Iscardia-雪野絵里の旅立ち-
「これまでの人生で食べた物の中で、一番美味しかった物は?」
――そういう質問をされたなら、人は何と答えるのだろう。
そんなことを、雪野絵里は考える。
遠足の日、おばあちゃんが作ってくれた鮭のおにぎり。
塩をまぶし、ふんわり小さく握られ、しっとりと海苔がまかれているおにぎり。
お父さんがおばあちゃんには内緒で、こっそり買ってくれたチーズバーガー。揚げたてのフライドポテト。
絵里にジャンクフードをあまり食べさせたくなかったらしいおばあちゃんには悪かったけど、とても美味しかった。
夏休み、友達とその家族と、キャンプ場で天体観測をした時に食べた、バーベキューとソフトクリーム。目当てだった流星群は良く見えなかったけれど、料理が美味しかったことは良く覚えている。
クリスマスにお父さんが買って来てくれたケーキ。
お正月には、おばあちゃんがお雑煮を作る。
昆布と鰹の削り節を使い、焼き餅を入れた、濃い味のお雑煮。
美味の記憶はいつだって思い出と共にあり、絵里には、どれが一番と決めることは出来ない。
「これまでの人生で食べた物の中で、一番不味かった物は?」
――そういう質問をされたなら、人は何と答えるのだろう。
その質問には、絵里はハッキリと明確に、迷いなく答えることが出来る。
それは「母の味」だ。
亡くなった母親のことはほとんど覚えていないが――三歳か四歳くらいの頃――絵里にとって最も古い記憶の中で、母が幼い絵里に食べさせてくれた物がある。
それは黒真珠のような、丸く艶やかで小さな果実だった。
その際、母はこんなことを絵里に言い聞かせていた。
――絵里。あなたの人生を、あなたの時間を……少しだけお母さんに分けて。
――お母さんの旧い友達と、絵里の未来の友達を助けるために、力を貸して。
言っていることの意味は分からなかったけれど、幼い絵里は母を喜ばせたいと思い、その黒い実を受け取り、口に運んだ。
舌の上で転がして齧った瞬間、想像を絶するえぐみと、他の何にも例えようもない匂いが、絵里の口の中に充満したのを、今でもそれだけは覚えている。
……なぜ、母があんな物を絵里に食べさせたのかは、分からない。
あれから歳月を経た今にして思い返せば、あんな劇物を我が子に与えるのは、虐待の一種ではなかったのか、と思えなくもなかったが……ただ、アレ以外に母に不味いものを食べさせられた、という記憶もない。
亡き母親について覚えているのは、ほぼそれだけ。
絵里にとって家庭の味といえば、それはおばあちゃんの手料理の味――……。
◇◆◇
……――信号の青が点滅して赤に変わり、雪野絵里は、横断歩道の手前で立ち止った。
目の前を、ヘッドライトを点灯させた車が何台か通り過ぎていく。
街路樹として植えられている楡の木々が、風にさわさわと揺れた。
街灯の白い光が眩しく、星は見えなかった。
今日も、学習塾をサボった。
塾は、絵里が希望して通っていたものではなかった。一学期の期末試験で成績を落とした絵里を心配した父が、勝手に夏期講習の受講を申し込んだのだった。
絵里に母親はいない。絵理が幼い時分に亡くなってしまった。
まだ絵里が父と良く話していた頃、亡き母の話を父にせがんだ。
――お母さんはきれいな人だったよ。きれいで才能のある人だった。
母について語る時、父は決まってそう言った。
――派手で、はすっぱな人だったねぇ。人好きする性格の子じゃなかったけど……いつだって誰かのために何かしてた。だから、アタシも好きになったのさ。
母について語る時、おばあちゃんはそう言った。
美人で、歌が好きで、写真が嫌いだったという母。変わった人だったようだ。
写真を遺さなかったおかげで、絵里は母親の顔さえ知らない。
早くに亡くなってしまうなら、娘のために写真の一枚くらい残しておくべきだと思うのだが、当人も早逝するつもりなど無かっただろうから、そこは責められない。
