知恵を尽くして、陸地を目指す
「せんせぇ思い付きましたっ!」
アリエス医師がぴょんと立ち上がる。
氷塊がぐらりと揺れる。足場が悪いのに、不用意に危険な行動をしないで欲しい。
しかし、アリエス医師は持っていた戦鎚の先端部分――皆に何故持っているのかと不信がられ、クルネイユが閉じ込められていた真珠を割る時に使われたアレ――を振りかぶり、えいっと投擲した。
それはけっこう遠くまで飛び、どぷんと水音を立てて湖底へと沈んで行った。
同時に、ちょっぴり皆が乗っている氷が動いた気がした。
クルネイユが感嘆する。
「おぉ……何か少し進んだ気がするです」
「でしょうクルネイユちゃん! こうして皆の荷物を一こずつ投げれば、反動で船は進むのですっ!」
「……これで皆助かるです?」
「それだと反動はあるけど、全員の荷物をみんな投げたとしても、ほとんど進めないよ。荷物を全部無くした時、まだ湖の上だったらってことも考えないと」
コーリーが言うと、せんせぇ……アリエス医師はむっと頬を膨らませた。
この人、子供っぽい所があって、どこか頼りない。
でも、アルネット王女の典医の一人で、客人――恩人であるアトラファに同行を指示されている位だから、医者としては申し分ない腕のはず。
溺れかけていたアトラファを救出する場面も見ていた。
「でも、反動か」
櫂の代わりになるような道具は持ち合わせていない。
アトラファの氷法術で、平べったい氷塊を作って貰えば……無理かな。アトラファの術の温度調節は目を見張るほど細やかだが、自在に想像通りの形に氷を形成できるとは思えない。そこまで出来たら、アトラファはとっくに陸まで続く氷の橋を架けている。
でも、アリエス医師は良いことを言ってくれた。
――やはり反動。反動を推進力にする。
◆◇◆
「アトラファ、聞いて欲しいんだけど」
「なに?」
コーリーが思い付いた作戦は……。
アトラファの氷法術で、自分たちが乗っている氷塊の隣に、もう一つ大きな氷の塊を作ってもらう。コーリーの風法術でそれを水平に接射する。すると水面に撃つよりかは、効率的に反動を得て行きたい方に進める。
「それしか無いと思う……けど」
「まだ何か問題があるのっ?」
「わたしとコーリーの気力が持たないと思う。気力が尽きたらもう……進めなくなってしまう」
「うっ……」
精霊法は習得したからといって、無限に使えるものではない。
訓練次第だけれど、使っているうちにいつか限界が来る。法術士はそうなった時の状態を「気力切れ」と呼び習わしている。
休息を挟めばまた使えるが……食糧も寝床もないこの状況……一回の挑戦で岸まで辿り着けなければ後がない。
コーリーとアトラファだけ、同行者が他に居なければ、アトラファは危険を冒す案を即決で採用しただろうと思う。
今回の場合、コーリー発案の方法で岸を目指したとしたら、おそらく、コーリーは道中で気力切れを起こしてしまいそう。
アトラファも不安に思っているからこそ、それに言及したのだろう。
そしたら、タミアもクルネイユもせんせぇも――。
◆◇◆
「あのあの、ウチ、キックしますから!」
「え?」
「反動が必要なんでしょ? コーリー先輩が疲れたら、ウチが氷をキックして反動を付けるので、大丈夫です!」
タミアが胸の前で両拳を構えて、鼻息を荒くして言った。
この子、こんな積極的な子だったっけ……いや最初からこんな感じだったな。とコーリーは思い直した。
コーリーが〈学びの塔〉を追い出される前の日、タミアは一人残って、寮の皆を守ろうとしていたのだ。
引っ込み思案で消極的だけど、他の人が背中にいる時には身体を張れる……それがタミアという子だった。
「あたしも協力するです!」
「クルちゃん……!」
タミアが晴れ晴れしい顔で、クルネイユを見た。
そうだよね。こんな極限状態でタミアが「やる」と決めたなら、クルネイユが見捨てるわけがない……二人は親友なんだから。
「あたし、氷法術が使えるです! アトラファさんくらいに一瞬は無理だけど、湖水を氷塊に変えるくらいだったら、たぶん時間かければ出来るです!」
「クルネイユ……」
コーリーは、安心からか少し涙腺が緩むのを感じた。
自身とアトラファだけの力で、皆を無事に助けなければいけないと気を負っていた。
でも後輩たちが協力してくれて……私たち、きっと助かるんだ。
そんな私たちの様子を、やや遠巻きに見守りつつ、アリエス医師が人差し指でそっと涙を拭っていた。
「皆で助け合う……青春、なんですね……っ!」
「いや氷を作ったら、せんせぇも一緒にキックするんですよ。遭難してる当事者ですよ、せんせぇも」
