雨を呼ぶ魔物 ③
光弾は鋭い氷の針へと形を変え、闇を裂いて飛ぶ。
針は着弾の瞬間、影の姿を露わにした。
黒い渦巻きの殻。その表面を鈍い金色の線が幾筋も走り、模様を描いている。
攻撃を受けて驚いたのか、ネバネバした粘液にまみれた軟体が、殻の中に潜って隠れようとしていた。
軟体の頭部と思われる部位には、二対の触角が突き出ている。
「……なにあれすっごい気持ち悪い」
「あれはカタツムリだよ、コーリー」
「知ってるっ! 知ってるけど! あんなでっかいのは見たことない!」
雨を呼ぶ魔物の正体。それは黒い蝸牛だった。
しかしその大きさが尋常ではない。殻の高さがコーリーの背丈よりもある。
身体全体だと、牛や馬ほどもある巨大蝸牛だ。
何故雨を降らすのか。自分の住み良い環境を作るためか、獲物をおびき寄せるためか。定かではないが、確かに伝わってくるものもある。
「喰いたい」という衝動。蝸牛にとってコーリーたちは、餌だった。
殻に身を隠した蝸牛だったが、数秒たつと再び殻の中から姿を現し、こちらに向かって這い進んできた。
ランプの灯りが届く距離にまで接近すると、いよいよおぞましい異形が明らかになる。
人間の腕よりも太い触角が揺らめき、コーリーとアトラファの位置を探ろうとしているのが分かった。新しい「肉」を求めているのだった。
通路に散らばっていた、標本のようなネズミの骨の正体も分かった。
蝸牛は舌で食べ物の表面を削って食事をする。普通の蝸牛なら葉や樹皮などを食べるが、魔物化した生物の食性は肉食に変化する。以前戦った黒い雌鹿のように。
ネズミたちは、黒い蝸牛に舐め殺された犠牲者だったのだ。
毛皮も肉も、完全に無くなるまで――。
「そんな死に方、絶対にしたくないっ!」
コーリーは足元のランプを拾って後退した。
アトラファも更に二発、氷の針弾を撃ちながら距離を取る。
針弾は二発とも命中し、黒い蝸牛の体表を一部凍らせた。
黒い蝸牛はまたしても殻の中に隠れ……数秒後、何事もなかったかのように殻から這い出ては、コーリーたちの追跡を再開する。
「効いてないの……?」
「あのネバネバが身体を守ってるのかも」
アトラファは今度は殻を狙って撃った。
これも命中したが、黒い蝸牛は殻に引っ込むこともなく接近してくる。
当たり前ではあるが、殻の防御は本体よりも遥かに強固だ。
攻撃が通用しない。このまま追い縋られ、食われるのを待つだけなのか……。
「でも………………あいつ、遅くない?」
「ん、カタツムリだし」
黒い蝸牛の追撃は、遅かった。後退しながらも会話する余裕がある。
人が歩くくらいの速度で、触角を揺らしながらゆっくりと前進してくる。
魔物は素早い。
この黒い蝸牛も、蝸牛にしては驚異的といえる速度で移動している。しかし、元が蝸牛では……。
「アトラファ、走って逃げよう。魔物がいることは確認出来たんだから、報告すれば役所がギルドに討伐依頼を出してくれるかも」
「もうちょっと」
コーリーは、相手の足の遅さに付け込んで逃走を提案したが、アトラファが渋った。
どうして、とコーリーは言い募った。
相手の速度は遅く、捕まる危険は低いが、こっちの攻撃だって効かないのだ。
「……あいつは、どうやってネズミを捕まえたと思う?」
アトラファが、切迫した状況と関係ない疑問を口にする。
コーリーは苛立った。とにかく早く逃げるべきなのに。
「今どうだっていいよ、そんなの!」
「あいつは、わたしたちに追い付けないでいる。攻撃もしてこない。前に戦った鹿の魔物みたいな飛び道具を持ってない。なのに、どうやってすばしこいネズミを捕まえて餌に出来たと思う?」
「知らないよ! いいから早く逃げて、ギルドか役所に報告を……」
「コーリー、援護して」
アトラファは、こちらの言い分に全く耳を貸してくれなかった。
「援護……? 援護って。それより、」
「わたしの合図と同時に、風の砲弾を撃って」
「……無理だよ、合図と同時なんて。私、『騎士詠法』ってやつ出来ないもん」
そう告げると、アトラファがこちらを見た。
失望や落胆や、足手まといを見る眼差し――ではなかった。
いつもの、話が噛み合わない時のきょとんとした顔で、コーリーを見た。
「じゃあ、そこにいて」
それだけ言うと、アトラファは黒い蝸牛に向かって駆け出した。
ちょっと待って、と声を掛ける間もなかった。
氷の針弾は、残り二発。その二発をアトラファは同時に放った。
着弾。一発は殻に、もう一発は本体に。
黒い蝸牛が怯み、そこにショートソードを構えたアトラファが迫る。
その時――、
「なに?」
黒い蝸牛の触角の間に、青白い火花が散るのをコーリーは見た。
パチッという小さな音が聞こえた。
まさに斬り掛かろうとしていたアトラファは急停止し、あろうことかショートソードを手放した。
コーリーに確認できたのは、そこまでだった。
次の瞬間、灼光がコーリーの目を灼いた。
闇の地下旧市街が、その一瞬だけ白く染め抜かれた。
宙に放られたショートソードと、アトラファの後ろ姿が、白地に真っ黒な影となってコーリーの網膜に焼き付いた。
意識が途切れる――。
◇◆◇
「――あっ、……あっ……?」
何を、された……?
