ヘビトンボの魔物
危機が訪れると、本領を発揮して活発になるアトラファ。
そんな彼女に導かれるまま、クルネイユを客室に残した一行は後部甲板へと向かう。タミアはずっとクルネイユを気にしていた。
甲板へと通じる扉は開いていた。
コーリーが本気の風法術を使っても、壊すことが出来なかったのに。
差し込む光の中に飛び出し、久方ぶりの船外の空気を吸い込もうとした瞬間――かくん、と膝が折れた。
身体に力が入らない。ものすごく喉が渇いている。それに――、
「……。あれ? ウチ、身体おかしくなったのかな? 力が入らないし……お腹空いてるし、めちゃくちゃ水が飲みたい……」
「せんせぇもです……」
タミアとアリエス医師が、同じ体調不良を訴えている。
意見を求めてアトラファを見やると、彼女も憔悴した様子だった。
何か喋ろうとすると、カラカラに干からびた唇が切れて血が流れ出す。
それを右手の甲で拭い、付着した血の跡をしばし見つめた後、アトラファは言った。
「……こっちが現実。戻ってきた」
船外に出る、ということが幻惑から脱出する鍵だった。
幻の中で食事をしたという感覚は失われ、現実の渇きと空腹感が戻ってきた。
実際には丸二日近く飲み食いしていないので、体力も減っている。
こんな状態で魔物と戦えるのか。
それから重要なこと。アリエス医師がこの「現実」に居るということは――。
「アリエス先生、実在の人物だったんだね……!」
「? なに当たり前のことを。せんせぇはほんとに居ますよ。ほらほら」
「さりげなく女の子に接触しようとするの、止めた方が良いですよ」
「ふえぇ」
こんなだから、患者であるアトラファに信用されないのだと思う。
ともかく、今は船を襲撃している魔物への対処が優先。
船縁に駆け寄ると、水面を蹴立てる喫水線の側に、音も立てず泳ぐ影が見える。明らかに船を追って来ているし、かなり大きい――体長が長い。
蛇のようなシルエットだが、左右に身体をくねらせるのではなく、上下に動いて泳いでいる……。
速度はこっちが乗っている船よりも速い。体当たりなのだか噛みつきなのだか分からないが、損傷を受けるのはまずい。船底に穴でも空けられたら、仲良く溺れるのが確定してしまう。
「《賢き小さき疾きもの、儚き花の守り手よ》!」
船上から狙い撃つのを試みる。
相手は真っ直ぐ追いかけて来てるので、集中を切らさなければ当てられる。ついでに距離もさほど遠くはない。当てれば倒せる。
「《縒りて繭の如くなれ、弾けてつぶての如くなれ》!」
手の中で渦巻く気流を制御し、風の砲弾を解き放つ。
弾速があまり速くないことは理解しているのでタイミングも合わせる。うねるきりゅうの弾丸は、吸い込まれるように水面下の影に当たった。
――ぼしゅん!
大きな水しぶきが立つ。
これは仕留めたでしょ、とコーリーは思った。
水しぶきが治まった後、水面は平常に戻った――と思いきや、黒い影が水面へと浮上してくる。
「なんでっ!?」
「風法術だと、相手が水中に潜行してしまうとダメージ与えられないのでは……水が防護壁になってしまうから」
アトラファは冷静にそんなことを言うが……それはすなわち、あの蛇っぽいウネウネ泳ぐ魔物に対抗する手段が無いというのに等しい。
アトラファの術だって遠くに飛ばせるけど、水中の敵に撃っても水面を凍らせるだけだし……いや、アトラファには直接触れて凍らせるという必殺技があるが、水中の敵にそれをやったらアトラファも凍っちゃう。
「……水棲の魔物は倒し難いというのが定説」
「なんで? 攻撃が届かないから?」
「それもあるんだろうけど」
ここは湖だけど、そもそも人類が外洋に進出できないのは、海に魔物がいるせいなのだ、とアトラファは言う。
海の魔物は倒せない。鮫や鯨といった元々大型の生物が魔物化した場合、対抗する手段が無い。陸ならともかく船上だと逃げ場も無い。
だからこの世界に冒険者はいても、探検家はいない。
飛空船とやらが、お披露目されるまでは。
ベーンブル州の南の沖に、魔物が残した血核を捨てるという仕事は、奴隷が担っていた。無事に帰れたら身分を買い戻せるというのを条件に――。
そこまで言いつつ。アトラファは深くは触れない。
「まぁ、それは今どうでも良くて……とにかく外に出れた。ここは現実らしくて、せんせぇはどうやら現実の人っぽくって、魔物に襲撃されてる」
◆◇◆
喋ってる間に、またしても魔物の襲撃。
ズドン! という衝激にコーリーたちはよろめいた。
完全にこちらに狙いを定めている。
敵が水面に浮きあがる瞬間、その姿が露わになる。
体表に節が連なっており、身体の横からは突起が突き出ている。
タミアが叫んだ。
「ムカデ! ムカデです!」
「ふえぇ、せんせぇ虫苦手ですっ」
「んー、ムカデは泳ぐとき身体を横にくねらせるから……あれじゃない、水棲昆虫のヘビトンボの幼虫があんな姿をしてる」
「呑気に話してる場合じゃない! どうやって倒すの! ……ムカデって泳げるの初めて知ったよ!」