絵里の両親は、共にゲームを作る仕事をしていた。
学生時代に二人は出会い、同じ志を抱いた。父はゲームを作る会社に就いて、母は創作の道に。二人はやがて恋に落ちて結婚して、絵里が生まれた。
でも、母は若くして亡くなってしまった。
一人になった父は、ゲームの会社を辞めなくてはいけなくなった。
ゲームを作るという激務をこなしながら、一人で絵里を育てて行くのは無理だったのだ。
父は田舎の両親――絵里にとっての祖父が遺した家に移り住み、地元のスーパーマーケットに転職した。
ゲーム作りという生きがいを、絵里のために諦めたのだ。
絵里は、父の人生の重石だった。
父の部屋に、絵里には難しいプログラムの本が何冊もあることを知っていた。
本当は父はゲームの仕事がしたいのだ。自分の生きがいで、夢で、亡き妻との絆でもある、ゲームを作る仕事を。
それを感じ取ってから、絵里はずっと父と上手く話せないでいた。
◆◇◆
信号が青に変わり、絵里は歩き出した。
塾をサボったからといって、何が良くなるわけでもない。受講料だって勿体ない。
……でも、どうしても、塾に足を向けることが出来ないのだった。
(今日は、どこで時間を潰そう)
絵里はそんなことを考えていた。
時刻は、夜六時半より少し前。
講習は八時までなので、あとおよそ一時間三十分、仕事を終えた父が車で迎えに来るまで、何処かで時間を潰さなくてはならない。
この辺りは特に物騒というわけではないが、この暗い中で一人、公園のベンチなどで座っているのはぞっとしなかった。怪しい人がうろついてないとしても、警察官に見つかって補導でもされたら目も当てられない。翌日から学校の有名人になってしまう。
お小遣いはあまり使いたくないので、飲食店には入らない。
いつものように、書店かコンビニで立ち読みでもして時間を潰す。
毎回同じ店を利用していたら、店員に目を付けられてしまう。狭い界隈ではあったが、可能な限り違う店を絵里は探した。
そして今日、初めて入った路地のすぐ脇に、コンビニらしき店を見つけた。
今日はここにしよう。
〈いちくらマート〉
古びた店の看板は、そう明るく照らし出されていた。
◇◆◇
その店は、絵里の知るコンビニとは違う様相だった。
リノリウムではなく、コンクリートの三和土の床。
LEDではなく、切れ掛かった蛍光灯。
弁当などがあまり置いてなく、かわりにインスタント食品や菓子類がやたら豊富だった。
一言で言って前時代的だった。前世紀の駄菓子屋さんが、コンビニへと転換する過程を見ているようであった。
それでも構わなかった。時間が潰せれば。
絵里は真っ直ぐに雑誌コーナーへ向かい、呻いた。
成年向けしか置いてない。なぜ。
仕方なく牛乳を一パックだけ取ってレジに向かう。
カウンターの中にいるのは男の店員で、絵里が牛乳パックを持ってレジの前に立っても気が付く様子がなかった。
「あの」
絵里が声を掛けても、彼は振り向きもしなかった。
彼はカウンターに背を向けて椅子に座り、ヘッドホンを被り、モニターにかじり付いてゲームに興じていた。
ありえない。
こんな絵に描いたような態度の悪い店員が実在するなんて。いっそ感動すら覚えた。
普段の絵里だったら、牛乳パックを棚に戻して、そっと店を出ただろう。
しかし、この日の絵里はそうしなかった。
店員がプレイするゲーム画面を、レジカウンター越しに食い入るように見つめた。
モニターの中では、レトロなグラフィックで描かれた銀髪のお姫様が、黒いカタツムリのモンスターと戦闘を繰り広げていた。
緊迫感のあるBGMがヘッドホンから漏れ聞こえている。ボス戦だ。
お姫様の傍らには、旅の仲間が戦闘不能で倒れていた。お姫様自身も危うい。体力を表すHPバーがほんの少ししか残っておらず、橙色に点滅している。
