幽霊船 ⑪
ひとまず、一〇一号室から荷物を引き上げる。
この際、荷物に執着すべきかとも思うコーリーなのだったが、中にはアトラファが大切にしている木のヘアブラシも入っている。
本人は何も言わないが、失くしたくない物なのだろう。
一〇二号室に心の準備が無いまま入るのは、めちゃくちゃ憚られたため、コーリーとアトラファ、タミアの三人は、扉にぴとっと耳をくっつけて中の様子を探ってみた。
さっきからあまり時間が経過していないので平気かと思いきや、かなり切羽詰ったクルネイユの喘ぎと、楽しそうなアリエス医師の声が聞こえてくる――。
「――はぁ、はぁ……もう飲めない、飲めないんですって! やぁっ……んっんっ、けぷ」
「おかわりは要らないのですねっ。……じゃ、お腹を押して良いですか。クルネイユちゃんの下腹のこの辺りを、ぎゅーって押しますねっ」
「嫌です、やめろです! や、やめて……うぐぅ」
「まだですか? ……もっと強く押しますねっ!」
「うっ、うぅ……嫌ぁ……。んっ、ぁっぁっ」
弱々しいクルネイユの呻きが何というか……。
内部の状況を聴いたコーリーとクルネイユは、顔を紫色にしてそっと扉から離れた。アトラファだけがじっと扉に張り付いて耳を澄ませている。
タミアと二人、耳を塞いで遠ざかる。
何故だろう……「水を飲ませてる」だけに過ぎないのに、めちゃくちゃに淫猥な感じになってる。クルネイユの声が耳にこびりついて離れない。
ちょっと前、ティトという年齢にそぐわない魅惑的なプロポーションの子と出会ったが、あの子のはまだ健康的な魅力だった。
反対にクルネイユは身体が小さいくせに……沼みたいな負の引力がある。
想定外だった。
◆◇◆
「……クルちゃんの性質なんです。何か変な癖の人を惹きつけるんです」
「た、助けなくて良いの? 何かすごく……やらし、」
「おしっこ漏らすとこまでは許容します。クルちゃんにとっては夢でしょう? 夢だったらかろうじて尊厳が守られる気がします」
「うへぇ」
タミアも突き抜けていた……クルネイユのこういう状況が平気なのだろうか。
とりあえずコーリーは、室内の媚態に聞き入っているアトラファを扉から引き剥がした。クルネイユは夢の中だからまだ良い――良くないんだけれども。
これは、アトラファに良くない影響を与えるとコーリーは咄嗟に判断した。同い年なのだが……アトラファはこういう事態とは無縁だと思い込んでいた。
それからクルネイユ。タミアが助けないなら、自分が助けないと。
一〇二号室に突入しようとするコーリーの、右手をアトラファが、左手をタミアが掴んで引き留めた。
振り返ると、アトラファが厳しい眼でこっちを見ていた。
「ダメ。コーリーは魔物の能力を見抜いているんだと思う……見抜いてるから、今クルネイユを助けても次の機会があると考えてる。でもダメ。次は無いから、今クルネイユを起こす」
反対側を振り返ると、タミアが複雑な面持ちでこちらを見つめ返している。
タミアは苦しげに言葉を紡いだ。
「ウチ、クルちゃんを助けたいんです。夢じゃなく本当のクルちゃんを」
「って言っても、本当のクルネイユは夢で起きた事を覚えてるんでしょ?」
夢の中で体験したことを、本物のクルネイユが憶えているとしたら……「拷問を受けている時、誰も助けに来てくれなかった」というのは心の傷になるのでは。
夢の中とはいえ……本人にとっては悪夢だろう。
「コーリー、次は無いの。都合よく他の魔物が襲ってきて船外に出られるなんて機会は、もう訪れない。食糧も……幻じゃない本当に栄養になる食糧も、あとクルネイユの分しか無い。だから――」
どんな手を使っても「今」クルネイユには夢から覚めてもらう。
アトラファが真剣な眼差しで訴えてくる。タミアも……。
二人の気持ちが伝わってきて、コーリーはふっと身体から力を抜いた。
「くっ」と無力な自分の足元を見る……ごめんね、クルネイユ――。
◆◇◆
「――ぁっぁっぁっ……嫌ぁ、」
――――ぷつん。
瞬間、室内からのクルネイユの声が途絶えた。
コーリーたちの視界も一瞬だけブレた。しかし、後には直前と変わらぬ船内の様子が、目の前にあるだけ……。
不意に室内からアリエス医師の声が聞こえてくる。
「あれぇ? クルネイユちゃんは何処に……一番いい所だったのに」
「! ……起きた」
それを聞いたアトラファが、ドアを蹴破った。
左足を軸に身体を半回転させた、見事な回し蹴りだった。
鍵が掛かっていないのだから、普通に開けて入れば良かったと思うのだが、それでも蹴破った。
寝台に腰掛けて、名残惜しそうに手をわきわきさせているアリエス医師が、ぎょっとした表情でこちらを見やる。
アトラファが叫ぶように訊ねる。
「クルネイユは!?」
「えっと、せんせぇの目の前で消えちゃいました……」
「……ならよし。みんな荷物持って。せんせぇも」
あらかじめ、まとめて置いた荷物を各々が手に取る。
「せんせぇ名残惜しいですっ」とのたまう変態アリエス医師も。
一〇二号室から出ると、廊下に連なっている別の客室のドアが、バタバタと波打つように開閉を繰り返していた……開け閉めする者など居ないのに。
その光景を見て、コーリーはぞっと背を粟立たせた。
「クルちゃん……何処にいるんですか?」
タミアが弱気を見せ始めたので、コーリーはその手を繋ぎ止める。
クルネイユの代わりじゃないけど、隣に居て不安をやわらげられるのなら。
もちろん、冒険者として事態を打開する策を練るのも忘れてはいない。
本物のクルネイユを探さなきゃ。
でも何処を探せば……。コーリーはちらっとアトラファを見る。
まだ頼ってるとは自覚しつつも、アトラファなら適切な助言をくれるはず。
「……また甲板を目指せば良いの?」
「んー、甲板からも出られると思うけど、それだとクルネイユを助け出せない」
「このバタバタしてるドアの、一室一室から探し出すの?」
「『入って来い』と言わんばかりに挑発してる客室の中には、クルネイユは居ない……別の場所、わたしたちが行こうとしなかった場所」
「行かなかった所……?」
そうだ――船底。
外に出ようと思い、上を目指したけれど、下には行ってない……。
船底がこの魔物の核心であるとすれば。
そこにクルネイユも、魔物本体もいるはず。