苛立って叫んでしまうコーリーであった。
どういう状況でアトラファはムカデが泳げるのを知ったのか……いや、それこそ今どうでもいい。タミアとアリエスの二人は、おそらく魔物に遭遇したことも無いし、その脅威も実感としては知らないだろう。
水中の魔物は倒せないし、お腹は減ってるし、どうすれば。
アトラファが言うことにはそもそも「水棲の魔物は倒すのが難しい」のだそう。
水中という領域では、地上ほど人間は自在に立ち回れない、それが一番の理由。
各州が――特に食糧不足に喘いでいるアイオリア州が、新たな開墾地を探すべく海洋探検に乗り出さないのは、海の魔物と戦える兵器を人類が持っていないため。
寄る辺ない洋上で鯨や鮫の魔物と遭遇したら、船団の全滅は避けられない。
撤退不可能な船上で、魔物の固有能力を探りつつ戦わねばならず、元々が大型の生物が魔物化したものとなれば、その図体から繰り出される破壊力は計り知れない。
――でも、
「ベーンブルでは鯨肉の塩漬けが内陸まで流通してたし、冒険者が討伐した魔物の血核は、港からだいぶ遠い南の海に捨ててるって聞いたけど……?」
「漁は沿岸に寄りついたクジラを狙ってる。あと血核を遠洋に捨てに行くのは……もとは奴隷の仕事だった」
奴隷たちが身分を買い戻すため、決死の思いで乗っていたのがその船だった。
イスカルデ女王以後、奴隷制が廃止された今となっては、犯罪者たちの刑期を減らすために志願を募っているようだが、思うように人数が集まらないそうだ。
ともかく、水の魔物は手強く、それが人類の海への進出を阻んでいるのだとアトラファは締めくくった。
「……でも戦ったことがあって、勝ったんでしょ?」
「ない。わたし海を見たこと無いし……ベーンブルに行こうとしたことはあったけど、行けなかった。クジラや鮫も聞いたことが有るだけ」
「えぇ……」
「でも、あれはクジラじゃなくて虫だし。比較的にちょろいと言える」
アトラファは湖面を指差して言った。
指差す先には、水しぶきを蹴立ててプティウルス号に迫る魔物の影が見える。
いや……比較的にと言われても魔物は魔物だし。
それに幻惑の能力は――問うと「あいつじゃない」とアトラファは答えた。
魔物はたぶん二体いる、と。
◆◇◆
「タミアは一〇一号室に行って、わたしの荷物を取ってきて」
「えっ、えとえと……何でですか?」
「クルネイユが居るかも確認して。居なかったとしても絶対に探さないで」
「え? え? ……すみませんウチ、お二人の荷物の、どっちがどっちのだとか、分からないんですけど」
「じゃあ二つとも一度に運んで! 速く行って。繰り返すけどクルネイユが居なくても探さないで!」
かなり厳しく急かされたタミアは、納得はしていない様子ながらも船内へと引き換えして行った。
まずいな、とコーリーは思っていた。相棒であるアトラファが何を考えているのか分からない。こういう時の彼女は思考を飛躍して結論に辿り着いていて、こちらがそれを共有する前に指示を飛ばしてしまっている。
そんな時、わりと断定口調で話すものだから、タミアみたいな子だと異論を挟めない。
人狼事件の時、それで取り返しの付かない失敗をしかけた。
「アトラファ、もっと慎重に考えたら……」
「今、慎重さは必要ない。せんせぇがここに居るということは……クルネイユが幻惑の核だったということ。じっとしてれば、わたしたちは船から脱出することが出来ずに餌食だったのに、こいつは間違った」
選択するような知恵を持ち合わせていたら、の話だけど。
というより、他に選択の余地が無かったのかも、とアトラファは続ける。
「分かってると思うけど、魔物は二体いる――幻覚を見せてるやつと、この船に直接攻撃を仕掛けてきてるやつ」
「それは、そうかもと思ってたけど」
「間違ったのは幻惑を見せてる方。偶然にも暴力系ヘビトンボの魔物が襲ってきたから、やむを得ずわたしたちを解放して対処に当たらせる他なくなった」
「……偶然?」
――にしては状況が出来すぎな気が。
ともかく、現状コーリーたちが囚われている「幻惑する魔物」は、囚人をじわじわ弱らせる以外には直接的な攻撃力を持っていない。代わりに、ひとたび囚われたが最後、幻惑されていることを自覚していても、内側から脱出することは出来ない。
一方、今まさに攻撃を加えているヘビトンボ? とかの魔物は物理的攻撃力に長けているようだ。
アリエス医師が、甲板の縁にしがみついて実況している。
「わわっ、齧ってますよっ! 船底から浸水させて、沈没させるつもりですっ!」
「――《凍てつく星の光、吐息に触れて粒となれ》」
アトラファが始動鍵を唱えるのを聞き、コーリーはぎょっとした。
その眼差しがこちらを向く。「援護して」と合図しているのが伝わった。こっちからの合図は全然受け取らないくせに……。
その左腕は動かない。右手で船縁を掴み、足をかけ――アトラファは跳躍した。
真下には、ヘビトンボの魔物が首をもたげて待ち構えている。