モニターの中のお姫様は、いちかばちか最後の攻撃を仕掛けた。杖で敵に殴りかかる。そして黒いカタツムリの電撃を喰らって、お姫様も地に倒れ伏した。
画面が暗転し、「GAME OVER」の文字が表示される。
「あーもう! また死んだ! どうすりゃ良いんだよこれ!」
店員はヘッドホンを脱ぎ捨てて叫んだ。意外と幼い声。
モニターの横に置いてあるペットボトルを掴んでキャップをひねる。
絵里は、ここぞばかりに声を掛ける。
「あのー!」
「えっ。あっはい、いらっしゃいませ……」
ペットボトルを手にしたまま振り返った店員は、見知った顔だった。
クラスメイトの男子だ。名前はなんといったか……そう、市倉全智。
ちょっと濃い趣味のグループに属する子で、休み時間にはいつも友達とゲームかアニメの話をしていた。
ほとんど口を利いた記憶も無いが、「全智」という珍しい名前を憶えていた。
塾をサボった日に、仲良くないクラスメイトと偶然会うくらい間が悪いことはない。
早く店を出れば良かった。そう後悔する絵里に、市倉全智は言った。
「雪野じゃん。なにしてんの、こんなとこで」
「……ちょっと。偶々入っただけ」
「ふーん」
全智は、さして興味も無さそうに言うと、ペットボトルの紅茶をごくごく飲んだ。
やはり間が持たない。軽く挨拶を済ませて、会計をしたら速やかに出よう。
「市倉はなにしてるの。バイト?」
「中学生がバイト出来るわけないじゃん。俺んちだよ、ここ」
全智は、はっと笑ってヘッドホンを被り直し、再びこちらに背を向けて椅子に腰掛けた。会計はしてくれないのか……。
言われてみれば、店の看板には〈いちくらマート〉と書いてあった。
看板を目にした時は交流の無いクラスメイトの顔など思い出さなかったため、何の気なしに足を踏み入れてしまった。
背後の絵里を気にすることもなく、全智はコントローラーを操り、モニター内のカーソルを「つづきから」に合わせる。
画面が暗転し、暗くじめじめした坑道のような場所が映し出された。画面の右下に現在の地名が表示される。
「地下旧市街」。さっき惨敗を喫したボスの直前のセーブポイントだ。
ボスに接触し、戦闘に突入する。
戦闘開始直後から主人公は戦闘不能で、戦っているのはお姫様だけだ。
さっきと同じ展開になる。
遠距離攻撃を持たないお姫様は、回復魔法を使いながら杖で敵を殴りつけるが、強力な電撃のカウンターを浴びせられ、やがて回復が間に合わずに……。
「あっ、……あー! また!」
またも全滅。全智はヘッドホンを脱ぎ、だらりと両手を下げた。
絵里は、おずおずとアドバイスをしてみた。
「……あのさ、主人公を生き返らせて、火の魔法で攻撃すれば?」
「いいんだよこれで。『レトロゲー実況・アルネット王女一人旅でハードモードクリア』ってタイトルで動画投稿すんだから」
「じゃ、少し戻って、街で火の魔石を買い込めば? 初期装備を全部売って」
「装備売ったら、雑魚とも戦えなくなるじゃん……」
「どうせカタツムリ倒したら宝箱回収できるし」
「………………雪野さ、」
全智はぐるりと首を回して絵里を見上げてくる。
絵里はまたも後悔した。少しぺらぺらと喋り過ぎた。
「学校じゃゲームの話なんてしない癖に、なんで『イスカルディア』知ってんの? けっこう古いゲームなのに」
〈Iscardia-イスカルディア-〉。それがこのゲームのタイトルだった。
雪野大作がトータルデザイナーを務め、雪野――旧姓、山根良子がシナリオ構成と作中で使用される全楽曲の作曲を手掛けた。
『イスカルディア』の発売により、それまで鳴かず飛ばずだったゲーム制作会社は、一気にヒットメーカーに伸し上がった。発売から十数年を経た今でもファンから愛される、家庭用ロールプレイングゲームの名作。