◆◇◆
「屍櫃の縁より這い出でよ、白き骸》――」
クルネイユの始動鍵を始めて聞くが、これまでに聞いたことのある誰のよりも仰々しいな、コーリーはこっそり思った。
低学年にして、すでに氷の初球を修めている才媛であることも知っている。
クルネイユが手をかざした前方の空間に、白い靄が立ち込め、湖面が軋む音を立てながら、徐々に凍って行く様子が見て取れた。
「《昏き双眸を見よ、受けよ冷冽なる抱擁》!」
「おぉー……」
クルネイユの始動鍵が完成する。
湖上に生まれた氷の塊は、ごりごり育っていくが、ある程度、コーリーたちが乗っている氷塊と同じくらいの大きさまで育ったところで、成長を止めてしまった。
術者であるクルネイユの気力が尽きたのだった。
「はぁ、はぁ……」
「すごいよ! 私がクルネイユの年齢だった時なんて、こんな術使えなかった!」
「でも、氷いっこ作るのにこんな時間掛かって……アトラファさんは皆を乗せられる大きさのを一瞬だったのに……氷作ってる間に、また沖に流されたかもです」
こんな状況だからか、いつも楽観的なクルネイユが弱音を吐く。
同じ氷法術士でも、アトラファとクルネイユでは比較にならない程に実力差が有るのは確かだが、まとまった大きさの氷塊を作る早さに差があるのは、実力差というよりは二人の扱う術の性質によるものだ、とコーリーは感じた。
アトラファの術は攻撃的で、触れた部分から加速的に凍結が伝播していく。
生き物相手だったら、触れたら死なせる程の威力の氷法術。
冒険者として魔物を狩っていく中で、中距離からの氷弾では決め手に欠けると感じたアトラファが、先輩冒険者であるフォコンドらの接近戦を参考に編み出した術なのかも。
クルネイユの術は、極低温の氷霧を一定範囲に出現させるというもの。
複数の敵を閉じ込めた空間にこの術を放ったら、威力絶大なのだろうけど、有効な場面が限定的で……言ったらなんだけども、殺意が込められてない。
アトラファの術みたいに反撃を許さずに敵を倒す、という決意が無い。
ただ、そんな決意は持たないで欲しい。
クルネイユとしては、敵対者が「こっち何か寒いな」「あっちに回り込むか」……という効果を期待しての効果なのだろうけど……コーリーの短い冒険者としての経験上、魔物は向かって来るし、決意を秘めた人間も怯まない。
クルネイユには、そんな怖いことを知らないでいて欲しい……。
いやっ、でも今回みたいに不意に魔物と遭遇することあるしな……先輩として教えた方が良いものだろうか。やらねばならぬ時があるという事を。
アルネット王女にも〈騎士詠法〉をアトラファが教えるとしていて、うやむやになっているし……。
この緊急時においては優先度の低い事柄に関して、考え込んでいたコーリーに、アトラファが声を掛ける。
「コーリー、クルネイユが作った氷が離れて行ってしまう」
「あっ、うん! そうだった。今はどこかの岸辺に辿り着くことだけ考えなきゃ」
◆◇◆
「――《集いて繭の如くなれ、弾けて礫の如くなれ》!」
自分が乗っている氷塊に背中をくっつけて撃つ。
コーリー自身も反動を受けるので、支えがないと吹っ飛んで湖に落ちてしまう。
風砲弾が炸裂し、皆が乗っている氷塊は大きく揺らぎながら動き始めた。
クルネイユが作った氷が遠ざかって行く。それを見て皆が「進んだ」という希望を得た。
方向感覚が未だに掴めないが、とにかく、自分たちが乗っている氷塊の真隣にもう一つ氷塊を作り出し、それを風法術で水平にぶっ飛ばせば、反対方向に進める。
「わっ、ちゃんと進んでるです!」
「ウチは不安……どっちに進んでるの? 東ってどっち?」
「せんせぇは、こっちでおおむね合ってると思いますっ! 西日があっちでしょ? だからこっちです。陽が沈んで何にも見えなくなってからが本当の恐怖ですっ」
……アリエス医師は、何故いちいち恐怖を煽る発言をするのだろう。
「陽が沈んだらまずい、方角が分からなくなる」という時間的な要素が、皆の心に焦りを生む……がしかし、アトラファの言葉でそれは払拭される。
「今日は晴れてるから平気。太陽が隠れたら月を見れば良い。おおよその方角が分かる」
「月って、太陽と同じように東から昇るってことくらいは知ってるけど……昼間でも見える時あるじゃない。青い空に白い月が浮かんでる時が」
「それは三日月の時期。今はかなり満月に近付いているから――」
アトラファはすっと東の水平線を指差した。
曰く、月という天体は、私たちから見える形状――新月、三日月、上弦・下弦の半月、満月――によって、東の端から出る時刻が違うらしい。