あの光は? アトラファは? どうなったの?
キーンと耳鳴りがする。目が眩んで何も見えない。
立っているのか座っているのか……。
とん、と肩を叩かれ、コーリーはびくりと身体を撥ねさせた。
黒い蝸牛に接触されたのだとすれば、一巻の終わりだ。
「――リー。コーリー。大丈夫? 起きてる?」
アトラファの声だった。心の底から、安堵した。
まだ視界は白くぼんやりとしていたが、アトラファの手を支えに立ち上がる。
アトラファの手を借り、一歩二歩と後退する。
後退しているということは……まだ戦いは終わっていない。コーリーたちは、未だ黒い蝸牛にゆっくりと追い詰められているのだった。
「……いま、何をされたの?」
「雷。あいつは雷を使う」
「雷って、ゴロゴロっていうあの雷?」
「そう。その雷。でも、自分のすごく近くでしか使えないみたい」
雷。それでネズミたちを感電死させ、餌にしていたのか。
アトラファは、ショートソードを避雷針にして避けていた。
速さも遠距離攻撃も持ち合わせていない、黒い蝸牛。ならば十分に近付いた時、致命的な何かを放ってくるということを、アトラファは読んでいた。
ネズミたちは、あるいは逆に黒い蝸牛を餌にしようとしたのかも知れない。しかし、黒い蝸牛は自らを侮って近付いたもの全てを雷で撃ち滅ぼし、糧としたのだ。
次第に視力が戻ってくる。
視力を失っていた間も手放さなかった、ランプの灯り。その明かりが届く端に、ずるりずるりと迫り来る黒い蝸牛の姿が見えた。
あいつは、まだ諦めていない。新鮮な肉を。コーリーたちを。
「もう無理だよ。勝てっこない。走って逃げよう、アトラファ」
遠距離からの攻撃は通じない。近寄れば雷で殺される。
ここで逃げたって臆病なんかじゃない。
王都でおそらく誰も気付いていない魔物の気配に気付き、その存在を確かめた。
それだけで十分すごいことだ。
逆に、今私たちが二人とも殺されてしまったらどうなる?
次に蝸牛の魔物に気付くのは誰? それは何日後か何ヶ月後か。その間ずっと雨が降り続くだろう。
今すぐに魔物をやっつけるのが重要なんじゃない。
重要なのは、この魔物の能力と危険性を、一刻も早く誰かに伝えることだ――。
しかし、アトラファはきょとんとコーリーを見返していた。
「なんで?」
「なんでって……今は逃げるの! あの魔物のことを伝えないと!」
「あいつの狩りの仕方は分かった。あとは倒すだけ」
「アトラファ……!」
頭を掻きむしりたくなる。なんでこんなに分からず屋なんだ。
アトラファは、再び始動鍵を詠唱する。
「――《凍てつく星の光、吐息に触れて粒となれ》」
あくまでも戦いを続行する姿勢だった。
コーリーは、一人で逃げようかとさえ考えた。
でも、でも……アトラファは南の森でコーリーのために戦ってくれた。
たった一晩、共に過ごしただけの、ほとんど見ず知らずのコーリーのために……。
「コーリーの短刀、貸して。わたしの剣はさっきの雷でだめになったから」
アトラファは完全にやる気だった。
あの難攻不落で、近付けば一撃必殺の雷を放つ、黒い蝸牛と決着を付ける気だ。
コーリーは震える手で自分の短刀をアトラファに渡した。
そして、迫り来る黒い蝸牛に対峙する。
勇気を振り絞って、始動鍵を唱える。私もやるしかない。
「さ、《賢き小さき疾きもの、幽き歌の運び手よ》」
「コーリーのタイミングで、撃って。わたしがそれに合わせる」
泣きそうになりながら、こくりと頷く。それで精一杯だった。
もはや一欠片の余裕も無い。なのにアトラファは要求を上乗せしてくる。
「強めに撃って。どこに当てても良いけど、絶対に外さないで」
強めにって何? 強めも弱めも無いんだけど。
それに絶対に外すなとか言われたら、逆に緊張が……集中が……。
コーリーは、目を回しながら始動鍵を完成させる。
「……《集いて繭の如くなれ、弾けて礫の如くなれ》っ!」
それと同時、アトラファが黒い蝸牛に突進した。
キキュン、とコーリーの手の中で凝縮した空気弾が、ほとんど暴発気味に撃ち放たれた。
いや、暴発したも同然だったが、方向だけは合っていた。
黒い蝸牛はアトラファの接近を感知した。再びパチッと触角の間に火花が散る。
その殻に、風の砲弾は当たった。
黒い蝸牛の身体が傾ぎ、一瞬だけ火花が消える。
その一瞬にアトラファは、短刀を二対の触角の間に突き立てた。
そしてすぐに跳び退って距離を取る。さらに一瞬遅れ――、