異世界に召喚された主人公が、魔物に滅ぼされた亡国の王女アルネットと出会い、仲間を集め、絆を深め合いながら、闇の精霊を従える元凶、魔王アトラファに立ち向かっていくというストーリー。
テンポの良い戦闘や、キャラクターの魅力、豊富なサブシナリオでプレイヤーを飽きさせない工夫が好評を博した。
絵里は……迷った。
昔遊んだことがあると言ってお茶を濁すべきか。同好の士と思われて、学校で気安く声を掛けられるようになったら、ちょっと困る。
でも『イスカルディア』は、このゲームだけは……父の誇りで、母の形見だった。
だから、本当のことを言った。
「そのゲーム作ったの、うちのお父さんとお母さんだから」
それから、雪野絵里と市倉全智の、短くも奇妙な交流が始まった。
◇◆◇
絵里は塾をサボっては〈いちくらマート〉に通った。
〈いちくらマート〉は、今の絵里にとって居心地の良い場所だった。
店内では、いつも市倉全智が店番をしていた。とはいってもゲームをしているだけなのだから、店番と言えるのかは怪しい。
その日は、レジカウンターの前に丸椅子が置かれていた。
「雪野、いつもなかなか帰らないじゃん。立って見てるのも疲れるかと思って……」
「ありがと」
心なしか照れくさそうな後ろ頭に礼を言って、絵里は丸椅子に腰掛けた。
カウンターに百円玉を置き、牛乳パックにストローを刺す。
モニターを見ると、ゲームはすでに中盤に差し掛かっていた。
「……ちゃ~ら~ら~♪ ちゃららら~♪」
調子はずれな歌が聞こえて、絵里は思わず牛乳を噴き出してしまった。
全智がゲームのテーマ曲を口ずさんでいたのだった。
「あっ、汚ね! 雪野なにやってんだよ!」
「市倉が悪いんでしょ! ……何それ、ぶふ、ごほっ」
牛乳が気管に入ってむせた。
全智は、あーもう汚ねえなぁ、とぼやきながら、ウェットティッシュでカウンターを拭いてくれていた。
モニターは、アルネット王女が滅ぼされた王都を取り戻す決意を固めたシーンで止まっていた。魔物たちからの敗走、逃亡の日々から、攻勢に転じる場面だ。壮大なオープニング曲が流れる、物語の中盤の山場。
カウンターを拭き終えて椅子に座り直した全智の背中に、絵里は話し掛けてみた。
「……市倉は、塾とか行かないの?」
「んー、親は何にも。それに俺、期末で学年四位だったし」
何それ。羨ましい。
毎日ゲーム三昧のくせにこいつ、そんなに成績が良かったのか。
背後から送られてくる妬みの念波に気付くことなく、全智は続けた。
「……ウチ、ビンボーだからさー。家で勉強してんの」
「……うちだってそんなに」
「高校に行ったらバイトすんだ。それで大学に行って勉強して、ゲームクリエイターになるんだ」
「………………そうなんだ」
「や、今はゲームが好きだからそう思ってるだけ。たぶん本当は何でも良いんだ。必要とされて、活躍できることなら何でも。でもさ、いつか活躍するためには、それまでに力を付けておかねーとさ……」
全智は、夢を見つけていた。絵里とは違っていた。
やりたいことも見つからず、父親との距離に悩み、塾をサボっている絵里とは。
絵里は、黙って丸椅子から立ち上がった。
「あれ、もう帰んの?」
「うん」
「そっか。じゃまたな、雪野」
「……うん、またね」
絵里は短く挨拶を交わすと、足早に〈いちくらマート〉を出た。
全智を見下していた自分に気付いた。
毎日ゲームに没頭している市倉全智。彼の姿を見ることで安心を得ようとしていた。自分は塾をサボっておきながら。きっと将来のことも考えていない、成績だって自分より悪いに違いないと思い込んでいた。
でも、全智は絵里のずっと前を歩いていた。
恥ずかしかった。唇を噛んで俯きながら、絵里は夜道を歩いた。
この日以降、しばらくの間、絵里は〈いちくらマート〉を訪ねるのをやめた。
……その間も、父と話すことは出来なかった。
◇◆◇
一週間ぶりに〈いちくらマート〉を訪れた。
この一週間、絵里は何も変われなかった。