月は、日ごとに形を変えながら天体の中ではかなり高速に動くので、長距離移動する際に正確な方角を知るのには不向き。
けれど一里二里くらいの短い移動で、些少な誤差があっても問題ない場合には、藁をもすがる気持ちで頼りにするのもあり……ただし、水面とか広い荒野とか、高低差が無い地形に限る。山野で月の形や位置を頼りにしたら、やがて谷に阻まれて死ぬ。
……アトラファも怖いことを言うし。
間もなく日の入りが始まったら、逆方向から月の出も始まる。
そしたら、そっちに向かってひたすら進めばいいのだけど――。
◆◇◆
「――せーのっ!」
掛け声とともに、皆で氷をキックする。
コーリーは早々に気力切れを起こし、風法術は使用不能になった。
それなりに東へ進めたから、皆の生還に貢献できたとは思うけど……まだまだ未熟。情けない。
頑張ったのはアトラファとクルネイユで、二人が3対1くらいの割合で、休憩を挟みつつ氷を作ってくれていた。
それを皆で蹴って推進力を得る。
本当に長くて……体力の限界を感じる作業だった。
月が真上に来た時、今度こそ本当に方角が分からなくなり、一同は疲れもあって「夜明けまで待とうか」と議論になりかけた。
夜明けには東から陽が昇る。方角が分かる。
安全策と思えたその案に、皆が流されかけた時、クルネイユが反論を述べた。
「……それって救助を期待できる状況でのことです。コーリーのあねごも、あたしも、アトラファさんも、せんせぇもタミアだって……もう限界で、休めねーんです。休んだらもう動けなくなるです」
「クルちゃん。だから夜明けまで休憩しよって話を、みんなで……」
「……わたしはクルネイユの意見を支持する。今は『交代で休む』とか出来ない状況。全員で休んだら何処に流されるか分からないし、交代で休んだところで氷塊を動かせない」
全員が、死力を尽くして東の岸辺を目指すべき。
これが、アトラファとクルネイユの結論。
タミアは「むぅ」と唸ってから、何故かクルネイユではなくコーリーに向き直って言った。
「コーリー先輩! どっちが良いと思います!?」
「そうだなぁ……。ごめん、疲れてても進むべきだと思う」
タミアには悪いけど……体力回復の機会が無いのだ。
仮に、このまま氷塊の上で皆が眠ったとする。冷えるし食べてないしで、今よりも体力を消耗していることは必定。交代制にしたとしても寝床が氷であり食糧が無い以上は同様。
それでも、氷を作ってキックして進む。
やがて――、
「明かりが見えます! ……ウチの幻じゃないですよね!」
タミアの言葉に、皆がそちらを振り仰いだ。
点々と灯りが連なっているのが見える。星の光ではなく、明らかに人の営みの灯り……やった。生還した。
コーリーは、堪らなく嬉しかった。
◆◇◆
皆に、今どんな気持ちかを訊ねずにはいられなかったので、聞いた。
せんせぇ曰く、
「結局、馬車でハーナル州都に向かうんですね……アトラファさんが心配です」
この人、一応アルネット王女に任じられた、アトラファのためのお医者さんなのだった。奇行が目立つあまり忘れていた。
――タミア曰く、
「ウチ、生きてるだけで幸せです。アトラファさんとは……うーん、あんまり合わないかなぁ……性格が。言わないで下さいよ?」
でしょうね、としかコーリーには言いようがなかった。
何も説明されずに生水を飲まされたもんね。
あれに端を発した……言い切ることも出来ないが、あの件以降、タミアはアトラファの意見に反発気味であった気がする。
――クルネイユ曰く、
「アトラファさん、あたしらとそんなに年違わないのに、めちゃ格好良くないですかっ!? 隻腕……左腕が動かなくなったのだって、めちゃくちゃ強い魔物と戦って負傷したからですよね!? ……コーリーのあねご、そう言ってましたよねっ」
確かにそうだけど。
クルネイユは始動鍵の作り方といい、出会って間もないアトラファへの憧憬と思われる感情といい……感性に変な偏りがあるのでは、と思われた。
それが、何か変な癖を持つ人を引きよせるのでは……とも思った。
◆◇◆
ともかく、コーリーたちは漂流状態を脱し、岸辺に辿り着いた。
荷物も無事。これから灯りが見えた集落を目指すことになる。
アトラファの怪我を慮って船旅を選択したが、色々あって結局は陸路。
十分に休んだ後、馬車での移動になるだろう。
……それでも、生きていて良かった。
だよね、と問いかけると、アトラファは曖昧な表情で応えた。
「うん」
それだけで、生きてて良かったと思えた。