黒い蝸牛の、二度目の青白い閃光が、周囲の闇を灼き尽くした……。
◇◆◇
――――パチッ、パチチチッ。
弱々しい火花が、地下旧市街の闇に瞬いていた。
闇の中に佇むのは、濃紺のローブに金の眼の少女、アトラファ。
その足元には、黒い蝸牛がその巨体をぐにゃりと横たえていた。
「……どうして、カタツムリ自身は感電しないんだろうって思ってた」
アトラファが黒い蝸牛に突き立った短刀の柄を蹴ると、雷に晒された短刀はボロボロと崩れ去った。
黒い蝸牛は、粘液で精霊法や電撃から自分自身を保護していた。
しかし、短刀が刺さったことにより、強力な電撃を自身の体内へまで招き入れる羽目になった。
結果――。
黒い蝸牛は、自分が放った雷で自身の体内を焼き尽くされた。
「――《我が指先に口づけよ、氷雪の精霊》」
アトラファの右手に、光球が吸い込まれる。
その足元の黒い蝸牛は危機を感じ取ったのか、ひくりと触角を動かしたが、もはやこれまでだった。火花も完全に消え去っていた。
「《この手に触れしもの、凝固せよ》!」
アトラファが、黒い蝸牛の身体に触れる。
触れられた途端、黒い蝸牛の全身にパキキッと霜が走り、絶命した。
瞬く間に白い石と化す。その石化した死骸すらも、さらさらと崩れて形を失っていく。
魔物の最期だ。
後に残されるのは、赤黒い石。『血核』だけだった。
「か、勝った……」
コーリーは、ぺたんとその場に座り込んだ。地下通路の床はじめっと湿っていたが、もうどうだって良かった。
生きてる。
私も、アトラファも。
ふらふらのアトラファは、黒い蝸牛の死骸から出て来た『血核』を拾おうとし、
「あっ」
うっかりつま先で蹴って、水路にぽちゃんと落とした。
お金になるという『血核』。怖いけど、勿体ない……。
「………………」
「コーリー、飛び込んじゃダメ」
「飛び込まないよ!」
いまだ勢いを衰えず、ゴウゴウと音を立てて流れる水路。回収は無理だった。
◇◆◇
……二人は元来た道を辿り、真っ直ぐに帰還した。
帰りの行程では休憩を挟まなかった。
こんな暗く恐ろしい場所には、一秒だって長居したくなかった。
地上へと続く階段を途中まで上り、出口が見えた時、コーリーは歓声を上げた。
「あっ……、光……。アトラファ、雨、上がってるよ!」
「ん」
実に数日ぶりに見る日の光だというのに、アトラファは感慨も無く、すたすたとコーリーを追い越し、出口へと向かって行く。
アトラファ自身が人知れず元凶を探り当て、戦い、取り戻した光なのに、何ともそっけない態度だった。
外はもう夕暮れの時刻のようだ。間もなく晩の刻の鐘が鳴るだろう。
オレンジ色の光の中へと上って行くアトラファの背中を、コーリーは眩しく見上げた。
鳥のような子。自由に高く速く飛び、誰よりも遠くを見渡せる眼を持つ。
それは、不安でもあった。
アトラファは賢くて強い。でも独りだった。
いつか自分自身より強い魔物と出会った時、あるいは些細な失敗をした時、この子はあっさりと死んでしまうのではないか?
群れからはぐれた小鳥が、鷹に狙われるように。
速く飛ぶ鳥が、翼で風を捉えそこねた時、墜落してしまうように。
いつか、暗い森や遺跡の中で、独りで……。
「……ねぇ、アトラファ」
階段を踏む自分の足元を見ながら、コーリーは言った。
憧れからではない。今度は。
また拒絶されるかもしれない。それでも。
「私たち、やっぱりパーティを組まない? 私、足手まといだけどさ。一度断られたのに、勝手なお願いなんだけど、でも……」
それでも、一緒にいたいと思うよ。
「うん、いいよ」
「えっ」
意外な返答に、コーリーは顔を上げた。
もう、すぐそこが出口だった。
夕闇が差し迫り、振り向いたアトラファの背後に薄赤い空が広がっている。
夕日がちょうどアトラファの肩にかかり、逆光でその表情は見えなかった。
「いいよ。これからよろしくね、コーリー」
その声は、穏やかで優しかった。きっと笑顔だ。
どうしてアトラファが考えを変えて、コーリーを受け入れたのか分からなかった。
ただ嬉しさがこみ上げてきた。
仲間を――アトラファを支えられる自分になろう。迷子のコーリーではなく、強いコーリーに。
「うん! よろしくね、アトラファ!」
コーリーは階段を駆け上がって、アトラファと並んで街に出た。
――晩の刻を告げる鐘が鳴り響く。
二人の前途を祝福するかのように、厳かに。
夕闇の中で、不安を駆り立てるように、少しだけ不気味に――。




