。それに外には常に警備の兵がいるし、王族が使用する部屋の側には高い樹は植えられていない。


 ――この少女は、どこから入って来た?

 アルネットは、無邪気に「あうねっと」を連呼する少女に毛布を投げ渡した。裸でいるのを見ていられなかったからだが、近付いて手渡すのは怖かった。

 毛布を受け取った少女は、両手でそれを掴むと、ふんふんと獣みたいに鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ始めた。


「嗅がないで! それで身体を隠しなさい。はしたない。それに、わたしが名乗ったのだからあなたも名乗るのが礼儀でしょう」

「なまえ? ……えりは、エリィ!」


 言葉は通じるようだ。アルネットはほっとした。

 考えてみれば、悲鳴を上げたり大声で助けを呼んだ途端に、飛び掛かられていた可能性もあった。

 少し待てば、侍従のサーリアが来る。それまで慎重に時間を稼ごう。


「エリィというのね。エリィはどこから来たの。家は? 家族は?」

「えりは、りゅきの。ルキノエリィ!」

「ルキノ? ルキノ家のエリィ?」


 問い返すと、少女はぶんぶんと頭を振った。

 酸っぱいものを食べた時のように口をとがらせて、「ルキノ、リュキノ、ルキノ」と繰り返した。


「分かった、分かったから落ち着いて。エリィ・ルキノ」


 ルキノ家なんていう貴族がいたかな、と考えながらアルネットは少女を宥めた。


 ――仮に貴族でないとすれば平民だ。平民がどうやって王宮に?


 次から次と分からないことが浮上してくるが、名前を知ることは出来た。

 エリィ・ルキノ。それが黒髪の少女の名前。



     ◇◆◇



 エリィは、名前の他には意味のあることを語らなかった。

 どこから来たのか、どうやってこの部屋に入ったのかを尋ねても、本人は首を傾げるだけ。質問を理解しているのかも怪しい。

 それどころか、隙あらばアルネットに抱きついて匂いを嗅ごうとしたり、強引に膝枕を求めてきたりする。


「ふ、不敬! わたしは王女で……っていうか何で嗅ぐの! 匂いなんてしないから!」

「ぬぅー!」


 二人は寝台の上でせめぎ合った。

 ぐりぐりと頭を押し付けてくるエリィを、アルネットは両手を使って全力で阻止した。

 不埒な……というより、大きな犬に懐かれている気分だった。

 少なくとも悪意を感じることは無かったが、


「ていっ!」


 埒が明かないので、アルネットは暴力に訴える。

 手刀をぽこん、と額に打ち下ろすと、エリィはようやく動きを止めた。

 かわりに、信じられないものを目にしたような眼差しでアルネットを見た。

 その瞳がみるみる内に、涙でうるんでゆく。


「そ、そんなに強く叩いてないでしょう……」


 アルネットは弁明したが、エリィは聞く耳持たず。

 あー、と大きく口を開け、今にも大声で泣き出す構えを見せる。


「待って! 泣かないで…………あぁ、もう」


 しかたなく、「ごねんね、痛かったね、よしよし」と頭を撫でてやると、エリィは無言でアルネットの身体にしがみつき、肩の辺りにぎゅっと顔を押し付けてきた。

 その背中をぽんぽん叩いてあやしてやりながら、アルネットはぼやいた。


「早く来て。サーリア……」


 頼りになる侍従の名を口にした時、はたと思い至った。

 サーリアが来たら、エリィはどういう扱いを受けることになるのだろう。

 王女の寝室に侵入した不審者……しかも裸……犯罪者。そして…………極刑。


(極刑……)


 その罪が極刑に値するかどうかは分からなかったが、確実に捕らえられ、牢屋に繋がれ、何らかの罰を受けることは明らかだ。極刑でなくても、おそらく重罪だ。


 得体の知れない子だが、エリィがそうなってしまうのは可哀想に思えた。

 なぜか自分に懐いてくるエリィを、今や危険人物とは思えなくなって来ていた。


 でも……、助ける理由だって無い……。

 その時、コツコツ、コツコツと寝室の扉がノックされた。


「姫さま、起床のお時間です」


 サーリアが来た。

 アルネットは、咄嗟にエリィの両肩を掴んで引き剥がした。


「えぅ?」


 エリィが不安げな眼差しをこちらに向けた。

 アルネットは、自分の心が痛まない方法を、瞬時に導き出した。

 サーリアをやり過ごして、エリィを逃がす。


「エリィ、こちらへ」

「?」


 状況が分かっていないエリィを、寝室のテラスへと導いた。

 遠くから見られたりしないよう、エリィをしゃがませると、アルネットは唇に人差し指を当てた。


「エリィ。しゃべってはダメ」

「しー?」


 理解しているのか謎だったが、エリィはアルネットの真似をして、自分の口もとに指を持ってくる。

 アルネットはその頭を撫でて頷くと、寝室の中へ一人で戻った。


「……起きています、サーリア」

「では、本日のご起床の儀を」


 扉の外に声を掛けると、二人の侍女を引き連れたサーリアが入室する。

 侍女は椅子にアルネットを座らせ、もう一人の侍女が洗顔の準備を整える。

 毎朝の、洗顔と整髪が始まる――。



     ◆◇◆



 ――侍女の手で髪を梳かされ、結われている間、アルネットはテラスの方が気になって仕方がなかった。

 今のところ、エリィは言いつけを守って身を潜めているが、いつまた裸で飛び出してくるか分かったものではない。


 露骨に視線を向けていては、察しの良いサーリアに気付かれてしまう。

 お願い。良い子だから大人しくしていて……。


「――さま。姫さま、聞いておられますか?」

「っ! なにかしら?」

「本日のご予定です」

「えぇと。今日は休養を取りたいと思います。元々そういう予定だったでしょう。それから……サーリア、あなたも今日は休みなさい」


 つとめて平静を装って言ったつもりだった。

 しかし、熟練の侍従サーリアの眼がきらりと光った。


「お休みを、私に?」


 しまった。先走りすぎた。

 もっと自然に話を運んで行くべきだった。

 気のせいかもしれないが、サーリアから重圧が向けられているように感じる。疑念という重圧が……。

 アルネットは、優雅な微笑を盾として重圧を受け流そうとした。


「一人でくつろぎたいの。本を読んだり、庭園を散歩したり……構わないでしょう?」

「……左様でございますか」


 サーリアは納得したようだった。

 これで安心……いや、危ない。露骨に安心して見せたら、サーリアに怪しまれてしまう。


 笑顔、笑顔……優雅に……。

 針のむしろに座るような、起床のひと時が過ぎていく。

 侍女たちの手を借りて、王宮での普段着に袖を通す。


 ようやくサーリアは二人の侍女を伴って、アルネットの寝室を退出した。


「疲れたわ……朝から……」


 アルネットはげっそりと呟いた。

 しかし、休むのはまだ早い。迅速に次の行動へ。


 テラスにエリィの様子を見に行く。

 エリィは言いつけ通りに蹲って、声を出さないよう両手で自分の口を押えていた。

 上目づかいの黒い瞳がちょっとだけ可愛い、とアルネットは思った。


「エリィ、このままもう少しだけ我慢して」


 そう言うと、エリィは無言でこくりと頷いた。

 やはりエリィは言葉を理解している。それどころか、目覚めた直後より今の方が意思の疎通をスムーズに行えている気がする。

 学習している? いや……まさかこんな短時間で。学習しているのではないとすれば、思い出して来ているのか……エリィは記憶喪失?


「……あなたの服をどこかから持ってくるから、それまで隠れていてね」


 エリィは、また上目づかいでこくりと頷いた。

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