全智は、相変わらずレジカウンターの奥に座ってゲームをしていた。
「おー、久しぶりじゃん。一ヶ月ぶりくらい?」
「……一週間だよ。一ヶ月経ったら新学期始まってるよ」
くだらない冗談に受け答えしながら、絵里はカウンターに牛乳パックと百円玉を置いた。
奥のモニターを見ると、戦闘不能の主人公とアルネット王女の前で、巨大な黒いドラゴンが翼と尾を揺らめかせているのが見える。
ラストダンジョン突入の前哨戦となる空中戦だ。この黒いドラゴンを倒せば、魔王が待つ〈飛翔宮〉に入れるようになる。
「もうここまで来たんだ」
「まー、なんとか。でもコイツがどうしても倒せなくて……」
モニターの中で、アルネット王女が黒いドラゴンの尾の一撃を受けて倒れた。
全滅だ。これで記念すべき二〇〇回目だ、と全智が嘆く。
二〇〇回目って……彼はいつ寝てるんだろう。
「ブレスと魔法は装備品で防げるんだけどさぁ……」
元々、素の防御力が弱いアルネット王女は、物理攻撃に弱い。
連続して爪や尾の攻撃を受けると、どうしても回復が間に合わなくなる。
その上、黒いドラゴンは恐ろしくHPが高く、長期戦が避けられない……。
「もうこれ以上の装備は考えられないから、何とか攻撃を避けてくれるのを祈るしかないんだよなー」
そうして、二〇一回目の挑戦が始まる。
魔法は回復のために温存しなければならないので、杖で殴るという地味な攻撃をアルネット王女は何度も繰り返した。
ずいぶんと長い間、絵里はモニターを眺めていた。
二パック目の牛乳をストローで啜りながら、奮闘するアルネット王女を応援した。
願掛けというか、占いみたいなものだった。
もし……この挑戦で王女が黒いドラゴンを倒せたら、その時は今度こそ、ここに来るのを止めよう。そして、お父さんと話そう。
モニターの中の王女は瀕死だった。黒いドラゴンも、体力が減った証にグラフィックが変化していた。
黒いドラゴンが爪の攻撃を繰り出す。やはりもう駄目か。絵里は小さく息を吐いた。
しかし、画面の中のアルネット王女は攻撃を避けた。
「おっ、避けた」
コントローラーを手にした全智が、身を乗り出した。
アルネット王女が杖で殴り、また黒いドラゴンのターン。今度は尾の一撃だ。
「また物理かよ!」
全智が悲鳴を上げる。
だが……アルネット王女はまたも攻撃を避けた。
そして、最後の杖の一撃が黒いドラゴンを打ち据えた。
エフェクトと共に、ドラゴンの巨躯が震え、薄れていく――。
「やった……? やった!」
全智が喝采を叫ぶ。勝った。勝ってしまった。
絵里が呆然と見つめていたモニターは、しかし、勝利のファンファーレを鳴らす前に、突如としてブツンと切れた。
画面が真っ黒になる。
「……ウッソだろ!?」
立ち上がった全智がモニターに手を掛けようとした時――、
〈いちくらマート〉の、店内の全ての照明が落ちた。
「停電!?」
絵里も丸椅子から立ち上がった。
店の中だけではなく、店外にも明かりは見えなかった。街灯も。車が走る音も聞こえなくなった。下りのエレベーターに乗った時のような浮遊感が絵里を包んだ。
「雪野、棚から離れろ! こっちに回って、カウンターの下に――」
全智の声に従い、絵里は手探りでレジカウンターの内側に回ろうとした。
暗闇の中、一歩進むとそこに床は無かった。一瞬前まであったはずの床が。
「きゃ、……――――」
絵里は落下した。悲鳴すら奈落に飲み込まれた。
……とてつもなく長い距離と時間を、絵里は落下し続けた。
無数の星々が、足元から飛来し、頭上へと飛び去って行くのを見た。
◇◆◇
――《その日が来たら》――。
あの日、とてつもなく苦い果実を食べさせられた日、母に告げられた言葉が、唐突に脳裏に浮かび上がってくる。
――《旅立ちなさい、あたいの勇者》――。
絵里は、この日、世界から姿を消した。




